海外こぼれ話(2)特産品と土産物

アルジェリア・宿舎前のココナッツ椰子

アルジェリア:まぼろしの松茸・銀製品・ナツメ椰子の実
北アフリカのアルジェリアへはじめて足を踏み入れたのは1998年のことでした。当時、同国内はテロの嵐が吹き荒れており、日本国大使館内の迎賓館に止まっていた10数日の間ほとんど連夜、不気味な爆発音が市中から聞こえてきました。その後も2回入国を繰り返し、99年の夏から半年間滞在して、その年の末に帰国しましたが、その頃にはテロは下火になっており、アルジェ市内ではほとんどなくなっていたようです。アルジェといえば、ジャン・ギャバンの映画『望郷』、あるいはエト邦枝の唄う『カスバの女』で知られたカスバということになりますが、そのような時期でしたから、わたしの滞在中は立ち入り厳禁となっていました。アルジェで、カスバ以外で知られたものといえばもう一つあります。意外と思われるかもしれませんが、当地をよく知る日本人の間では、松茸の産地だということで知られています。外国産とは言え、中国・韓国産、あるいはカナダ産などとは異なり、香りが日本産とさほど見劣りがしないのだそうです。そんなこともあってわたしなども、「アルジェリア産の松茸」を土産として持ち帰れることを唯一といってよいほど楽しみにしていました。松茸を好んで購入するのは日本人が多く、テロの影響でその日本人がほとんどいないので買い手は少ない。ベンガナ邸の執事の話では、テロは下火になっており、松茸の産地であるアルジェ南部の山間部での収穫に支障はないだろうとのこと。帰国は松茸の最盛期である晩秋の予定であり、松茸を売りに来たら品物を押さえておくよう執事につよく言い聞かせており、松茸購入の手はずは万全だと思っていました。ところが、いくら待っても松茸の姿を見ることができないのです。執事の説明では、松茸の産地からアルジェへの道がまだゲリラに押さえられていて、松茸が届かないのだとのこと。こうして、土産にするどころか、口にすることもできず、結局、まぼろしの松茸に終わってしまいました。ほんとうに残念なことでした。

アルジェリア・ナツメ椰子の実

松茸がまぼろしと化し、さて何を土産物とするか考えさせられました。たまにショッピングに行ってもこれといった品物は見あたらず、思いついたのが現住民ベルベル族の製作する銀製品の飾り物でした。とは言っても、市中でのテロがなくなっていたとはいえ、一人で街をぶらぶらするわけにはいきません。結局、大使館職員のリマさんに頼んで、買ってきてもらいました。彼女、日本人的な繊細な感覚をもつた女性で、額装された素晴らしい銀製の壁掛けを選んでくれました。たいへん気に入って、いまでも自室の壁に飾っており、飽きずに楽しんでおります。これは自分のためとして、土産として家へ持ち帰ったのは、結局、空港の売店で買ったアルジェ名産のナツメ椰子の実(デーツ)でした。
アルジェ滞在中に宿舎にしていたのは、同国でも有数な富豪であるベンガナ家の大きな敷地内にある邸宅の一つでした。まわりはココナッツ椰子の林や果樹園で囲まれ、ライフルを手にした3人ほどのガードに警備されていたとはいえ、不安な毎晩の連続でした。アルジェリアは世界でも有数なデーツの生産国ですが、ベンガナ家はそのデーツ生産ではかなりのシェアを占めている大富豪のようでした。デーツといっても、日本人にはなじみが薄いかもしれませんが、栽培の歴史は古く、中東から北アフリカにかけては重要な食品なのです。「聖クラ―ン」(イスラム聖典コーランのこと)の中でも、第一九マリア章で、ナツメ椰子の下で分娩の苦痛を味合う聖母マリアに対し「揺り動かされた椰子から落ちた新鮮な、熟したナツメ椰子の実を食べかつ飲むように」、と諭しているほどです。事実、モスレムにとって重要な行事であるラマダーン(断食)期間中、日没後に最初に口にするのはデーツと羊の乳だとされています。たしかにビタミンCやミネラル分が豊富で、たとえば鉄分はホウレン草に匹敵し、カリウムはバナナの1.5倍も含まれていると言われています。それに長期保存もきき、いいことずくめです。空港でもとめたデーツはパックされた果実で、実は大きく、果肉は柔らかく、レーズンに似た味で、家人にも好まれました。

ウズベキスタンのスーク

中央アジア・ウズベキスタンでの仕事は、アルジェリアからもどって数年も経ったころ、会社の先輩だった方から電話で呼び出されてもたらされたものでした。先輩といっても仕事をご一緒したことはなく、顔見知りていどの方でしたので、いぶかしい思いでお会いし、引き受けることになったのです。EUのさる銀行がスポンサーで、同国の首都タシケント郊外の鉄骨製作会社の技術指導をするという業務でした。大学での卒論は「溶接の研究」、鋼構造はいわばわたしの専門職みたいなものでしたが、手書きの工作図、そして床に原寸図を引いての鉄骨製作という前時代的な技術の経験しかない自分が、最新の技術による鉄骨製作の指導などできるだろうか、大いに疑問でしたし、不安でもありました。友人や知人の紹介を受けて数社の工場見学をし、資料なども取り寄せましたが、それでも、内心は不安な気持ちをいだいて工場に乗り込みました。鉄骨製作会社というのは、旧ソ連時代には同連邦の中核をなしていた国有企業で、日本国内では見受けられないような規模の大きな工場でした。もっとも、設置されていた機械類のほとんどが、わたしにはなじみの深い古いタイプのものばかり。設計部では、年配の設計士がドラフタ―で工作図を手書きしており、驚いたことには、品質管理部門の部長さんはこわそうな年配の女性で、検査記録を自分が保管していると言い、外交文書ではあるまいし、厳重に蝋付けされたファイルを得意げに見せてくれたのです。ISO9001(品質マネジメントの世界的な規格)による管理など、この国ではまだ程遠いい存在のようでした。1991年にソ連邦が解体し、ウズベキスタンとして独立後は、発注元が消えてしまったわけで、社会主義経済の悲しさというべきなのか、独立して10数年も経つのに、まだ、どうしていいものか戸惑っている様子でした。工場は見る影もなく落ちぶれてしまい、広い敷地内の至るところにぺんぺん草が生い茂り、最初の訪問時では仕事らしい仕事もなく、2回目の際はかんじんな電気までが止められていました。そのような状況でしたが、社員の中には、閉鎖された社会から抜け出ねばというつよい意欲を持つ者も多く、また、わたしの指導よろしきを得て(ほんとうかな?)、訪問する都度(都合4回、訪日指導1回)、CADが導入され、検査の仕組みが改善されたりしていて、目を瞠る思いでした。さらに、それまで存在してなかった色刷りの「会社案内」、「会社実績表」なども作成され(そのために日本―ウズベキスタン間で3回ほど長いメールのやり取りをしましたが)、それを持って社長が顧客訪問をするという営業活動をやるようになりました。わたしの最後の訪問時には、隣国カザフスタンの仕事を受注するまでになったのです。

ウズベキスタン・スークでのキャビア

ウズベキスタン:絹製品・キャビア
ウズベキスタンは世界で第4位の絹の生産国です(日本は第5位)。とはいえ、現在、絹の生産はじつに中国が70パーセント以上を占め、インド・ブラジルの3国で90パーセントを占めているのです。また、ウズベキスタンと日本との生産の差も開く一方のようで、20世紀初頭では日本の生産量は清国を上回るほどの絹の生産大国だったことを考えますと、今昔の感つよいものがあります。それにしても、同国を一口で表現するとしたら、やはり「絹の生産国」と評しても間違えではないでしょう。わたしが通った工場の周辺には綿畑を囲むように桑の木が茂り、その実をねらって、学校帰りの数人の児童たちが飛びつき、口のまわりを紫色にしていました。自分が群馬に疎開していたころ経験したことを思い起こさせる原風景でした。絹の生産国ですから、絹製品、特にマフラー・ショール類は至るところで目にすることができます。ほかに目ぼしいものが見当たらないため、土産用につい何本も買ってしまいました。しかし、土産物屋などに吊るされているものの質は必ずしもよくなく、持ち帰ってから差し上げても、かえって気兼ねするようなものもありました。それでも、ホテルなどに入っている店の品はさすがに良く、連れ合いの言では、日本で使っていてもそん色のない製品のようでした。
最初の訪問時には気づかなかったのですが、2度目の訪問時に、宿泊していたホテルから道路一つ隔てたアライ・バザールと呼ばれていた大きな市場でキャビアを売っていることを知りました。ウズベキスタンという国、外洋へ出るためには、最低でも2ヶ国を経由しなければならないので、大きな市場でも魚介類を扱う店は少なく、わずか数店ほどが出店していただけでした。その中でキャビアを扱っていた店はたしか2店しかなかったと記憶しています。キャビアで有名なのはカスピ海ですが、同海とは直接面してはいませんが、北のロシア、南はイランの商業圏の中にある国ですから、双方のキャビアが入ってくるわけです。店で扱っていたのは粒の大小別、あるいは質の違いからか3〜4種のキャビアがおかれていました。1番いいのは、もしかしたらベルーガ(キャビアの最高級品)だったのかもしれませんが、これは注文を受けてから、品物を取り寄せるシステムでした。その下のグレードでも、いやしくもカスピ海産、しかも値段は格安、買わない手はないでしょう。帰国の日(出発は深夜)に完全に梱包されたものを店で受け取るようにして、わくわくして帰国したものでした。家人が喜んでくれたこと、いうまでもありません。

    

(2018年03月)

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