わが家のお宝5点

ベルベル人の銀細工

わたしの好きなTV番組のひとつに『開運なんでも鑑定団』があります。出てくる作品に対して、自分の眼識力がいかばかりのものかを知る意味でも、たいへん面白く思っております。神戸にいたころ、三宮から元町にかけて店を開いている半ば露店みたいな古物商を冷やかし半分で回るのが楽しみでした。店内には明や清朝、あるいは李朝の青磁・白磁、端渓だと称する硯(すずり)、日本の「やきもの」でも、かなり多彩なものが置いてあり、店の主人のウンチクをかたむけた説明に聞惚れたものでした。なかでも、付けられた安値に疑問を呈したわたしに対して、「この茶碗にこの値だったら、ふつうのお客さんはこれが本物でないことがすぐわかるでしょう。なまじ高い値をつければ、お客さんは迷ってしまい、そこで、客の眼識と店との駆け引きになるのです」、というようなことを言っていました。その主人はさらに、「うちだって、もっと立派な店構えなら、こんな品物は置かないよ。中途半端ではない、もっとましな真剣勝負の出来そうなものを置くさ」と語っていました。番組の中で、見た瞬間に贋作だとわかるような作品にふかく思い入れをする出場者がいて気の毒にと思う反面、「えっ!まだそんなすごい作品が世の中に埋もれていたのか」、と驚かされることもしばしばあります。
わたしには、経済的な理由もあって、いわゆる「骨董趣味」にはまったということはありません。むかし山口県で現場勤務したことがあり、その当時「萩焼」に多少はまりましたが、だからといってボーナスにまで手をつけてしまう、ということはありませんでしたから、わが家には、お宝と称せるような代物はありません。ただその中で自分が気に入り、大事にしている品物が何点かありますので、そのうち次の5点を選んでご紹介したいと思います。

● 下村観山の色紙
● 小林立堂の掛軸
● 三輪休和(第10代休雪)の萩焼・夫婦茶碗
● エクアドル・アタカメス海岸で発掘した土器と土偶
● アルジェリア・ベルベル人の銀細工

下村観山の色紙

下村観山は、言わずと知れた横山大観と並び称される日本画草創期の大家で、のちの日本画の巨匠たちに大きな影響を与えた画家として高く評価されています。そんなすごい大家の作品が、と驚かないでください。じつは所詮は色紙に過ぎませんし、絵そのものも、何を描いたのかよくわかりません。見方によっていろいろ想像できるような、彼が得意とした「朦朧体」ではありませんが、もうろうとした絵です。ただし、落款に関しては、印影そのものはもう薄れてはっきりしませんが、署名そのものは観山に間違いありません。それに出処は、わたしの連れ合いの身内が、大正・昭和初期の美術評論家として知られた石川宰三郎からいただいた、ということで確かなものなのです。そんなわけで、色紙とはいえ、大家下村観山の作品だということで、お宝として大切にしています。

小林立堂の掛軸

小林立堂と言っても、知る人はいないと思います。日本画家の川崎小虎(長女が東山魁夷画伯夫人)の弟子といわれていますが、定かなことは分かりません。落款も、立堂と読むのでは?というていどで、『美術年鑑』を調べて、それなら小林立堂だとわたしが勝手に決めているだけなのです。そんな不確かな画家の絵がなぜお宝なのか、と怪訝に思われる向きもおありかと思いますが、下村観山の色紙とは対照的に、こちらはあくまでも絵そのものに魅せられたためです。この絵も石川宰三郎がらみで入手したもので、当初は掛軸でしたが、せまい我が家ではとても掛けられませんし、絵そのものも傷み、黄ばみもあるため、入手してすぐに額装にして飾っております。『渓流釣り』と自分で名付けたこの絵からは、棹を手にした釣り人が流れの中の魚の動きに全神経を集中する一方で、足元の大きな魚籠(びく)にかまわず、釣れる釣れないにこだわらない無心のこころが伝わってきて、一幅の宗教画を思わせる泰然とした雰囲気を漂わせています。あまりの静寂さに瀬音すら消されてしまい、傍らに咲く山百合の花が深山を思わせる、そんな絵に、無名の作者とはいえ、わたしは魅せられ、お宝だと思っているのです。

三輪休和の夫婦茶碗

山口県に行きますと、さすが萩焼の地元だけあって、県内いたるところで萩焼を中心とした陶器店があります。わたしの住んでいた宇部・小野田界隈でも、多くの店、それも特定の作家を専門に扱う店まであって、休日などよくのぞき歩きをしたものです。ときにはお世話になった方への贈りもの、あるいは知人への結婚祝い品を求めて、車を駆って山陰の萩市内、あるいは長門湯本界隈に点在する窯元を訪ねたこともありました。当時は結婚したての頃で、むろん給料は安かったのですが、それでも、たとえば田原淘兵衛(12代 県無形文化財保持者)さんの茶碗などは、まだその気になれば手が届く値段でした(そのご湯田温泉に行った際に覘いた店で30万円という値札にびっくりしましたが)。その頃、萩焼作家の頂点に立っていたのは第10代の三輪休雪(のちに人間国宝に指定)でした。わたしが宇部に滞在していたころ、弟の節夫さんに11代休雪を譲り(現在は11代のご子息が12代を襲名)、自らは引退して休和を号すようになっていました。わたしは、どうしても休和さんの作品が欲しくて、いくどか店に入っては空しく手ぶらで出てくるといったことを繰り返しましたが、結局、(抹茶)茶碗には手が届かず、一対の夫婦茶碗でがまんすることにしました。それが写真の湯飲みです。本音をはけば、人間国宝の湯飲みだということでとても使用できず(それでは萩の良さが出ないのは承知していますが)、日常は、専ら文化功労者吉賀大眉さんのご子息将夫(はたお)さんの若かりし頃の作品を使用しており、休和の作品はたまに手にするだけです。今でもなお手にするたびに、あのとき多少無理してでも茶碗を買っておけば、と苦渋の思いでおりますが、それでも休和の作品ということでその湯飲みの手触りを楽しんでおり、おくればせながら日常使い込むようにして、「萩の七化け」を楽しもうかと思っております。

バルディビアの土器・土偶

南米エクアドルでわたしが滞在していたのは、同国の北端で隣国コロンビアとの国境に近い太平洋に面した港町・エスメラルダス(2009年8月号参照)でした。エクアドルからコロンビアにかけての太平洋岸は、紀元前2500〜3000年頃に狩猟と漁猟とを営む定住生活者がすでに小さな村落を形成しており、素朴ですが多様性に富んだ縄目模様のある土器を作り出していたと言われています。縄目模様という点で、日本における縄文式土器との係わりを指摘する学説もあるようですが、太平洋をへだてて遠く離れた両国を関連付けることは唐突のように思われる反面、ポリネシア人など太平洋海洋民族の存在などを考えますと、そう突拍子もない説ではないな、と思っています。太平洋岸のこの文化、発見地の地名をとってバルディビア(Valdivia)文化と称されています。いずれにしても、バルディビア期以降土器・土偶製造の伝統があり、紀元前500年前後には、いくつかの独立した首長制社会と文化圏が成立していたようで、エスメラルダス周辺はアタカメス文化圏と称されるようです。
エスメラルダスの海岸をラス・パルマス(ヤシの意)と称し、名前だけから想像すればヤシの木が映える美しい海岸のイメージですが、じつは然(さ)に非ずで、わたしたちは通常はこの海岸を避け、海岸沿いに西へ20数キロ離れたアタカメス海岸まで足を延ばして泳いだものでした。そこまで行けば、青い海とはとても言えませんが、まあなんとか泳げましたし、それだけでなく別の楽しみもあったのです。この辺り、波打ち際から少し離れたところ、地表から数十センチも掘っていくと、土器や土偶を見つけることができたのです。いつも必ずというわけにはいきませんが、まるで宝物さがしみたいな興奮を味わうことができました。写真は、その掘り出し物です。もう40年近く前のことで、記憶は薄れているのですが、土器に関しては、今なお見つけたときの興奮を覚えております。ただ、土偶の方は、さてそれを自分で掘り出したものだったか、あるいは地元の店か住人から買ったものなのか、記憶が茫々として定かではありません。ただ、遠く南米から持ち帰った宝物として、アンデス山中・イバラの工房まで行って求めた木の彫物とともに大切にしているのです。

北アフリカの原住民ベルベル人(2011年10月、11月号参照)の細工した銀製品というのは、銀の質の良さ、細工のすばらしさで高く評価されているそうで、行ったことはありませんが、隣国モロッコでは国の代表的な民芸品になっているようです。アルジェでは、治安上からゆっくり買い物をすることは許されず、専らウインドー・ショッピングでした。そんな中でわたしの目を惹いたのは、ちょっと気のきいたギャラリーなどに掲げられていた銀細工製品でした。中に入ってゆっくり鑑賞しようにも、警護官にせかされますので思うように鑑賞はできませんでしたが、目を惹く作品もあり、帰国時までになんとか手に入れたいものと思っていました。そんなとき、アルジェで親しくなった萩原宏章さんが、ここで記念になるような物を購入するならベルベル人の銀製品がいいとアドバイスしてくれ、かつ1冊の本を恵贈くださいました。同国の民芸品について書かれた本で、黒の総皮で表装され、金の箔押しで”QUESTIONS SUR L’ART POPULAIRE”と題名の入った立派な本でした。巻末には跋(ばつ)代わりでしょうか、萩原さんの丁重なる文章が書かれています。萩原さんはわたしより4歳ほど年長、多摩美で吉阪隆正先生の教えを受け、1961年にフランス政府招聘給費留学生に選ばれた方です。パリのエコールデポザールなどで建築・国土整備開発を学び、D.P.L.G.(フランス政府公認建築士 2010年4月号参照)を取得して、1977年にアルジェリアに渡って同国国土開発公庫で地方都市の都市計画に従事されていました。アルジェに次ぐ第2の都市オランで大きな都市計画の話しがあり、これから着手というときに「アルジェの危機」(数年にわたるテロの頻発)が始まり、それまで住んでいたアルジェ市内・カスバは危険だということで大使館に避難し、以後嘱託職員として働いていました。彼が吉阪先生の弟子だということを知って、先生の遺稿『乾燥なめくじ』(相模書房 1982年刊)を贈呈したところ、日本を離れて久しいこともあって、たいへん喜んでくださり、皮表紙の本はそのお返しだったのでしょう。あまつさえ、彼が知り合いの現地女性リマさんに適切な指示を与えてくれたおかげで手に入れたのが、名工ベンラチドさんの作品、冒頭写真の銀製品というわけです。作品の良し悪しはともかく、わたしにとってはアルジェリアへの思いのこもったお宝なのです。書斎に飾られたこのお宝を見るたびに、今はパリにいるはずの萩原さん、そして、日本に滞在の経験もあり、大の日本びいきだったリマさんも、今は結婚して幸せな生活をしているだろうな、と時折思い出しては懐かしんでおります。

(2013年4月)

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