15年かけてようやく

昨年(2013年)の年末にようやく、塩野七生さんの『ローマ人の物語』を文庫本(全43巻)で読了しました。彼女のことは、以前から注目しており2、3冊は読んだと思いますが、まさかこの大冊を読もうか、なんてこと考えたこともありませんでした。読み出すきっかけは、1998年にアルジェリアへ行ったときのことでした。行くまでは、アルジェリアとカルタゴとの結びつきなど、まったく知らず、乗り継ぎの関係で隣国のチュニスに降り立ったとき、はじめてそこがかつてのカルタゴだ、ということを知りました。白壁に、俗にエジプト・ブルーと称される青色で扉などの建具を塗られた独特な街並み、それにもましてつよい地中海ブルーの空の色、これからテロの国アルジェリアへ入るのだ、という不安な気持ちを一瞬とはいえ、忘れさせてくれました。アルジェに入って間もなくのこと、「これを読むといいですよ」と大使が下さった2冊の分厚い本の1冊が『ローマ人の物語?ハンニバル戦記』でした。「ハンニバル戦記」、説明するまでもなく、カルタゴのハンニバルが象群とともにアルプスを越えてローマへ攻め入ったというポエニ戦役の物語です。じつに面白かったですね。夜間、塀の外で「ドーン!」という爆発音が毎晩のように聞こえてくる中で、その不安な気持ちを抑える意味でも、夢中になって読みました。
運行便の関係でアルジェでは2週間の滞在でしたが、いただいた本を滞在中に読みきったのか、あるいは帰国してから残りを読んだのか、今では記憶はあいまいですが、いずれにしても読後感は爽快な気分で、カルタゴ・ローマ両国に対する関心が深まったものでした。読み終わったあと、もう1冊の本、イギリス人のアリステア・ホーンの『サハラの砂、オーレスの石−アルジェリア独立革命史』(訳者の北村美都穂氏は東京工大卒後、科学雑誌の編集者を経て、フランス語が堪能なことから、わたしの勤めていた会社のライバル社JGCに入社してアルジェリアのプロジェクトで活躍)も読了しました。菊版(少し大きめの上製一般書)二段組み700ページにおよぶ大作で、原作名は”A SAVAGE WAR OF PEACE”(「凄惨をきわめた独立戦争」)、内容といい、ボリュームといい、ずっしりと重い本で、ほんとうに読み応えのある本でした。紀元前のポエニ戦争と、つい50数年前のアルジェリア独立戦争、二つの戦記を読んだわたしはアルジェリア、というよりローマ帝国や北アフリカを含む地中海諸国全般の歴史に興味をもちました。そこで、塩野さんの『ローマ人の物語』を読む気になったというわけです。とはいえ、その時点ではまだ執筆中で、1992年から2006年にかけて1年に1作ずつ書き下ろすという壮大な計画、執筆は全15巻のまだ半分ていどの進捗でした。どうせまともには読みきる自信はないし、やめるなら『ハンニバル戦記』だけに止めておこうと、なんど思ったことか……。しかし、全43巻の文庫版も漸次出版されていくということで、思い切って読むことにしたわけです。ただし、読むのは外出時に車中で、そして何年かかっても、という条件を自分に課しました。おかげで15年もかかってようやく読みきったという次第です。なまじへんな条件をつけたために、車中に3冊も置き忘れ、都度新たに買い求めたというドジなこともありました。

とにかく塩野七生さんという作家、舌をまくほどものすごい方ですね。無知なわたしに言わせれば、凄すぎます。彼女なりに、『塩野版ローマ史』を書き残したかったのでしょうし、そのこと自体、立派なことと評価しなければいけないと思います。しかし、わたしごときごく一般読者にとっては、ここまで記述しなければいけないのか、と思えるほど徹底的な記述なのです。「ここまで書くか?」、と思わせるほど完ぺきなのです。ことばを換えれば、そこまで書かれると、政治の世界から社会全般にわたる広範囲な内容にとてもついていけず、わたしなどは必然的に「ななめ読み」、いや、どんどん吹っ飛ばして読むしかなかったと言えるでしょう。だから、読了しただなんて、とてもそんな偉そうなことは言えないというのが本音です。そんな中で、わたしが興味を引いたのは、文中によく出てきた図版や地図でした。内容の理解に大いに役立っただけでなく、地図を読み取ることによって、関連する地政学の理解もしやすくなりました。もう一点、技術屋のわたしにとっての驚きは、「道」に代表されるローマのインフラストラクチュアに関する記述です。技術者でもない著者が、よくぞここまでと思えるほど、充実した記述によって教えられること多々ありで、ずいぶん参考になりました。考えてみれば、ローマの土木技術は現在でもなお土木技術史上で燦然と輝いていると申せます。そのことに関してはとにかく面白く、ふんふんと頷きつつ読んだものでした。
文庫本最後の43巻までたどりついて、ここまで読んできてよかったと思えたのは、その前の42巻「ローマ世界の終焉[中]」に、かねてわたしが何故だろうと不思議に思っていたことの説明が出てきたことです。往時ヌミディアと称され、カルタゴの支配下にあったアルジェリアとチュニジアは、良馬の産地であり、ヌミディア騎兵は勇猛果敢でハンニバル軍団を支えていました。のちになって「マグレブの獅子」と称されるほどアルジェリア人(ベルベル族)は勇猛なはずなのに、なぜ5世紀になってゲルマン系蛮族であるヴァンダル族に国ぜんたいが乗っ取られてしまったのか。そもそも、北欧にいたヴァンダル族がどうして北アフリカまで大移動してきたのか、そして、ヴァンダル族の侵入が西ローマ帝国の滅亡にどのような影響をもたらせたのか、などについてわたしは理解できないでいました。この点について、本の中ではつぎのように説明されています。著者はまず、キリスト教会から「背教者」と糾弾された皇帝ユリウス治世下の武将のことばを引用して、「不幸のすべては、フン族が撒いた種から生まれた」と書き、さらに「フン族というのは、二本足で動く、人間というよりは野獣」とまで表現しています。フン族というのは、東洋史で学んだ知識では前漢を脅かした西域の遊牧騎馬民族「匈奴」の子孫で、後漢に追われるようにヨーロッパへ侵攻した民族のことです。騎乗能力にすぐれ、その残虐性から、ローマ人から見れば蛮族だったゲルマン民族からですら、それ以上の「蛮族」と怖れられ、フン族から逃れるためにゲルマン民族はローマ帝国の領土内へ異動してきます。いわゆる4世紀半ばに始まったゲルマン民族の大移動です。ヴァンダル族はその中の一族で、北欧から東欧(現ハンガリ−辺り)へ移り、そこからガリア(現フランス)経由でピレネー山脈を越えイベリア半島(スペイン)へ移動します。その地で、西ゴート族(ゲルマンの一族)と戦っていた西ローマ帝国から兵力の借用を頼まれたヴァンダル族の族長ガイゼリックは、同じゲルマンである西ゴート族との争いに嫌気がさし、その機を利用して新天地を求めて北アフリカへ渡ることを決めたのです。ジブラルタル海峡を渡る一族は10万人、渡るための船を用意してくれたのは、蛮族が去ってくれることを歓迎したスペインに住む西ローマ帝国の住民でした。上陸先でヴァンダル族を待ち受けたのも西ローマ帝国の軍勢で、帝国も衰退してくると、こんなへんなことが起ったのですね。しかし守る軍勢はわずか1万の、しかも傭兵。ヴァンダルの戦闘兵力は5万で、これでは防ぎようがなく、ヴァンダル族はマウリタニア(現在のモロッコ)からヌミディアへじわじわと勢力範囲を広げていき、北アフリカの要とされたカルタゴを、上陸から10年目の439年に陥落させたのです。ローマ軍によってカルタゴが陥落したのが紀元前146年、それから585年経ってカルタゴはヴァンダル王国の首都になりました。同じ時期ヨーロッパでは、獰猛さで怖れられたアッチラに率いられたフン族がガリアで殺戮の限りをつくし、東・西ローマ帝国をも脅かしていましたが、453年のアッチラの死とともにフン族は瓦解しました。蛮族にはもろさの一面があったのですね。北からの脅威が去った後の455年、こんどは、地中海を押さえたヴァンダル族によって歴史上「ローマ劫掠(ごうりゃく)」として名が残る略奪が行われ、結局、ゲルマンの傭兵隊長によって西ローマ帝国は476年に滅びてしまいます。栄光あるローマ帝国は、いわば蛮族によって痛めつけられ、滅ぼされたと言えるのでしょう。しかし滅ぼした側のヴァンダル族も534年に滅亡します。7世紀になって、北アフリカへは、こんどはイスラム勢力が東から押し寄せてきます。さらに近世になってフランスが地中海を渡ってきて植民地化し、そして、1954年にアルジェリア民族解放戦争がはじまり、8年間のまさに凄惨をきわめた戦争の結果、ようやく独立したのです。北アフリカというのは、まさに民族単位で興亡が繰り返されたのです。すごいところですね。その点、四囲が海であることに救われ、日本は一度だけ元寇がありましたが、愚かなことを考えさえしなければ、他民族が襲ってくるというようなことのない、幸せな国だと言えるでしょう。

(2014年1月)

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