よこはま道

安政六年 横浜開港時の周辺絵地図
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横浜中区の開港資料館で昨年10月から展示されている『開港場 横浜の原風景展―350年の歴史を探るー』は1月28日まで催されています。その展示を見ますと、江戸末期にアメリカのペリー提督との間で結んだ日米修好通商条約の結果、日本が神奈川を開港することになったわけですが、その当時の横浜がどのような状況であったのか、その原風景がよくわかるたいへん有意義な展示会でした。
当初アメリカは、港を神奈川宿に開くことを要求しましたが、幕府は神奈川宿が大名行列も通る東海道という交通の要衝にあることから、開港することによって異人との間で無用のあつれきの生ずることを恐れ、神奈川宿からかなりはなれた対岸の横浜村(現在の横浜港あたり)も同じ神奈川だと強弁して、そこを開港することにしました。とは言っても、神奈川宿から横浜村までは海を隔てて直線で2キロほどはなれており、行き来には船が必要となります。陸路にするとしたら、海岸沿いに道がなく、まともな道は東海道神奈川宿からとなりの保土ヶ谷宿まで行き、そこから「かなさわ道」を使って大きく井土ヶ谷を迂回することになります。それでは横浜村に開港する意味はなくなり、アメリカ側は納得しないでしょう。幕府は、神奈川と横浜とを短距離で結ぶ道の建設をきめました。その道が現在に残る「よこはま道」です。ルートは、写真1の絵地図で右手の海岸沿いに白く描かれていますが、旧東海道神奈川宿を袖ケ浦沿いに進み、芝生村(現在の西区浅間下)で東海道から分岐して当時の海岸線に沿って道を築き、橋を架けて戸部村に至り、そこから山間部を大きく迂回し、野毛までの道は切通しにして、野毛橋(現都橋)で大岡川を渡り、太田橋(現吉田橋)に達するものです。

浅間下交差点「よこはま道」案内板

じつは「よこはま道」について、わたしは大きな誤解をしていました。幕府が神奈川宿と横浜村とをつなぐ道を建設したことを理解はしていましたが、とうぜん最短のルートを選んだはずですから、神奈川宿・青木町の丘陵部から大きく湾曲を描いて横浜村とを結ぶ道、すなわち明治になってから新橋―横浜間に鉄道を開通させたそのルートに近い道かと思っていたのです。開港が決まった当時、すでに現在の横浜の中心部となっている吉田新田をはじめ、横浜村側の横浜・太田屋新田、東海道側の藤江・岡野・尾張屋・平沼新田の干拓工事も進んでいたことで潮除堤の経験は十分にあり、海上に道を構築することは技術的にはそう難しいことではなく、ましてや「よこはま道」の終点である太田橋は、鉄道開通後の終点である「初代横浜駅」(現在の桜木町駅)とごく近いところですから、つい錯覚してしまったのです。当時、幕府としては、「よこはま道」を海上ルートで建設することもできなくはなかったのでしょうが、なんといってもこの道の建設には幕府の威信がかかっていること、また工事期間がたいへん短いことから、工期のかかる海上のルートではなく、先に述べた内陸部を通す案が採用されたのでしょう。それになによりも、港から東海道に出るまで、海風の吹きさらす、人家一つない海上の道を進むというわけにはいかず、やはり、重要な「よこはま道」のルートとして、海上案をを選ぶはずはなかったのでしょう。ちなみに、この道の建設工期は、驚くことにわずか3ヶ月の突貫工事で終わらせ、開港前日にかろうじて間に合わせたようです。

吉田橋「よこはま道」の案内板

開港記念資料館で『開港場横浜の原風景展―350年の歴史を探るー』を見てから1日空けた12月18日、わたしは旧東海道神奈川宿の台町を歩き、台町から浅間下の交差点へ下って「よこはま道」を吉田橋まで歩いてみました。起点である浅間下から歩き始めてすぐに、道の開通後、錦絵にその名と反り橋の姿を残すことになった新田間(あらたま 長さ10間・幅3間)橋を渡ります。当時、入海だった袖ケ浦の干拓は進んでいましたが、橋の左手は白波が岩にひた打つ風光明媚な古道(旧道)だったのでしょう。いまは車の往来のはげしい県道13号線にすっかり呑み込まれてしまい、その面影がまったくなく、変哲もない道と化しています。つぎの平沼橋で県道とわかれ、橋の横を帷子(かたびら)川岸まで下って平沼の商店街を歩くころから旧道らしい寂れた感じが出てきます。が、石崎川に架かる敷島橋辺りになりますと、現代風の「せせらぎの道」として整備されています。戸部7丁目の交差点で国道1号線を横断しますと、道は左手(海岸側)の掃部山(名の謂れ井伊直弼像が建立されている)のすそに沿って内陸側に大きくカーブを描きながら、なだらかな傾斜をつけた戸部通りとなります。道の右手は高い崖つづきとなり、ここから野毛までは切通しの道となります。この辺り、岩亀横丁・岩亀稲荷といった横浜開港期の名残をかすかに残す、艶めいたところとなっています。道はやがて県道80号線とぶつかり、そこを左折すれば紅葉坂。県立音楽堂・県立図書館などがある横浜の文京地区で、その一角に開港時設けられた神奈川奉行所跡の碑があります。そこから、いったん県道まで戻り、さらに進んで野毛坂の交差点を左折すると野毛の本通り、まっすぐの道になって都橋を経て吉田橋へ至り、国道16号線に合流します。幕府はここに吉田橋関門を設け、そこから内側(海側)を横浜港にともなう居留地として、そこを、今日に至るも名を残す関内と称したわけです。

神奈川奉行所跡碑

「よこはま道」を歩いて気づいたことは、道そのものは車などで、あるいは散策としても日常よく利用していたな、ということです。わたしにとってはじめての道だったかな、と感じたのは平沼商店街から戸部7丁目交差点までの200メートルほどの距離だったでしょうか。その点では、自分が「よこはま道」だということを意識していなかっただけで、じつは通い慣れた道だったことを知りました。ただ、わたしにとって発見だったのは、神奈川奉行所位置の存在意義でした。碑の存在は、紅葉坂の図書館通いをしていた関係でよく知ってはいたのですが、港・外国人居留地からけっこう離れたこの位置になぜ奉行所が、とかねていぶかしく思っていたのです。高台に位置していますので漠然と、港がよく望めるためかな、と思っていましたが、今回歩いてみて、なるほどなと合点がいきました。幕府が、横浜開港に合わせて奉行所を設置した目的は、簡単に言えば、外国からモノが出入するようになることで必要となる税関の役目、居留地内外(東海道を含めて)の警備・治安維持といった警察の役目、その延長としての裁判所の役目でしょう。そう考えますと、紅葉坂のこの位置はたいへん好都合だったと言えます。

神奈川台関門跡碑

税関機能は港・外人居留地内に運上所が設けられ(現神奈川県庁の位置)、警備・治安維持のためには居留地に通じる道という道に関所(関門)が設けられ、東海道にも江戸への道筋である台町中間と神奈川宿への入口に関所(関門)が設けられました。そうした多様な機能を発揮させるには、紅葉坂は都合よい場所だったのでしょう。また、野毛の台地に陣屋を設け、取り締まりの役人を収容しておくなど、用意周到な、万全の手配がなされたのです。厳密にいえば江戸時代、完全な鎖国だったとは言えないでしょうが、ごくおおざっぱに言えば、外国人には門戸を閉ざしていました。それが突如、開国をし、開港をすることになったのですから、それは、さぞかしたいへんなことだったと思います。結果として、不幸にも「生麦事件」(ほかにも類似事件か発生)が起こり、薩英戦争につながり、また横浜・山手地区には仏軍・英軍が駐留するなど、その後、マッカーサー元帥の連合軍が駐留する80年ほど前に、すでに外国軍隊が日本に駐留することを許していたのです。それにしても、日本の開国・開港はどちらかといえば、スムーズにいったのではないでしょうか。その点で、「よこはま道」の果たした役割、大きかったと思います。
(注記)「横浜開港時の周辺絵地図」は横浜開港資料館で開催中の企画展パンフからの借用です。

    

(2018年01月)

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