古寺巡礼から古都の逍遥へ(2)

寿岳章子著『京都町なかの暮らし』

前号で、最近では古都を気ままに逍遥する方が性に合うな、と思っているむね書きました。逍遥といいますと、わたしは旧制三高の寮歌「紅萌ゆる」(逍遥の歌)と結びつけてしまいます。逍遥とは「気任せにぶらぶら歩くこと」(角川国語辞典)で、さしたる目的もなく、ぶらぶら散策するところに興があると思っています。その論からいうと、同じ古都でも、奈良と京都では趣がまったく異なってくるように思います。
わたしの論でいえば、奈良大和路は逍遥しにくいところです。3、4年前でしたか、仕事で明日香村へ行った際、「ここではちょっと地面を掘るとなんらかの遺跡にぶつかるので、下水工事はできないし基礎工事一つにも気を遣う」、と聞いてびっくりしたことがあります。もしかしたら自分の足下には聖徳太子の遺蹟があるのかもしれない、そう思ったら妙な感慨を覚えました。畏れ多くてとても逍遥するところではないな、と思ったものでした。斑鳩の里はむろんのこと、女人高野の室生寺、南山城・当尾(とおの)の道、あるいは山辺の道や遠く当麻の里など、ときには家族と一緒にいくどか歩きましたが、そうしたところへは気任せにというわけにはいきません。室生ともなると奈良市内からは一日がかりで、近くの長谷寺も一緒にとなると、時間的にむずかしくなってしまいます。京都府下の当尾へは奈良からのほうが便利だといっても、浄瑠璃寺や岩船寺辺りまでならまだしも、せっかくだから海住山寺の五重塔と十一面観音像もと欲ばると、よほど慎重にバスの時刻表と相談しなければならないでしょう。当麻寺へ訪れると、市内へもどるなら、いっそ大阪の方へという気になってしまいます。奈良市内でも同様で、狭いようでも気任せにぶらぶらと、というわけにいかないのが不思議です。たとえば、白毫寺と新薬師寺とを結び付け、高畑の道を歩いて福地院町を経由し、十輪院までくれば優に半日以上は費やしてしまうでしょう。また、東大寺の転害門(てがいもん)から西へまっすぐに延びる佐保路(旧平城京の一条大路)を歩く場合でも、午後も遅い時間になると法華寺へたどり着くのがやっと、ついおっくうになって、途中横道を不退寺まで行ってみようか、なんて気持ちにはなれません。西の京も薬師寺・唐招提寺だけにとどめれば余裕ですが、それでは惜しいので西大寺、秋篠寺もとなると、逍遥などとのんびりするわけにはいかないでしょう。要するに、大和路は市内も郊外も、気ままに歩けるところではない、というのがわたしの思いなのです。
その点、京都はだいぶ勝手が違います。むろん京都は広く、市内の人気のスポットだけを取り上げても、数日で簡単にまわれるわけはなく、郊外の大原や高雄・栂ノ尾(ともに市内に入っていますが)へ足をのばすとなると、大和路同様に日帰りがやっと、ということになります。しかし京都の場合、なんといっても交通の便が奈良とは比較にならぬほど発達しており、宿泊施設も充実していますので、安心して各々のエリア内でのんびりと気ままに散策できるよさがあるのです。それに、京都の寺には庭園が伴うという点も、ぶらりと歩くには好都合です。各種のガイドブック、JRや旅行社などが企画するツアーやキャンペン・パンフの類なら奈良も京都も気の利いたものが目につきますし、インターネットでも写真入りで、しつこいほど紹介されています。が、逍遥の参考になるような本となると、奈良についてのこれはという本は見当たりません。と断じたものの、最近は書店へ近づかぬようにしていますので、じつはいい本が出版されているのかも知れませんが……。さて、その逍遥の参考になるという本ですが、わたしの書棚にあるのは、写真で示した寿岳章子さんの『京都町なかの暮らし』、大塚五朗氏の『京都風土記&同続編』、そして、倉部きよたかさんの『京都人は日本一薄情か』の3冊です。

大塚五朗著『京都風土記』

寿岳さんは京都生まれ京都育ちの国語学者・エッセイスト、まさに京都を代表する方だったので、沢田重孝さんの達者な絵とあいまって、京都町なかの生活と京都人のしなやかさを知る上での格好の画本です。わたしの思う逍遥という観点からは物足りなさがありますが、京都の理解という点ではお奨めの好著です。大塚氏はそれほど高名な方ではなく、長野のご出身で早稲田の文学部卒、京都で府立3中、嵯峨野高等女学校(旧制)の先生をされていました。吉井勇に師事した歌人のようですが、その著『京都風土記』の発刊は昭和17年、先の戦争(京都では、応仁の乱を指すらしいですが)の最中でした。わたしの所有しているのは戦後すぐに出版された第3版で、まさに物資のないころのもので、ざら紙使用であじろ綴じされた並製本、まさに分解寸前の状態になっています。しかし、内容はすばらしく、吉井勇は序のなかで、「著者の嵯峨野に対する愛情は、國木田獨歩の武蔵野に対する愛情のようなものがある。自然に対する目の深さと温かさ、著者の文章の寂びとしづけさ、それでいて時々ほの見える心の明るさ、集められた随筆はすべて歌につながるものばかりで、著者の歌を散文にしたのがこの随筆」(原文に沿って一部筆者加筆)、と絶賛しています。勤務していた学校近くの北区大将軍坂田町に居住していた関係で妙心寺や竜安寺、足利家の菩提寺で尊氏の墓所がある等持院に近く、また近くを通る福電北野線を利用すれば仁和寺や、嵐山もすぐそこという立地条件から、氏の逍遥は嵯峨野を中心に京都の北西部を気ままに歩いていたようです。もっとも戦前のことで、趣は現在とまったく違っているでしょうが、京の街を歩きながら氏の文章から在りし日の京都を思い浮かべるのも一興かな、とわたしはこの本を珍重しております。同書は現在でも古本市場にかかるほど、同好の人たちに人気があるようですが、続編には「歳時記京都」という稿が載っているのに加え、全編が歳時記を意識して編纂されたのではと思わせるほどで、わたしは『京都風土記』というより、むしろ『京都歳時記』の題名の方が内容に適っているのではないか、とさえ思っています。文中に、家康に仕えていた石川丈山がわけあって剣を捨て、旧一乗寺村(いまは市内左京区)の詩仙堂に隠居していた際、淋しくなると焚火をして鷹峯(たかがみね)・光悦寺に隠棲していた本阿弥光悦と慰め合っていたという逸話も、この本で知りました。わたしは詩仙堂も大好きで、学生時代と、のちに家族を伴って二度ほど訪れていますが、そこからの景観のすばらしさはむろんのこと、丈山と光悦のうるわしい友情話に家族はたいそうご満悦で喜ばれたものでした。詩仙堂、光悦寺ともに大原口、長坂口という京都への出入り口にあたるため、二人は幕府の隠密の役を担っていたという説もありますが、わたしはそんな野暮なことを考えずに、忙しい現代社会であればこそ、二人の優雅さを愛でたいと思っています。氏の著書でもう1点加えたいのは、「京都の人と生活と」という一稿があり、その内容はここではひかえますが、吉井勇はこう評しています。「著者の京都人に対する観察には、秋成のような辛辣なところはないが、それよりも更に冷徹である。ここには『膽大小心録』(上田秋成が京都について書いた随筆で、わたしは目を通していませんが、かなり辛辣なことが書かれているよし)を讀んだ時のような不愉快さは何處にもない」と。そして、「著者の人間に対する目の鋭さと厳しさ(がある)」、とも付け足しています。

倉部きよたか著『京都人は日本一薄情か』

倉部きよたかさんの『京都人は日本一薄情か』(文春新書)はまだ新しい本です。
タイトルに魅かれたこと否定はしませんが、じつは副題につけられた「落第坊主の京都案内」に興味を持ったのです。わたしの期待を裏切らず、じつに面白くためになり、京都逍遥の上でも役に立つ好著です。何よりもすばらしいのは、「大徳寺幻影」にはじまり、「大文字越え」までの18の稿について、各々に親しみやすい副題がつき、手書きのじつにわかりやすい案内図入りでやさしく書かれているのです。この案内図をみると、市販のガイドブックやパンフに載っている無味乾燥な案内図など見たくなくなるほどです。項目のいくつかを挙げてみますと、鷹峯裏街道―秀吉はなぜ御土居をつくった、大原、隠れ寺―京都人は秘密を楽しむ、通り名唄―京都人は日本一薄情か、疏水を走る―哲学の道はなぜできた、などなどです。どうですか、何となく読んでみたい気になりませんか。18の独立した稿を縦糸に、各稿で書かれた内容が横糸のように綯(な)われて、さしずめ西陣の華やかさはないまでも、しっとりとした織物風に仕上げられているのです。わたしは筆者がどのような経歴の方なのか、いたく興味を持ちました。裏表紙に記載された略歴によりますと、1951年の大阪生まれ、中学卒業後15歳で紫野大徳寺に小僧奉公、2年で破門され市内を転々し、関西学院大を中退したのち早稲田大学を卒業。国連関係の文化団体で10年間、出版と機関誌編集を担当されたという、どちらかと言えば面白い経歴の方のようです。京都での流浪の生活がどのようなものだったのかは知り得ませんが、結果として大学まで出たのですから、小僧時代に仕えた立花大亀猊下(のちに臨済宗大徳寺派のトップに)などが陰ながら援助してくれたのかも知れません。とにかく、京都市内を転々としながらいろいろなことを経験したようで、読んでいるだけでこちらが物知りになったような気になり、あらためて京都のあちらこちらを逍遥したくなるような気持ちにさせてくれます。ところで、題名の「京都人は薄情か」についてですが、筆者は序文で、「京言葉はやわらかく優しく、ぼかしの言葉のようにも聞こえるが、じつは、恐い殺しの言葉だったりする。同じ言葉でも、やさしく聞こえたり、つっけんどんに聞こえたり、あとで背筋がぞっとしたりする(一部中略)」、とやんわりふれています。そして、本文の中では、市内でよく耳にする「上る」、「東入る」という使い方、また通り名の難しさと覚え方についてこんな説明をしています。京都市内の通り名は、蛸薬師通り、釜座通り、など昔ながらの難しい名で、よそ者はむろん、京都人にとってもたいへんなわけです。そこで、地域によって、「まるたけえべすにおしおいけ……」、とか「せったちゃらちゃらうおのたな ろくじょうひっちょうとおりすぎ……」というような数え歌で、こどものころから教え込むのだそうです。そうした努力をしてきた京都人からすれば、よそ者に道を聞かれた場合、「西木屋町松原を下がったところどす」、とつい素っ気なく応えてしまうのであって、決して薄情なのではないとしています。もっとも、「京都人には言葉と心とが裏腹の場合もあるのでご用心!」とも注意してくれています。よく「茶漬け」の話しは耳にしますが、本書では、「そらよろしおしたなあ」という言葉も京都人独特の線引き言葉(態のよい断り?)だと書いています。ここで上述の数え歌の説明は避けますが、ちなみにはじめの歌は、丸太町通り、竹屋町通り、夷川通り、……のことです。おっと、こんなことの紹介ばかりでは、「それ、ちがうんとちがうやろか」と言われそうですから、ここまでにしておきましょう。
南禅寺を出て鹿ケ谷通りを北へ上がり疏水の流れに沿う哲学の道の散策、紫野大徳寺界隈から北大路通りを西に入って金閣へ、金閣からきぬかけの道を竜安寺へ出て御室の仁和寺へ、御室からは福電北野線で帷子ノ辻に出て太秦の広隆寺、さらに嵐山本線で嵯峨野界隈へ。書き上げていけば思いはどんどん広がりますが、倉部さんの本を参考に、あらためて京の逍遥を楽しむ機会を持てればな、と心から願っています。

(2014年3月)

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