国内での紀行(2)

鳥取三徳山投入堂

社会人としてのわたしのスタートは、一般的にはまだあまり名の知られていなかったC社でした。父などは、口には出しませんでしたが、「何も好き好んでそんな会社へ」という思いだったようです。そんな中で、二人だけ「将来性のある会社だ」と賛意を示してくれました。一人は伯父がC社親会社の役員だというクラスメートの女性、もう一人は、たぶん株をやっていたと思われるわたしの叔母の連れ合いでした。当時、有望株だともてはやされていましたから、C社のことを知っていたのでしょう。その叔父の口添えもあって、父も多少は理解してくれたようです。C社はプラント建設をする会社ですが、なにぶん競争のきびしい典型的な受注産業だったために、閑暇と繁忙の差が激しく、忙しいときなどは、近隣からは「あの会社はまるで不夜城のようだ」、と噂されたほどでした。そんな会社ですから、休暇をとって旅行をするなんてこと、難しいことでした。

新婚記念搭乗券

それでも、地方へ出るチャンスはありました。一つは出張であり、もう一つは現場への赴任でした。わたしの場合、国内現場への赴任は3か所、福井の敦賀市、四国の菊間町、そして山口県小野田・宇部地区でした。学校を出るまで親のすねかじりでしたから、親元を離れて住宅公団の単身寮へ入れた時のうれしさ、それにもまして、東京を離れて北陸へ赴任するなんて、わくわくする思いでした。漁港に近い仕舞(しもた)屋の二階に賄い付きの下宿をしましたが、自分が小説の中の主人公にでもなったかのような思いになりました。身の回りの世話をしてくれたのは優しげな未亡人で、それに人のよさそうな彼女の父親、社の同僚とわたしの4人生活でした。場所柄からか、夕食のおかずはほとんど魚、いくら新鮮でも連日の魚には辟易しました。たまには肉を、と思うわたしの胃袋を満たしてくれたのは、同期入社で新婚間もない奥さまを帯同していた友人がよく夕食に招いてくれたことで、ほんとうにうれしかったものです。当時の敦賀はどちらかと言えばさびれた街でした。同市についてのわたしの知識は、古来大陸と京都を結ぶ重要な港町であり、南北朝時代は近くの金ケ崎城を拠点に、新田義貞と足利軍との間で激しい戦があったていどのことで、たまに日曜日に休めたときなどは、つい京都へ足をのばしたものでした。そんなわけで、芭蕉の『奥の細道』ゆかりの気比神宮・気比の松原なども業務の合間に歩いただけ、幕末の水戸藩で起こった攘夷派の天狗党がこの地で投降し、裸同然で幽閉されたというニシン蔵もちょっと覘いただけでした。しかし、敦賀はわたしにとっては忘れられないところです。一つには、赴任して間もなく父がガンに倒れ、収入の途が絶えたことで、実家の経済的な負担がのしかかったことです。一方で、妻との結婚話があり、仕事に加え明暗二つの事柄で頭の中は一杯であり、敦賀を楽しむなんてこと、とてもできなかったのです。昭和40年、式は父が出席できぬまま挙げ、新婚旅行は羽田から伊丹へ飛び、神戸六甲山ホテル、京都比叡山ホテルを経て、敦賀へもどりました。当初はそこで新妻を帰京させる予定だったのですが、現場の所長はじめ先輩・同僚各位の好意で、さらに三方五湖、東尋坊などをまわることができました。帰京する妻の最後の夜、福井から乗車した急行をわたしだけが敦賀で下車し、妻をホームで見送りました。わたしは2等座席車(現グリーン車)を奮発したし、それで十分だと思っていたのですが、妻にとっては「新婚旅行の途中でひとり帰された」という思いだったようで、いまにして思えば、男の身勝手だったのかな、とふかく反省しております。

「阿波踊り人形」にかこまれたご機嫌な娘

待望の長女を授かったのは昭和42年のことで、誕生してすぐに愛媛県の菊間町へ赴任しました。松山と今治との中間点、瀬戸内来島海峡に面した小さな漁村でした。工事現場からは瀬戸内の海と数多くの島を一望でき、都会育ちの者にとっては、島々が重なって見えるなんてこと驚きで、その風景を眺めることが毎日の楽しみになったものでした。産後四か月を過ぎた梅雨明けに母子を四国へ呼びました。町内では比較的あたらしい船員住宅に住みましたが、東京から離れての初めての地方生活しかも子育て、妻にとってはたいへんだったのでしょうが、見るものすべてが目新しく、しかも子育てに追われる毎日で、案外けろりとしていたようです。それにしでも、ピタッと風がなくなってしまう、瀬戸内特有の夕凪には、ほんとうに参りました。四国では日曜日は休むことができましたので、松山や道後・奥道後温泉にはよく出かけました。まだ車がなかったので、海の景色を見ながらの片道40分ほどの汽車の旅も楽しいものがありました。しかし四国といえば、何と言っても船の旅、今治からの尾道への鉄道連絡船、あるいは島を結ぶフェリーなど、情緒があっていいもので、いまでも懐かしく思い出します。現場での業務が終ったとき、思い切って関西汽船で別府へ行きました。はじめての豪華船、今治港を深夜ドラの音とともに出航し、翌朝目覚めれば別府港、よかったですね。この定期船が、その後まもなく廃止されてしまったこと、たいへん淋しく思っています。せっかくの四国だということで、盆休みに高松経由で徳島まで行き、阿波踊りも楽しむことができました。土産に買った人形に娘もご満悦(?)のようですが、まだ誕生日前のこと、むろん何も覚えていないでしょう。

宇部市厚南の住宅にて

四国のつぎは海を渡った山口県の小野田でした。家が決まるまでは単身赴任で小野田市内に住み、翌年の梅雨明けに家が決まったところで母子と合流しました。新たな住まいは宇部市厚南の、元炭鉱の社宅跡に建てられたみすぼらしい造りの2軒長屋でした。市街地から車で数分ほど山に入ったところで、近くにはボタ山が残り、家の数は2軒だけ、街灯の数も少ない淋しい場所でした。部屋の大きさは3人家族には十分でしたが、トイレは汲み取り式、風呂は五右衛門ぶろ。家の中にはヤモリやムカデ、あるいはゲジゲジ、ダンゴムシなどが訪問し、ときには蛇も姿を現す始末で、まだ1歳になって間もない子供をかかえた都会育ちの妻にとっては、耐えがたかったことでしょう。それでも年内いっぱいがまんしたところで、幸いなことに小野田の竜王山下にあった産炭地域振興財団のアパートに空きができ、移ることができました。その機会に小さな、しかも中古のマイカー(スバル360)を購入し、休日には家族とともに山口県内の観光地(秋芳洞、湯田温泉、萩、青海島など)、そして関門海峡をこえて九州方面、ときには博多までのドライブを楽しみました。ドライブ以外でも、連休には列車やバスなどを利用しての旅行もできました。昭和44年の正月は、徳山からフェリーで國東半島・竹田岬へ渡り、別府経由で由布院温泉へ。ゴールデンウイークには長崎・雲仙・天草への旅。そしてその年の10月末、約16か月滞在した宇部・小野田を離れることになり、途中岩国・宮島・倉敷・岡山へ寄って岡山空港から羽田へもどりました。その後わたしは再び小野田へ単身赴任し、休みを利用しては小回りの利くスバル360を駆って萩焼の窯元めぐり、あるいは寺まわり、そして同僚がいた徳山の現場を訪ねるなど、わが愛車は大活躍でした。もっとも暖房の効かなかった愛車、冬季は腰から膝下にかけて毛布を巻きつけての運転を余儀なくされましたが、それでも、帰任時には高速を利用して日野市・豊田のわが自宅まで、よくぞエンコすることもなくもどれたと、いまなお誇り得る名車でした。

九州への旅行旅程図

小野田から帰任したあとすぐに次女が誕生し、しばらく家庭に落ち着き、いわば家庭サービスに努めていました。豊田から横浜への勤めは、時間的にきついものがありましたが、そんな折、昭和47年春になって母が心臓発作で品川・大井町の病院に入院しました。かなり危険な症状だということで、弟と交代で病院に泊まり込み、あるいは病院近くのホテルから会社へ出勤するなどの経験をしました。この年の半ばに母を亡くし、翌年、横浜の現住所に引越し、そのあと海外勤務にシフト替えとなりました。海外のことについては、いままで幾度となく書いてきましたが、わたしが派遣された南米エクアドルの現場から、半年毎の一時帰国制度が確立し、その時期を選べば、家族旅行が可能になるわけです。そうは言っても、要員の問題その他の理由でかならずしも、そうはいかないケースもあるわけです。わたしの場合、さいしょの一時帰国時に、妻が胆のう結石から肝硬変になりかかり、胆のうの摘出手術のために入院したことを帰国するまで知らなかったもので、家族旅行どころではありませんでした。

京都・大徳寺芳春院山門前にて

2回目の一時帰国のときは、前回の分を補う意味で、沖縄へ行きました。本土へ復帰して4年、免税店の存在などまだ占領時の影響が色濃く残っており、子供たちにとっては不思議な印象を感じたことでしょう。夏だったため、あいにく台風に見舞われて滞在が延び、ついでだからと羽田便を鹿児島便に変更し、指宿温泉に1泊して帰るなど、贅沢なこともしたものです。昭和53年に赴任したサウジアラビア・ジェッダの現場では、翌年の春に一時帰国しましたが、このときは京都への旅でした。大阪伊丹空港まで飛行機で行き、都ホテルに連泊しました。このときには、長女の名前の由来である紫野の大徳寺を訪問したこと、言うまでもありません。その長女も4月には中学へ進学の年齢になっていましたので、自分の名前の由来を多少は理解したことでしょう。ジェッダからの帰任は昭和55年8月でしたが、帰国の途上で連れ合いだけを香港に呼んだ後ろめたさもあって、帰国してすぐに4泊5日で北海道の旅をしました。札幌でレンタカーを借り、旭川・層雲峡・網走・知床・阿寒・摩周湖・釧路と回った旅で、免許を取得したばかりの妻も楽しそうにハンドルを握ったものでした。

鳥取三徳山での妻の登山姿

昭和62年、諸般の事情で子会社へ移り、海外業務からはなれました。はじめのうちは気にも留めなかったのですが、10年もしてくると、海外の空気を吸いたくなり、なんとなく尻がムズムズしてきたものです。定年も近くなり、数年前に取得した技術士の資格を活かしての新しい職場の話が決まりかけていました。アルジェリアの話がとび込んできたのは、そんなときでした。還暦を迎えていて、いまさらムリすることもなかろうと思ったのですが、結局は海外へ行けるという誘惑の方がつよくはたらきました。小さな仕事でしたが、足かけ2年かけて終わらせ、退社したのです。アルジェへは数回行き来したので、その際利用したルフトハンザにそれまでにためたANAのポイントを加算することで、夫婦で国内旅行するだけのチケットが入手できました。選んだところは妻がまだ行ったことのない山陰でした。平成12年4月、羽田から米子空港へ飛び、そこでレンタカーをチャーターして松江・玉造温泉・月山富田城(山中鹿之助で知られる)・米子・大山、そして三朝温泉と2泊3日でまわりました。特筆したいのは、ずうっと憧れていた三徳山三仙寺を参拝できたことです。一般の人にもよく知られた、天狗が投入れたと言われる堂のあるところです。この寺へは小野田にいたころ、一度訪れたことがありました。そのときは、山陰線の倉吉からタクシーをとばしたのですが、夕闇が迫っており、門が閉められたあとで、「これからお堂まで行きたいだって!とんでもない」と丁重に断られた経緯があり、約30年ぶりの訪問に胸がときめく思いでした。ドライブ中に立ち寄ったわけですから山の支度はしていません。しかし、お堂へは一般の参拝者も行くわけでしょうから、ちょっと歩くていどだろうという軽い気持ちで立ち寄ったのです。行ってみてびっくりしたのは、投入堂まで行くには、途中、鎖場・馬の背ありで、まさに登山そのものなのです。それに谷筋の一部にはまだ雪が残っていました。ちょうどその日が開山日だったそうで、参道(山道)への入山門はまだ閉ざされていました。せっかく来たのだ、妻には下で待っていてもらい自分だけでもなんとかお堂まで登りたいものだと、近所の売店で軍手、いざというときに靴にまく滑り止めの縄、飲み物などを用意しました。入山の手続きをしていたとき、作務衣を着た寺の人から「奥さんを下で待たすなんて!なあに、気をつければ大丈夫。行けるところまででも行ってらっしゃい」と励まされ、結局、二人して入山門をくぐりました。その年はじめての登山客だったそうです。2人助け合い、声をかけ合いつつ馬の背の難所も乗り越え、なんとか投入堂の下まで行き着くことができました。最後の岩場をトラバースし、お堂が視界に入ったときの感激は忘れることのできないものでした。それにしても、山に慣れていない、しかもハーフコート姿(さすがに途中のお堂で脱ぎ捨てました)の妻がよく辿りつけたな、の思いをつよくしています。しかし一方で、無茶だと言われればむちゃだったかもしれません。下る途中で一組のわかい男女が登ってくるのに出会いましたが、かれらの登山姿をみるにつけその思いをつよくしたものでした。

祖谷渓かずら橋

退社してしばらくの間は建設部門の技術士としての資格を活かし、地方のコンサルタント企業の管理技術士として、宇都宮、兵庫県加西市、そして札幌などで職を得ていました。業務内容・勤務体制などまちまちであり、時間的な制約もあって、その間は旅行に結びつけることはできませんでした。並行してISOの審査業務にも手を染めました。はじめのうちは審査員として従事していましたが、それだと責任が伴いますし、必然的に時間的な制約も受け、旅に結びつけることはできません。ところがある時期から、審査員資格維持制度の変更により資格の維持が難しくなりましたのでそれを返上し、専門分野の知識を活かす技術専門家の立場で審査に従事することにしました。そうすれば、審査に対する責任はなく、定められた時間外は好きに使えますので、たいへん都合よく利用することができたのです。おかげで、日本全国を回る機会が得られるようになりました。それまで、北といえば、福島辺りまでしか行けなかったのに、東北全県、北海道へも足をのばし、さらに北陸・信越・山陰と、それまでは西高北低に偏っていた訪問地が、比較的バランスのとれた状態になり、なかなか行くことができなかった城下町へも行く機会が得られたのです(2013年06月 『現存12天守』参照)。また、審査前後に場所と時間をうまく示し合わせておけば、家族と落ち合って旅することもできました。たとえば、函館で落合い、湯の川温泉に一泊して夜景を楽しみましたし、その翌年には高松空港で待ち合わせ、金刀比羅詣から徳島・高知へも足をのばすこともできました。途中、念願だった徳島・祖谷(いや)渓でかずら橋を渡れたことも、望外の喜びでした。こんなこともありました。在米中の娘が一時帰国した際、平泉へ行きたいと言うので、その近くの鉛温泉「白猿の湯」につかり、平泉参拝後、自分たちの旅を楽しむ彼女たちと別れ、わたしは審査のために青森へ向かうといった芸当もしました。そんなことで、仕事がらみで旅を楽しむことができ、日本国内42都道府県すべてへ足を踏み入れています。とは言っても、じつはたった1度だけで、しかも1泊もしていない県が2つあるのです。1県は和歌山で、ここへは東京からフェリーで那智勝浦町へ上陸し、新宮市を経てそのまま三重県へ入りましたので、とても足を踏み入れただなんて言えないかも知れません。関西へはよく行きましたが、なぜか和歌山だけは縁がなく、高野山へも行ったことがまだありません。もう1県は佐賀県です。著名な観光地が少なく、福岡から列車で熊本・鹿児島方面あるいは長崎へ向かう際の途中県ということで、なかなか行く機会を得られませんでした。たまたま仕事で福岡に滞在中、唐津焼の窯元へ行ってみたいので日帰りで行って来ました。この日は福知山線の脱線事故のあった日で、唐津へ向かう車中でテロップが流れたこと、今なお鮮明に覚えています。

自分の終活ということでこの国内紀行のことを長々と書きつらね、ここまでお読みいただいた方には、まことにご迷惑だったことと思っております。衷心よりおわびし、お許し願います。
なお、小稿をまとめ上げたころ鳥取中部地震があり、そぞろ歩いた倉吉の白壁の街並み、妻と登った三徳山でも被害が出たということで心を痛めております。妻の登山姿の写真は、被害のあった文殊堂の下を登ろうとしている際のものです。

   

(2016年11月)

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