一建築家のみた日米開戦前の世相

わたしは、1987年(昭和62年)から1990年(平成2年)にかけて、鐘紡記念病院(現神戸百年記念病院)改修の基本設計、そして病院へ出向し、副院長付として工事全般の管理のために神戸に単身赴任していました。その間、休日を利用しては三宮から元町へ、あるいは山の手の北野の方へよくぶらついたものでした。そんなある日、三宮駅ビル内の古本屋で、『今井兼次絵日誌昭和16年』という1冊の書が目に飛び込んできました。大学で教えを受けた著名な建築家であり、その先生の絵日誌ということで興味をひかれ、また、たまたま自分の書の執筆資料(当時、『石油人の太平洋戦争』の執筆準備中だった)になるかも知れないということで、わたしは躊躇することなくその書を買い求めました。

わたしの在学当時、早稲田の建築学教室は建築界で一大山脈を形成していました。構造の内藤多仲先生(東京タワーの設計者、入試に何度も落ちたわたしの入学時には名誉教授になられて、直接の講座はお持ちではありませんでした)、建築史の田辺泰先生、建築というよりは考現学の祖と称され、いつもジャンバー姿でいらっしゃった今和次郎先生などを盟主に、高名・著名な先生方が燦然と輝いていらっしゃいました。その中で、建築設計(わたしたちは、構造に対して意匠と称していました)の分野では今井兼次先生が最長老的な存在で、すでに60歳を幾つか過ぎられていたと思います。わたしにとっては、たまたま受験時の面接担当教授で、大学の図書館(現会津八一記念博物館)や演劇博物館の設計者としてよく存じ上げていた先生でしたから、ずいぶん緊張したことを覚えています。

建築家であり、ご自身 趣味は絵を描くことといわれていた先生ですから、平素 速写するのに便利なようにコンテと紙を常にお持ちになり、街でも旅先でもよくスケッチをなされていたそうです。しかし、大陸での戦争が継続するにつれて「防諜」の2字が国民に重くのしかかり、先生も街中でのスケッチを警官などに咎められたことで、おやめになったようです。その代わりに、室内で描く墨絵をベースに、気の向くままに着色することを楽しまれていたようです。そうしたことで、墨絵による絵日誌は昭和12年に始められ、戦争期間中続けられたようです。わたしが手にした昭和16年の絵日誌からわたしが読み取りたかったのは、日米間で風雲急を告げていた昭和16年という年に、先生がどのような生活をなさっていたのか、そして、開戦を、当時の知識階級がどのような思いで受け止めていたのか、の2点でした。昭和16年といえば、先生は40歳代半ば、教授としてちょうど油の乗り切っていた頃で、設立に関与した多摩美術学校(のちの多摩美術大学)でも教鞭をとられていましたので、かなりご多忙であったと推察できます。そのためかどうかは知りませんが、先生は前年の暮れから肺炎にかかって病床にあり、その看病のために鎌倉で療養中だった奥さまも家にもどって来られ、枕元につきっきりになるなど、たいへんだったようです。

「青紗」の俳号をお持ちの先生のこの年の日誌(『青紗絵日抄』と名づけられている)は、「大患や父ありありと初夢に」の句で始まっています。肺炎による高熱のため病床でうとうとされている中で、お父上の夢を見られたのでしょう。日誌によれば、1月半ばからようやく快方へむかったようで、1月は毎日のように体温が記録され、2月一杯まで、見舞いに来られた多くの方々のお名前が出てきます。その中で、注目される記述が2ヶ所あります。1ヶ所は2月11日、吉田某著『わが人生と宗教』からの引用で、「死は来るべきときに来るであろう 生も死も今はただあなたまかせである」と記述され、もう1ヶ所はその5日後に、「人生は厳粛なり」の見出しに続けて、「憂きことのなおこの上につもれかし 限りある身のちからためさん 心の優しきものは福なり 天国は即ちその人のものなればなり」と記述されています。生死の境をさまよった先生の当時のご心境、そしてのちに、奥さまを亡くされたことを契機に洗礼を受けられましたが、それ以前からカトリックへの深い信仰心をお持ちだったことを窺わせます。

3月以降、先生は順調に快方に向かわれ、徐々にですが外出もされるようになり、それとともに、大学での講義、美術展などの観覧、観劇、友人・知人などとの歓談などなど、ごく日常的なことの記載が多く見受けられるようになってきます。とくに、療養中の夫人静子さまの容態に対する懸念、母が家を空けていたのでは寂しさを隠せなかったにちがいない、まだ小学生だったご子息への親としての細やかな愛情や先生の優しさが、余すところなく記述されています。野球が大好きだった先生のこと、ご子息とご一緒に早慶戦を観戦し、その戦績に一喜一憂しています。そうした日常的な記述に対して、一方で、大陸で続いている戦争が、先生のまわりにも深く影を落とし始めていることを窺わせます。一つには、日常の生活の中で、物資が思うように手に入らなくなっていたことです。知人から思いかけず京のお菓子や羊かん等が送られてきたときの喜び、あるいは新宿高野で新着のバナナが購入でき、「幸運、幸運」と素直なお気持ちが書かれています。そして、8月以降には大学にも義勇軍なるものが設置されるようになり、防空演習がかなりの頻度で行なわれている様子が分かります。当然のことながら、先生の知人、教え子などから、大陸での戦線で元気に報国の責にあたっているむねの消息を受けたことの記述が多くなっているのです。

世界情勢のこともよく書かれています。この時期、欧州での戦争はますます激しさを増していました。日本も当然巻き込まれていき、前年に日独伊三国軍事同盟が締結されている中で、3月に渡欧した松岡外相はヒットラー独総統、ムッソリーニ伊首相と会談後、ソ連にてスターリンと会談し、日ソ中立条約を締結して4月12日に得意満面の思いで帰朝していました。先生の日誌にも、得意だった外相の気持ちがよく表れた機上・帰朝作句「ああ祖国祖国の山河春の色」が記述されています。が、何ということでしょう、それから1ヶ月で、独伊―ソ連間は開戦するのです。先生の日誌には「独伊果然午前5時半対ソ宣戦 全国境にて大激戦展開」(5月22日)と記述されています。かたや軍事同盟、かたや中立条約の締結、先生ならずとも、国民はどちらの側につけばよいのか、おそらく戸惑ったのではないでしょうか。

先生の情報源は各種の新聞、ラジオのニュース、あるいは時局講演会などでしょうが、日誌では、報じられた内容に対して主観を抑えて書かれています。ただし、主観を抑えるといっても、先生の場合、ある種 複雑な心境にあったと思われます。なぜなら、先生は昭和元年(1926年)から翌年にかけて、営団地下鉄駅舎設計のために、ヨーロッパの地下鉄研究のために渡欧し、ソ連、北欧をはじめ、ひろくヨーロッパ各地を回られており、ヨーロッパの事情に通じておられることもあって、先生にとっては懐かしいそれらの地が戦乱に巻き込まれていることに対して、どうしても往時に思いを馳せていらっしゃるのです。たとえば、独軍の援助を受けたフィンランド軍のソ連への突入を受けて、先生は「星みれば白夜のソ都も思はれて」(6月25日)と詠んでいます。7月4日には、「盛夏いたる ソ芬(フィンランドのこと)国境を思う」と気になさっているのです。
そのほかにも、机の引き出し中に仕舞っておいたキエフ・ソフィア寺院の金モザイクを取り出し、「目下独軍キエフを目指して進軍中とて印象ことに深し」(7月9日)と書かれる一方で、「空の記念日 独乙軍ウクライナのキエフを19日午前11時10分攻略し城頂高くハーケンクロイツ旗を打ち立つ 新聞にキエフ占領報道にて酔う」(9月20日)と記すなど、複雑な心境を覗かせています。そして、「外電 9日独軍モスクワ大空襲敢行 ボルジョイ劇場、モスクワ大学、サン・ワシリー寺院に大損害を与えたり」(11月11日)と、報道そのままに事実のみの書かれた、ある種の諦めが見受けられます。そのような中で、講演あるいは雑誌への掲載のために「或る日のソ芬国境」とか「独ソ戦線の建築を拾う」といった原稿を書かれていますが、戦乱で破壊されていく建築物を文書・写真などの形で記録として残しておこうと考えられたのではないでしょうか。

10月半ば以降は、先生の日誌記述も日米開戦の機運高まっていることを思わせてきます。すなわち、国内での東條内閣の誕生、そしてアメリカ・ワシントンでの日米会談です。内閣発足の日の記述は「東條陸軍大将内閣を組織し時局重大なる真只中に力強き発足をなす」(10月18日)、「東條首相 朝の乗馬日課 民衆を激励す」(10月30日)、「東條首相第七十七臨時議会にて外交三原則を闡(せん)明す 鉄石不動」(11月17日)と首相に対しては、好意的な見方をされており、11月18日に始まった日米会談については「日米開戦の機運益々濃厚となりつつある 米国 日米会談と平行してABCD陣営の軍備強化に狂奔英、 東亜艦隊を編成し(後略)」(11月4日)とか、「東亜における英米の敵性益々極まり日本全国民の隠忍亦度あり断乎激滅あるのみの情勢 東亜民族興亡の秋正にここにあり」(12月7日)と記され、この時期、先生のような温厚なインテリですら、対米英への感情、半端なものでなかったことが知れます。マスコミという言葉はむろんなかった時代ですが、まさに、政府、軍部、マスコミに啓蒙・鼓舞された結果であることがわかります。先生のこの思いは、一部の者をのぞき、国民こぞっての思いだったと思われます。そして、12月8日の日米開戦を迎えます。
12月8日の日誌は、先生も興奮されたご様子で、いつものような絵はなく、感情のおもむくままに、かなりの分量の文章が認められています。日米開戦当日の先生が、あるいは一般国民おしなべて、どのような思いでこの開戦のニュースを聞いたのかを知る意味で、そのまま引用いたします。「日本西太平洋上にて英米海軍と交戦状態に入れりと突如のニュース(午前7時半)にて報道さる 吾が血は皆国民の血なり民族の血なり この朝、霜厚く濃く初冬の空晴れ渡りて一片の雲さえなし 学園学生の意気亦頼もしく臨時ニュースの報道に青年の血は湧き立ちて皇軍の絶大な戦果に頬笑む 理工学部学生正午隊伍を整え靖国の社頭宮殿へ整然たる威容を持して行進更に陸海軍省に赴き皇軍の必勝を祝したり 夜に入りて警戒準備燈火管制に入り省線電車内の遮光装置を進行車内にて施しつつありて戦時下の情勢を示せり 工手学校(夜間制)授業第1時間を終了して休講満天の群星浜砂の散るごとく蒼空に満ちたり 正午近く教室出でし時宣戦の大詔発せられ君が代の国歌放送に続いて放送せられ国民ことごとく感激に襲わるそのひと時こそ日本史上の頁に特記せらるる一瞬にして最大の感激にあらずして何であろうか 夜11時放送ハワイの戦果を聞きて就寝す」

戦後になり、時を経て、いろいろ批判することは容易(たやす)いことでしょう。しかし、この当時、一般国民に知らされていた情報は上から発表されるものに限られており、国、いや軍に逆らうことが何を意味しているかということを考えるとき、今井先生といえども、軍の指導に沿った物の考え方が当たり前の時代であったといえるでしょう。そして何よりも、今井先生が記述されたことが、その当時の国民おしなべて考えていたことなのだ、と思われます。

最後になりましたが、今井先生は建築家として多くの作品を遺された方ではありません。冒頭に述べたように、早稲田大学構内に先生の代表作がありますが、一般の方も見る機会のある 建物としては、長野県・安曇野市の(荻原)碌山美術館、長崎市の日本二十六聖人殉教記念館、そして東京皇居内にある桃華楽堂(現宮内庁楽部音楽堂)等があります。わたしの在学中は、長崎の作品を手がけている最中でした。先生の研究室を覗き見した折など、頬がこけ、げっそりとおやつれになった先生が、エスキースを前に、時にじっと考え込まれ、そうかと思うとまた熱心にエスキースを始められるお姿を目にしたものでした。そのお背中からは、一つの作品を生み出すために、先生が全身全霊を捧げられていることが感じられました。いや、むしろ殉教者の魂が先生に乗り移ってしまったのではないか、あるいは逆に、先生の方が、永いこと信奉してやまなかったスペインの建築家アントニ・ガウディに乗り移ったのか、とさえ思ったものでした。先生の作品を表して、よく「心の建築」といわれますが、まさに言い得て妙だと思います。ご参考までに、昔の建築雑誌に載った殉教記念館資料館西壁用の先生のスケッチをこっそり載せておきます。

           

今井先生は1965年(昭和40年)まで教授を勤められ、名誉教授になられました。そして1979年(昭和54年)に、推されて日本芸術院会員になられました。

(平成22年 2月)

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