建築家アンリ・ゲイダン

建築家アンリ・ゲイダンの新聞記事が出て間もなくの2月24日、わたしは件(くだん)の教会を見るために、地下鉄外苑前駅に向かいました。その日は、2月とはいえ日ざしが明るく、コートも不要なほど暖かい日でした。当初、せめて外観だけでも、そしてうまくいけば教会の人に頼んで内部も、という程度の気持だったのですが、行った日は水曜日、運よく毎週水曜日はチャーチ・ツアーがあって、教会建築の内部をゆっくりと見ることができたのです。教会の長老と思しき方の説明付で、通常は15分のところを、設計者の知人ということで、特別に30分ほど掛けて、設計のコンセプトから、教会内の音響についてまで懇切丁寧に説明して下さり、たいへんラッキーなことでした。その日は、「ランチタイム・メディテーション」と称した特別な時間帯も設けられていて、三色の音色を出せる特製のオルガン演奏に耳を傾けながら、しばし瞑想のひとときを過ごすことができ、アンリ・ゲイダンのことを偲びつつ、まさに、至福のひとときでした。
建築家アンリ・ゲイダンとの出会いは、そう、20年も前になるのでしょうか。きっかけは、記憶が薄れてしまい、もう茫々としております。かすかな記憶を呼びもどしてみれば、東京に温水を利用したレジャーランド建設の計画があり、その種の施設設計に優れた経験のあるフランスの設計会社の社長さんが来日し、わたしが当時所属していた会社も温泉利用の健康施設を手がけていた関係で、来社したことがきっかけだったのでしょう。c.r.c.社長の金子文子さんは、フランスでの滞在が長く、来日したフランスの設計会社の通訳を兼ねたコンサルタントをなさっていました。同時に、日本で建築設計事務所c.r.c.を主宰されており、そこに所属していたのがアンリだったわけです。当時30歳になったばかりでしょうか、日本人と比較しても背丈はさほど大きくなく、若々しいというよりは、むしろ初々しさを感じさせる好漢でした。

彼の経歴についてわたしが知る限りのことを書きあげるなら;
フランス・マルセイユ生まれ
マルセイユLUMINY大学・建築科卒
D.P.L.G.(フランス政府公認建築士)取得
1984年〜南仏を中心に建築・都市計画のプロジェクトに 参画し、のちパリやスウェーデン・ストックホルム などで活動 パリ日仏文化会館コンペに応募 1989年〜来日し、御茶ノ水駅再開発計画コンペに応募 2位入選
1991年〜金子文子さんの事務所入社、以後、日本において 金子さんとペアで活動中
ということになるでしょうか。

はじめてゲイダンに会った際、彼が持参した御茶ノ水駅再開発計画コンペの応募模型の写真を見せられたときには、日ごろ堅苦しい箱型の建築パース(建物の全体の様子がわかる透視図のこと)を見慣れていた目には、いかにも斬新的で、目からウロコが落ちる思いでした。その後、金子さんの設計事務所との提携を深める意味で、両社共用の会社リーフレットを作成しました。いずこの会社でも宣伝用のパンフレットは見栄えのよいものを作成しますので、中にはセンスのよい、すばらしいものもあります。しかし、そのとき一緒に作成したリーフレットは、文中で使われたフレーズ、用いられた写真、そして色調を含めて、小ぶりながらすばらしく、他社のものと比較しても遜色のない出来ばえだったと思っています。リーフレットにはフランス大使館(経済商務部)からも、お二人に関してのつぎのような推薦文も寄せられていました。抜粋しますと;
「彼女(金子さん)の資質は、フランス語をみごとに話すといったところにあるのではなく、言葉を超えた部分、まず何よりもフランスのメトード(英語のmethodに該当するフランス語で、フランス人特有の物の考え方の意か?)と、その心理に対する深い造詣が、緻密で正確な(二国間の)仲立ちを可能にしている。アンリ・ゲイダンは、フランスおよびスウェーデンで修業を積んだ後、数年前から日本で仕事をしている建築家である。(中略)彼の建築スタイルは柔軟で、自然や環境に適応した建築をめざす方向にあるだろう。彼は日本の文化に深く傾倒している」、といった内容でした。作成したリーフレットの中には、「アンリ・ゲイダンの創造性(クリエイティビティ)を千代田のエンジニアリングが支える」と、力強い、夢を込めたフレーズが躍っていましたが、現実はきびしく、彼のクリエイティビティ(創造性)を活かす機会がなく、十分に支えてあげられなかったこと、今でも、残念に思っています。

五十嵐太郎は、アンリの原宿教会について、神奈川新聞紙上でこう評しています。「正面を見ると、曲線を描くコンクリートのボリュームが印象的である。全体としては、波打つ太い天井を輪切りにして、六つの変形アーチを平行に配置したような構成をもつ。(中略)内部に入ると、壁の厚さゆえに温かく包み込まれる空間体験を味あう。モダンな外観ながら、意外にもロマネスク建築に通じる分厚いボリューム感を想起する。アーチ端部の天井が低いベンチも、西欧の教会の小空間をほうふつさせるのだ。一方で、真っ白に塗られた壁や、断続的に入るスリット(アーチの切れたすき間)からの光は、明るく透明感にあふれ、現代的な軽やかさをもっている。相反する二つのテイストが巧みに組み合わされた教会といえよう」 五十嵐のいうロマネスク建築とは、ヨーロッパにおいて11世紀から13世紀にかけての教会や修道院によく見られた建築様式のことです。中世のヨーロッパでは、民族の大移動以降、何世紀にもわたって民族間の争いがつづき、またキリスト教とイスラム教よる宗教間の対立も長くつづいて、まさに戦乱の時代でした。戦乱から逃れた、そして魂の救いを求めて巡礼となった人々が逃げ込んだのがロマネスク建築の教会であり、修道院だったのです。壁は厚く、小さい窓から差し込む光は弱く暗い室内、その中ではじめて、人々は安寧の気持ちが得られたのです。それからいえば、原宿の教会内部の明るいこと、「どこがロマネスク建築に通じるの?只ただ明るい現代的な教会ではないか」と、建築を見る目に欠けたわたしなど、はじめは、ついそう思ってしまいました。しかしよく見てみれば、コンクリートの壁は確かに厚いし、変形したアーチはロマネスク建築の特徴である半円形アーチに通じるかもしれません。五十嵐がロマネスク建築を想起させるという意外性も、案外当たっているのです。教会内ツアーの際、案内役の長老は、こんなことを話していました。「教会計画にあたっては、7人の建築家のコンペで設計者を決めました。最後の決め手になったのは、設計者のキリスト教への思い入れの深さだったのです」と。そして更に、「ゲイダンは、聖書をじつによく読み込んでいましたよ」とつけ加えられました。原宿教会内の空間にいることで安寧の気持ちが得られる点は、わたしのように信者ではない者にも十分感じられたのです。その意味では、まさにロマネスク建築を想起させるという五十嵐の評は当たっているといえるでしょう。ゲイダンは、その上で、さらにモダンな感じの軽やかさをもたせ、五十嵐のいう相反する二つのテイストが巧みに組み合わされた教会を生み出した、といえます。すばらしい作品だと高く評価したいと思います。

アンリ・ゲイダンも、すでに齢(よわい)50代に入り、建築家として脂が乗った頃かと思います。これからも、ますます活躍されることを願い、陰ながら見守っていきたいと思っております。なお、原宿教会は、地下鉄渋谷線外苑前駅を降り、外苑西通りを国立競技場の方へ少し進んで右折したところにあります。隣に、黄色に塗られたブラジル大使館の建物がありますので、すぐ分かると思います。ご興味のある方、一度ご覧になっては如何でしょうか。

(付記1)
ゲイダンの有するD.P.L.G.(フランス政府公認建築士)の資格は、日本の建築士資格と比較すればはるかに高度で取得は難しい。日本人で最初の取得者は、大正期に取得された中村順平先生で、先生は帰国後に横浜高等工業(現横浜国立大学工学部)建築学科開設時の主任教授として多くの後進を育てられた。序ながら、日本人として英国王立建築士会の公認建築士第1号取得者は、ジョサイア・コンドルの弟子でもあった櫻井小太郎博士で、代表作には旧三菱銀行本店等がある。

           

(付記2)
建築コンペの歴史は古い。古くは戦前、「大東亜建設記念營造計画」で当時まだ東大大学院の学生だった丹下健三氏が1等になっており、のちの大建築家誕生の萌芽を予感させた。
一方、これは偏見ともいえる持論であるが、コンペには、当選作より2等作品の方を実現させたかったな、と思わせる側面があるようだ。京都国際会館の菊竹清訓案がそうであり、東京田町の新建築会館の木島安史案(上図)も独創的なもので、これが出来ていたらさぞや、と思わせるものがあった。仄聞であるが、畏友だった木島は、この案にかなり自信をもち、期待感を込めていたようだ。

(平成22年 4月)

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