海外こぼれ話(4)思い出すままに

機中から望んだ雪をかぶったアンデス山脈

思わぬところで思わぬ人に(続):
前号で、海外の思わぬところで思わぬ人と出会った話を書きました。自分の友人とか身内に会ったわけですが、いわゆる著名人にお会いしたこともありました。
南米から引き揚げるとき、なんとしてもマチュピチュへは行きたいと考えていました。長いこと留守にしたお詫びに、ディズニーへ連れて行こうかと家族をロスまで呼んでいたのに、現場での最後の詰めの仕事がもたついてしまい、内心は焦燥に駆られていました。当初考えていた、ぺルーから国際列車でボリビアへ入る計画はあきらめ、マチュピチュだけに絞りましたが、それでもまったく余裕のない計画でした。それに、わるいことは重なるもので、予約を取っていたエクアドル・キトーから利用するエールフランス機がオーバーブッキングされていて、出航地のボゴタ(コロンビア)で満席になっており搭乗できないと言われたのです。信頼できるAFなればこそ予約していたのに、これには参りました。瞬間、これでマチュピチュ行はあきらめか、と思いました。それでも、救い主が現われるものなのですね。ロビーで待っている間にとなりのシートに座った日系ペルー人で弁護士だという男性が、「俺もリマまでだ。何とかするからついて来い」と誘ってくれたのです。彼はアエロペルーのカウンターへ行き、南米独特のアミーゴ(友達)ベースでグワヤキルーリマ間のチケット2枚を確保し、つぎはAFのカウンターで猛烈なるクレームをしてグワヤキルまでのローカル便のシートも取ってくれたのです。いかにも南米らしい想像もしなかった出国時のトラブルでしたが、その解決策もいかにも南米的でした。彼は、その日一日わたしに付き合ってくれましたが、グワヤキルでは出発までの時間を利用して、わたしにとっては最後となるセビッチェ(2012年4月号『食のたのしみ』参照)を一緒に食しました。彼曰く、「セビッチェはやはりエクアドルの味が一番だ。これを食べなければ、俺は何のためにここへ来たかわからない」、とまで言っていました。

サクサイワマン城塞の石積み

翌早朝の機でリマからクスコ(インカ帝国の都)へ飛びました。機内から望んだ雪をかぶったアンデスの山並みは感動的でした。クスコでは午前中はホテルで休憩、午後は、ツアーを企画してくれたリマのKINJYOトラベルの係員がクスコ市内・近郊の案内をしてくれました。石積みで有名なサクサイワマン城塞遺跡へ行き、そろそろホテルに戻ろうとしたとき、少しはなれた高台に、手を大きく振り回すような体操をしている一人の男性がいました。そのまわりを数人の人が囲んでいます。顔は確認できませんでしたが、案内人の話では日本からテレビの撮影に来ているのだそうで、男性は「とらさん」という人だ、と言っていました。あの辺り、もう海抜3800メートルを超える高地で、日本から来たのにあのような体操をして、よく大丈夫だなと感心したものでした。

マチュピチュの遺跡にて

翌日の朝の7時、マチュピチュへ向かうディーゼル・カーに乗り込みました。日本ではもう使われていないような古い車両でした。たしか数両連結でしたが、たまたま昨日のテレビ撮影のクルーと一緒の車両で、そのクルーのまわりだけは明るく、にぎやかでした。輪の中心に、まぎれもなく「寅さん」がいました。マチュピチュの最寄り駅アグアス・カリエンテスまで4時間ほど、そこから遺跡のある山頂までバスで30分ほど上ります。寅さん一行の姿は車内になく、バスが山頂のホテル前に到着した時には姿が見えましたから、タクシーに分乗とか、別のチャーターした車で上がって来たのでしょう。その日のうちにクスコへもどらなければならないわたしは、先を急ぎました。霧に包まれたマチュピチュは、まさに息をのむような光景でした。そのとき受けた感動は、そのご行ったグランド・キャニオンの圧倒的されるような光景、そして2000年以上前のローマ時代にタイムスリップしたポンペイの遺跡とともに、いまでも胸をしめつけられる思いでいます。いつまでも遺跡の中でたたずんでいたかったのですが、夕刻前にはそこを離れねばなりませんでした。バスに乗り込むとき、そばにいた寅さんに別れを言いますと、あの小さな細い目に笑みうかべて、「ああ、そう。ごくろうさん」と言って、片手をちょっと上げました。まるでスタッフにでも声をかけているようでした。
大好きだった寅さん、「さようなら」。

エスメラルダスの漁師

食べ物について2点:
海外で経験した食べ物については、上述したように、かつて書いたことがあります。その中でふれなかったことについて2点補遺しようと思います。1点は車海老についてです。太平洋に面したエクアドルでは、漁港という漁港で車海老、それも日本では大歓迎されそうな大きな立派なのが獲れていました。必然的に料理の中心はその車海老ということになり、どこのレストランでもメインディッシュは車海老です。日本では高級料理であるだけに、はじめのうちは、「おっ!」っと、目を瞠ります。しかし、何回か食するうちに、大味ですし、調理の仕方も日本人向きではないことがわかります。要は、おいしくないのです。目を瞠っただけに、その反動は大きく、1、2か月もすれば、いやぁもう十分っていう気になってしまいます。あとはせいぜい、店が変われば少しは味も違うかな、という期待感だけが頼りです。こんなことを2年間も経験したのですから、車海老は、その姿を見ただけでもうたくさんという気分になってしまいました。その反動は、帰国してからが大きかったですね。車海老のトラウマというか、アレルギー反応的な症状が出て、見ただけで震えが出てしまうのです。そんな状態は半年ほどつづいたでしょうか。もともとエビが大好物だということはなく、さりとて嫌いだということもありませんでしたので、日本で生活する以上、エビを食べないというわけにはいかないでしょうから、半年を過ぎるころから口にするよう努めたのです。はじめのうちは、天丼で試しました。天丼であれば、汁が下のご飯によくしみ込んでいておいしく、エビも1本に止めてもらい、何とか食べることができました。そして1年を過ぎるころから、丼もの以外も口にすることができるようになりました。とはいえ、いまでも、積極的に車海老を注文することはなく、丼ものでもエビは1本だけ、天ぷらそばを注文するときでも、エビは入れずに、できるだけ野菜の天ぷらに止めるようにしています。エクアドルでの車海老、わたしは恨めしい思いでおります。

アルジェ・ベンガナ邸内の食堂

もう1点は納豆です。ところ変わって北アフリカのアルジェで居住したベンガナ邸での食事は、たまに隣家(大使館)からお呼ばれされたり、アルジェ市内のホテルのレストランでの外食以外は二人のアルジェリア女性の調理してくれた食事でした。お米は日本からの資材搬入時に持ち込みましたが、そのほかは現地産の食材でした。お米は最高級に近いものを出荷したのですが、なにせ船便だったため、味はだいぶ落ちてしまいました。とはいえ日本米には違いありません。それを北アフリカで食することができたということは、たいへん恵まれていたと言えるでしょう。日本食といえばもう一品、途中から赴任して来た人に、乾燥納豆を持ち込んでもらいました。「糸引き納豆」というのでしょうか。乾燥した納豆に水を加えて、冷蔵庫内で乾燥させることで通常の納豆のようにするのです。結構おいしく、数人いた日本人の間では好評だったのですが、これが大問題を引き起こしてしまいました。わたしなどは、とくに気にはならなかったのですが、調理担当の現地女性にはたまらない臭気だったようです。どちらかといえば気性の激しさを感じさせるベルベル人(北アフリカの原住民)女性としてはめずらしいほど、温厚でおしとやかな感じの家政婦までが、臭いが部屋中にこもってしまい、とても我慢できないし、冷蔵庫もしばらく使えない、と切々と訴えてきたのです。そして、ベンガナ家の他の屋敷と兼務していた執事も駆けつけてきて、部屋に入るなり顔をしかめて逃げ出す有様で、これには参りました。たしかに日本でも、よく関西のほうでは納豆の臭いを嫌うようですし、嫌がるものを強いることもなかろうと、結局、水で戻して食べるのではなく、ふりかけみたいに直接ご飯にかけて食べるようにして、納豆問題、なんとか納めた次第です。

    

(2018年06月)

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