わたしのシルクロード

中国TV局・玄奘法師の跡を辿る車

誤解をまねかぬよう、はじめにお断わりしておきますが、わたしはシルクロードには行ったことがありません。しかし、なぜか少年時代からシルクロードにはあこがれていました。そのきっかけが何だったのか、正直なところよくわかりません。愛読した『西遊記』は、唐の玄奘三蔵法師がシルクロードを通って天竺(現在のインド)に至り大乗経典を持ち帰った史実を、孫悟空などの弟子を主人公にして、道中襲いかかる魔物から三蔵法師を護るといった面白い小説です。少年だったわたしには『西遊記』からシルクロードを結びつけることはできなかったでしょうから、たぶん少年雑誌などに載った何かの記事から刺激を受けたのだと思います。わたしに限らず、シルクロードにあこがれを持っている日本人は多いのではないでしょうか。戦前から学生放歌の代表であった『デカンショ節』の替え歌に、

「万里の長城で 小便すれば コリャコリャ
ゴビの砂漠に 虹が立つ ヨーイヨーイデッカンショ」

というのがあり、よく歌われたものですが、シルクロードの、まだ取っかかりに過ぎないゴビ砂漠にさえも、日本人にしてみればロマンを感じていたのだと思います。

海のシルクロード館とアンフォラの壺

シルクロードといえば、日本人にとっては中国西域の砂漠を往く道として、そこにロマンを感じさせますが、その中国は、少し前までは今と違って鎖国状態が長くつづいており、外国人が気安く入国できる状況ではありませんでしたから、シルクロードへ行くなんてことは夢のまた夢のような状態でした。成人になってから、忘れかけていたシルクロードを意識するきっかけを与えてくれたのは、1988年に奈良市内で催された「なら・シルクロード博」でした。「シルクロードの終着点は奈良だ」という説、はじめのうちはこじつけだなと思っていましたが、たしかに奈良・正倉院の収蔵物などを考えれば納得できるようになり、「なるほど!」という気になってきます。それに、わたし自身が「なら・シルクロード博」計画に若干なりと関係するようになって、すっかりシルクロードに取りつかれてしまいました。経緯についての詳細はもう記憶が薄れてしまいましたが、大方の内容はこんなことでした。NHKの「シルクロード取材班」がシリア・タルトス沖で発見・発掘した150個ほどのアンフォラの壺をモチーフにして、シルクロードは砂漠だけではなく「海のシルクロード」もあったのだということで「海のシルクロード館」を一緒に計画しようと、NHKからわたしの所属していた会社に話を持ちかけられたのです。プラント建設が主だった会社でしたから、本来なら「いやいや、とても手に負えません」ということになったかもしれませんが、幸いなことに僥倖(ぎょうこう)に恵まれたのです。一つには、社内で新しい分野への進出を求める機運が醸成されつつあったこと、もう一つは、社内の若い人の中にNHKの要望に十分応え得る人材が育っていたことです。とくに、わたしの大学の後輩の一人(K君と仮称しておきます)がデザイン面で優れた才能に恵まれていました。それに気づいたのは、何かのスケッチを頼んだ際に「すぐエスキスしてみます」と言ったことでした。いうまでもなく、エスキスはデザイン系の学生なら日常的によく使う用語であり、卒論が溶接でこちこちの構造系の学生だったわたしですら使っていたのですが、20数年もプラント建設に従事している間に、もうすっかり忘れてしまっていたのです。他愛ないといえば、まったく他愛ない話ですが、わたしはそれだけで彼に惚れ込んでしまいました。「海のシルクロード館」計画はさっそく着手され、会社の会議室に集まっての打合せが始まりました。プロデューサーの立場としてNHKの渡部清氏、「なら・シルクロード博」の施設全般を監修される建築家菊竹清訓氏(2011年末に逝去)の事務所スタッフ2、3名、建築家仙田満氏(当時東京工大教授)、そして会社からも数名ほど出席したでしょうか。わたしも、はじめのうちは、数々の番組制作に携わってこられた渡部氏の話し、建築家グループの、自分にはない意匠系の方の発想などが面白く、興味を持って参加していたのですが、そのうち話についていけないままにいつのまにか脱落の憂き目にあいました。残念なことでしたが、社会人として味わったことのない得難い経験でした。基本構想がまとまり、実施設計の段階からは、K君は空環計画研究所の田中俊行氏のもとへ出向してまとめあげ、「海のシルクロード館」はぶじに「なら・シルクロード博」の目玉パビリオンの一つとして登場しました。映像関係はNHKがついていましたし、ギリシャ政府の厚意で提供された古代船キレニア号の運搬・据付はプラント建設会社のお手のもの、バラエティに富んだ内容の「海のシルクロード館」はかなり好評だったようです。皆さまの中にも、見に行かれた方もいらっしゃるかと思います。

シルクロード列車の旅ツアー・パンフレット

「なら・シルクロード博」は、ねむっていたわたしのシルクロードへの思いに火をつけてくれました。それから2、3年経ったころ、とある旅行代理店で「シルクロード列車の旅12日間」というツアー・パンフが目につきました。JR東日本の企画で、北京から空路で河西回廊最西端の町ウルムチへ飛び、そこから中国自慢の特別仕様「チャイナ・オリエント急行」で河西回廊を北京へもどる3,774キロの列車の旅というわけです。途中車内で4泊して車窓からシルクロードを眺め、3泊はトルファン、敦煌、そしてシルクロードの出発点西安などの拠点で下車して名所・旧跡を訪ね、市内の高級賓館(ホテル)で泊まる、という豪華なツアーでした。わたしは食指が動きました。何よりも、列車や市内の高級賓館ならばトイレの心配はないだろうという思いからでした。ちょうどそのころ中国・天津で工事引き合いの話しがあり、現地調査に行った人から「トイレのひどさには参った」と聞いていましたので、痔もちのわたしにはウォシュレット付トイレが必須の条件だったからです。といっても仕事の都合で、おいそれと参加するわけにはいかず、「悠久のロマンであるシルクロードは逃げやしない」、と自分の思いを封じ込んでいました。いつかチャンスはめぐってくるさ、自らをなぐさめるうちに年月は過ぎ去っていくばかりでした。2002年には、連れ合いの方が「俳画教室」の仲間と一緒に写生ツアーで一足先に訪中をして、西安で兵馬俑を観て感激し、大同の雲崗石窟などの見学を楽しんで来ました。中国へ足を踏み入れたことのないわたしにとっては、うらやむ気持でいっぱいでした。

中央アジアのシルクロード

シルクロードとの係わりは、思いもかけないことで三度訪れました。2005年の夏になって、中央アジア・ウズベキスタンの首都タシケントへ訪問することになったのです。中央アジアへの訪問ははじめてのことで、正直に申してまったく土地カンがなく、ソ連のアフガニスタン侵攻時、山々がつらなるアフガニスタンへ重い戦車がどこから入ったのだろう、と以前から不思議に思っていたほどです。実際に行ってみて、当地の地図をまざまざと眺めていますと、ソ連邦解体以前の中央アジア諸国はソ連領であり、アフガニスタンとは国境を接していたことがわかります。アフガニスタンへはウズベキスタン最南端の町テルメズでアムダリヤ川の深い渓谷にかかる橋梁を渡って侵攻したようです。ちなみに、ブッシュ大統領のアフガニスタン侵攻もその橋からで、その当時は、ウズベキスタンはアメリカの軍事基地化していたそうです。そこまでわかったところで、さらに調べてみますと、冒頭でふれた玄奘三蔵法師の天竺入りもほぼこのルートだったのです。

中国TV局のコンボイ

ウズベキスタンへは足掛け3年の間に都合4回入国しましたが、2006年秋のある日、止まっていたホテルの駐車場に8台ほどの四輪駆動車のコンボイが止まっていました。どうやら中国のTV局の車で、玄奘三蔵法師の歩いた道を辿ろうという企画のようでした。ホテルの顔見知りのボーイの話しでは、中国側からいったんカザフスタンへ入国し、同国の旧首都だったアルマトゥ(中国のウルムチから国際列車が通っている)を経由してウズベキスタンの東隣のキルギスへ入り、首都ビシュケクからウズベキスタンのフェルガナ盆地を経てタシケントへ着いたとのことでした。タシケントからは三蔵法師の歩いた道をサマルカンドまで行き、そこから南下して国境の町テルメズへ向かい、アフガニスタンへ入国したのち有名なバーミヤン遺跡(タリバンによって爆破された石仏で有名)などを訪ねて、ガンダーラ経由でインドへと向かう予定らしいとのことでした。ただし、中央アジア諸国の山岳地帯は国境線が入り組んでおり、ウズベキスタン南隣のタジキスタンへの入国ビザの取得も必要なので、2日ほどはタシケント滞在になる、というようなことを言っていました。コンボイに刺激されたわたしは、ウズベキスタン滞在の機会を利用して、なんとかシルクロードの一端でも見ることができないものかと考えました。

キルギスとの国境周辺

念ずれば通じるのか、タシケントでコンサルをしていた鉄骨会社から、自社の山の保養所へ行ってみないかとの誘いを受けたのです。かの地の地理には疎かったので、どちらへ向かったのかはよくは分からなかったのですが、どうやらタシケントの北東100キロほどの所にある人工湖(同国有数の保養地だとか)の先を、さらに山中に入ったところに保養所はあったようです。すぐそばには同国の名山と称されるチムガン山(3310メートル)が聳えていました。保養所で食事をし、腹ごなしに散歩しようということで、案内を買って出てくれた保養所管理人の息子さんと通訳との3人で近くの山へ分け入りました。峨々とした岩山の肌をえぐるように流れる渓流沿いの道で、途中、銃を肩にかけた国境警備の若い兵士のパトロール姿が望見できましたので、キルギスとの国境に近かったのでしょう。内心はドキリとしましたが、案内人の手を上げた合図に応えていましたので、馴染みの住人だとわかってくれたのでしょう。そうこうするうちに、ここから先は行けないという地点に達しましたが、そこから東の方角に向けてシャッターを切ったのが、上に掲載した写真です。手前の山向こうにキルギスとの国境線があり、遠くにかすかに見える雪山が天山山脈の西端かと思われます。雪山の左手後方(方角としては北東に当る)には求法(ぐほう)の旅をした三蔵法師が通った天山北道のタラス(ウズベク・キルギス・カザフ三国の国境線に近いが、国土としてはカザフスタン領)があり、そこから東に進めば、有名な清池(現キルギスのイシク・クル湖)やアク・ベシム遺跡、さらにはるか遠くトルファン、敦煌とつづき、中国に至るというわけです。アク・ベシム遺跡は近年になって仏教寺院跡が発掘され、唐代の西の護りであった砕葉城(スイアーブ)であることが判明したそうで、だとすれば三蔵法師がこの地に立ち寄った際は突厥の領地であり、法師は突厥の可汗(国王か?)に歓待されたことが法師の『西域・インド紀行』に記されています。短い時間でしたが、わたしは思いをシルクロードにはせ、陶酔した気持ちでしばし山中に佇んでいました。「そのていどのことで、シルクロードを語ってくれるな」、とすでに歩かれた方から言われそうですが、わたしにとってのシルクロードはここまで、淋しいですが、おそらくもう訪れる機会は得られそうもありません。

(注記)玄奘三蔵法師が記した書としては『大唐西域記』が著名ですが、この書はインド・西域の地理書的な性格であって、旅行記としては『大慈恩寺三蔵法師伝』の ほうが詳しいとのこと。わたしが読んだ『西域・インド紀行』(長澤和俊 訳 講談社学術文庫)は、その旅行記の日本語訳の書名です。

(2013年5月)

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