わたしの大好きな仏像7体

泉涌寺・楊貴妃観音像

古寺巡礼・古都逍遥とつづいたところで、ついでにわたしの大好きな仏像7体について書くことにします。ただし、こうしたことを書くことが無謀だということ、十分理解をしての上です。わたし自身、仏像鑑賞が好きだというだけで、仏像の研究をしたこともない素人にすぎません。それに、わが国にどれだけの仏像が存在しているのか知りませんし、そのうちのほんのわずかな数しか見てはいないのですから、本来なら仏像を選ぶなんて偉そうなことの出来ようはずはありません。だからといって、人間に対するのと同じように、仏像に一目で魅かれてしまっても決してわるいわけではないでしょうから、その思いで7体の仏像、それに番外として2体を選びました。いずれも拝顔した瞬間に惹きつけられ仏像ばかりで、その多くは二度、三度と拝みに行っています。ところで、仏像には時代を代表する数多くのすぐれた作品があります。法隆寺に見られる飛鳥時代の諸像、奈良時代前期、薬師寺に見られる銅造の白鳳仏、後期になって素材・技法に多様性をもつようになった豊満な天平仏、平安前期になると東寺に代表される一木造・彩色に特徴のある仏さま、それが後期には寄木造りに変じ、鎌倉期には「慶派」の仏師たちがいきいきとした写実的な造仏の華を開き、室町・江戸へとつづく。その中からすぐれた作品を挙げていけば、それだけで相当の数になることでしょう。わたしの選んだ作品からは、そうした名品は、あるていど意識的に省きました。それでも、何点かは、皆さまおなじみの作品があると思います。美しいものにあこがれる気持ちは、誰しも共通のものがあるからです。それと、選んだ9点の像は、如来像1、菩薩像3、明王部1、天部3、その他1、と一通りの仏像がすべて含まれています。素材・技法としては脱乾漆造が阿修羅像と伎芸天の2点、他は木造で、銅造、塑造のものがありませんが、わが国の仏像は元来が木を材料にした像が多いわけですから、結果的にはごく一般的な像を選んだということになると思います。以下、拝観順になっています。

広隆寺・弥勒菩薩

1)京都 広隆寺・弥勒菩薩半跏像(国宝 一木造)
昭和35年のことでしたが、京都の学生さんがこの像の美しさに魅かれてついふれてしまい、左手薬指を折ってしまったということがありました。許されないこととはいえ、気持ちがわからないでもなかったこともあり、わたしが古寺をめぐるようになって最初に拝したのがこの仏像です。まさに一目で魅かれてしまい、像から離れがたい思いにかられたこと鮮明に覚えております。その後も、家族と一緒に二度ほど拝観していますが、この像のすばらしさについては大方の仏像愛好者からうなずいていただけるのではないでしょうか。昭和25年制定の「文化財保護法」によって新国宝として彫刻第1号として指定されたのも当然、の思いをつよくしております。むろん第1号といってもこの一点だけでなく、戦前に指定された旧国宝を一旦すべて重要文化財とし、その中からとくに優れた作品が新国宝として新たに指定されたわけですから、他の名だたる仏像と一緒にということになります。奈良斑鳩の中宮寺の半跏思惟像も同じ弥勒菩薩半跏像でいずれ劣らぬ秀作ですが、中宮寺々伝ではこの像は如意輪観音で同寺の本尊だったようです。そのため、本によっては、伝如意輪観音像とか弥勒菩薩像、あるいは菩薩半跏像(岩波書店『大和の古寺』)などと表現されていますが、名称はどうであれ、美しいその姿にはかわりありません。弥勒菩薩は兜率天(仏教世界にある須弥山の上にある浄土の世界のこと)で修行中に、ブッダから自分が亡きあと仏(如来)として須弥山(しゅみせん)へもどり、衆生を済度(迷いの苦しみから救う)することを託された菩薩です。したがって半跏思惟は、どうすれば衆生(しゅじょう)を救えるのかを思案しているお姿を表わしているわけですから、同じ美しい姿であっても、上体を前にうつむかせた広隆寺の像の方が、わたしにはよりありがたく感じられます。

興福寺・阿修羅像

2)奈良 興福寺・阿修羅像(国宝 脱乾漆造・彩色)
はじめての一人旅で京都から奈良へ移動して最初に訪れたのが興福寺、教科書などでおなじみだった阿修羅像を拝観するためでした。もう50年以上も前のことで、そのころ、像は旧宝物収蔵庫(現在は同じ場所に新たに建てられた国宝館がある)のうす暗い中に収まっていました。もう記憶が薄れて他の八部衆と一緒だったかどうか、阿修羅像ばかりに気をとられていて、覚えていません。阿修羅のお顔は若々しく、乙女にも見まがうほどに清純さにあふれてはいますが、須弥山を支配する帝釈天やその配下の四天王・三十二将を相手にアシュラのごとく戦っただけに、凛々(りり)しさを感じさせる一方で、憂いを含んだ面立ちから内面にかかえた苦悩を感じさせました。それにしても、阿修羅のお顔は、場の雰囲気、見る角度、光の状態などで表情が豊かに変わり、写真からではとても感じ取れないすばらしさがあります。その後も家族と一緒にいくどか奈良でお会いし、お堂建設のために流浪の旅をされていた平成21年に東京へ来られ、その折には入館に1時間半待たされ、鑑賞は30分に限定されましたが、何年振りかにお目にかかれ、嬉しく感じたものでした。いまは、再建された国宝館に収まっているようですが、昨年拝観された知人の話しでは、「明るい照明に照らし出され、しらけた姿を晒していた」とのこと。わたしはそんなお姿、見たくないと思っています。
3)奈良 秋篠寺・伎芸天(重文 頭部脱乾漆造・体幹部木造)
この像もまた、あまりにも有名でフアンの多い像です。たぶん、阿修羅像を拝観したときと同じ時期に秋篠寺へ訪山したと記憶しています。伎芸天はインドのミューズの神のことで、顔かたちが見目うるわしく、豊満な肢体もまた艶麗なポーズであり、後補(頭部は天平、肢体は鎌倉期に木で補作)でありながら不自然さをまったく感じさせない、みごとなものです。見ているだけでも、ついうっとりとしてしまう思いです。
4)大和 浄瑠璃寺・吉祥(きちじょう)天立像(重文 木造・彩色)
南都大安寺で、「ぜひ行かれたら」とすすめられて行ったのが南山城の浄瑠璃寺でした。何れも国宝である本堂、三重塔、同寺が九体寺と通称される謂れである九躯の阿弥陀如来坐像、四天王立像すべてがすばらしい中で、わたしが惹きつけられたのは像高90センチと小ぶりな吉祥天でした。下ぶくれのふくよかな面立ち、ぽっちゃりした体つき、現代はともかく、ひと頃の日本人にもっとも親しまれた女性のタイプではなかったでしょうか。華麗な装飾、右手は与願の印に掌をさしのべる姿、男性にとっては、もうメロメロです。でも、彼女はインドの福の神である毘沙門天の妻で、毘沙門天すなわち仏教界にあっては、須弥山の中腹にあって帝釈天の命により仏教世界を守護する四天王の一将、多聞天のことです。うっかり吉祥天に流し目でも送ろうものなら多聞天の持つ鉾か宝棒で一撃をくらうこと必至です。以下、余談ながら、頼んだわけでもないのにわたしの孫娘の名にこの寺の字がつけられています。長女の一番下の娘が璃の字をつかい朱璃(しゅり)、次女の生まれたばかりの娘が瑠奈(ルナ)です。その名にあやかって、末永く吉祥に恵まれるよう願っています。

興福寺・無着菩薩像

5)奈良 興福寺・北円堂無着菩薩像(国宝 寄木造・彩色)
もう四半世紀前になりますが、滞在していた神戸から横浜へもどる機会を利用して娘と一緒に京都経由で奈良に旅したことがありました。立ち寄った興福寺では北円堂の特別公開をしており、娘と二人、ラッキーとばかりお堂へ入りました。堂内では中尊の弥勒如来坐像(広隆寺とは異なり、ここでは悟りを開いて菩薩から如来になった姿)が、脇侍として無著(むちゃく)・世親の両菩薩像を従え、四天王に四方を守られた豪華な様子で迎えてくれました。諸像すべてが運慶派の手により、そしてお堂そのものも国宝のしっかりした造り、すべてを一挙に目にすることのできた至福のときでした。なかでもわたしの心を惹きつけたのは、堂に入った瞬間に目の合った無著菩薩でした。菩薩の体からはある種のオーラを感じ、感電でもしたかのようなショックをうけました。そのときはまだ知識がなかったのですが、ご兄弟である両菩薩はインド・ガンダーラに生まれた学僧で、玄奘三蔵の『西域・インド紀行』の中にもしばしばその名が出てきます。興福寺の宗派である法相(ほっそう)宗の宗義をまとめた、興福寺にとっては、いわば宗祖になるのでしょう。厳しい修行で鍛えた強健な体幹、拝観するだけで大きな力がいただけたような像でした。
6)京都 泉涌寺・楊貴妃観音像(重文 木造・彩色)
東山36峰といえば京都人以外でもなじみが深く、耳ざわりもよく、わたしの好きな言葉となっています。泉涌寺はその南端に位置する月輪(がちりん)山を背に位置しています。皇室とのゆかりがつよく、「御寺(みてら)」と尊称されています。京都駅に近く、東福寺へは何度か訪れてはいても隣接するこの寺は存外遠く感じられ、足を延ばすことはありませんでした。10数年前になりますか、所属していた会の総会が京都であったとき、時間をやりくりして思い切って訪山しました。仁和寺もそうですが、皇室とゆかりのある寺は訪れる人影も少なく、楚々とした感じで気持ちの良いものです。時間の関係で長居もできず、そろそろ帰ろうと大門までもどった際、なにげなく「観音堂」の案内板に気づき、寄ってみてびっくりしました。像高1メートルそこそこの小柄ながら、堂内はあふれんばかりの気品で満ちていました。その美しさから、そして中国(南宋)から請来されたことから楊貴妃の名がつけられたのでしょうが、その名にふさわしい美しい像で、購入してきた写真はいまでもわたしの部屋に飾られています。わたしの地元に近い横須賀は、基地の街というイメージがありますが、ひと山越えれば古寺が多く、重文クラスの仏像を拝むことができます。その一つ衣笠・清雲寺にも、南宋請来だという「滝見観音像」があります。やはり品のいい仏さまですが、都から離れた横須賀になぜこのような像があるのか、不思議に思っています。
7)京都 永観堂・みかえり阿弥陀仏(重文 木造)
京都でわたしの大好きな寺の一つに南禅寺があります。その境内にある疏水の水道橋は、TVドラマで撮影スポットとしてよく出てきますから、ご存知の方も多いでしょう。南禅寺の三門を出て、勅使門の手前を右に折れて東へ大きくまくような道が鹿ヶ谷通りで、そのまま北へ上がると銀閣寺に出ます。鹿ヶ谷通りは、途中で疏水分流に沿って歩く哲学の道に分かれますが、その少し手前に永観堂(正式には禅林寺)があります。本尊になっている「みかえり阿弥陀仏」と同山中興の祖である永観(ようかんが正式名)との逸話から永観堂の方が通じやすく、地名では永観(えいかん)の名が用いられています。逸話というのは、永観が阿弥陀仏のまわりを行道(読経しながら仏のまわりを回ること)していた際、阿弥陀が須弥壇から下りて一緒に行道をはじめたことに驚いた永観が立ち止ったところ、阿弥陀が左肩越しに振り返り、「永観おそし」と声をかけたというのです。阿弥陀仏が見返ったお顔のまま造仏されたそうで、人の横顔というのは正面とは異なって魅力的なもの、仏像でも同じことで、わたしは「みかえり阿弥陀仏」が大好きです。こういった仏像の例、わが国には少ないようです。じつは鎌倉・扇ガ谷の淨光明寺に、国の重文に指定された阿弥陀如来像と両脇侍像(観音・勢至菩薩)がありますが、その中の観音菩薩像がほんの少しですが、中尊のほうへ顔を向けているのです。その姿は、彼岸にいる阿弥陀如来に対して、「現世の人間の救済はわたしにお任せください。代わりに来世の安穏はお願いしますね」、と語りかけているようで、ありがたさと同時にほほえましさを感じています。
番外8)奈良東大寺・重源坐像(国宝 木造)
番外9)横浜称名寺光明院・大威徳明王像(重文 木造彩色)
番外になってしまいましたが、大好きな像2点です。共に運慶の作です。重源坐像は秘仏としてふだんは俊乗堂に収まっていますが、昨年末に金沢文庫で開催された特別展『東大寺―鎌倉再建と華厳興隆』のためにわざわざ横浜へお越しくださいました。そのおり像の前で、二人の若き女性が長いことじっと手を合わせいたのが印象的でした。重源上人から「気」をいただいていたのでしょうか。重源信奉者として嬉しいことでした。大威徳明王像は近年発見された像で、小さい像ながら、仏敵を威圧するすさまじい忿怒相はさすが運慶の手だと思わせます。

(2014年4月)

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