国内での紀行(1)

『奥秩父縦走記』表紙

わたしの名前は正紀と書いて「まさみち」と読みます。古い戸籍上ではふり仮名がつけられていませんが、幼児のころからそのように呼ばれていましたから、それが正しいのでしょう。しかし、ストレートにそう読んでくれた人は身内を除いていままでいませんでした。また、「紀」の字で「みち」と読ます人は、知るかぎりでは男性で1名、女性では2名いらしただけです。男性の1名は東北の方で、名刺交換をした際、同じ字だったものでお聞きしたところ、「まさみち」だということでびっくりしましたし、嬉しくもなりました。呼び方の謂(いわれ)を聞いてみたのですが、あまり関心もなかったようで、結局、説明はしてくれませんでした。女性のうちのお一人は、戦時中、インドネシア・スマトラ島のパレンバンへ派遣されていた方で、その関係者の集まりで、その方から声をかけられました。執筆した本の奥付からわたしの名が正紀(まさみち)であることを知ったのでしょう。紀子(みちこ)というその方、「紀をみちと呼ぶ方とはじめてお会いしました」、とうれしそうに話してくれました。もう一方は、磯子の太極拳教室でご一緒しており、「石井さんも紀元節(現建国記念日?)の生まれなのでしょう」、としたり顔で話しかけられました。たしかに2月9日の紀元節にちなんでつけられたようですが、だからと言って、その字をどうして「みち」と読むのかについては両親から聞いたことはありません。漢和辞典をひもとけば、「紀」という字、字形から言えば形声文字で、糸巻きの形からきています(白川静『常用字解』)。糸巻というのは、もつれている糸を整えて捲きつけていくものですから、いろいろな意味に発展しています。たとえば、?糸を分けて整理することから「おさめる」、「もとい(基)」、「かなめ(要)」など、?さらに発展して「のり(法)・きまり」、「とし(年)」、「筋道をたてて書きしるす(記)」、などがあり、その中に「人のふむべきみち(道)」もあるのです(以上、大修館『新漢和辞典』)。ということで、正紀(まさみち)は親が勝手に読むようにしたのではなく、辞書で認められた読み方なのです。だからというわけではないのですが、わたしは、親がつけたこの名前、そして読み方、決して嫌いではなく、むしろ大好きな名前であり、親に感謝すらしています。なぜなら、「紀」という字そのものが硬い感じで、自分の性格にぴたりと合っているようであり、自分の人生を振り返ってみると、この文字から生まれている「紀行文(旅の見聞・感想を筋道をたてて書き記した文)」もどきのものを、ごくあたりまえのように書いてきている気がするからです。

上高地―涸沢間行程図
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いきなり自分の名前について書き出しましたので、あまりの唐突さにとまどわれるかも知れません。自分のウェブサイトに、いままでいくどか旅について書いてきましたが、どちらかと言えば海外に偏っていたので、ここらで国内についての紀行を書いてみる気になり、いい機会だと思い、自分の名前に使われて いる「紀」の原点について記しておきたいと思ったのです。紛らわしい書き方をしたこと、お許しください。ところで、名前に紀がついたからでもないでしょうが、わたしは旅が好きです。しかし好きだといっても、家に落ち着いていられないほど旅好きだったわけでもなく、人生を通しておしなべて言えば、自分の業務の関係で出向いた機会を利用して旅をした(というより歩いた)という程度のことだったでしょう。その点からわたしは、「趣味 は?」と聞かれた場合、「旅することです」とは答えない、いや答えられないと思っています。
旅をする場合、わたしは自分の性格が、すこしかっこうよく言えば孤独を愛するタイプのため、ひとり旅がこよなく好きでした。はじめてのひとり旅は高校3年の夏、友人たちが大学受験のための勉強にいそしもうというときに、ひとり学割の周遊券を手に上野を発ちました。宇都宮に住む後輩宅に2泊し、3日めに日光・中禅寺湖を経由し、半月峠(1580m)越えをして足尾へ出て、足尾線(現わたらせ鉄道)で桐生へ下り、その日は疎開先だった安中泊まり。翌日は碓氷峠(信越線にまだアブト式が採用されていた)を越えて軽井沢へ入り、まだ運行中だった草軽電鉄で北軽井沢へ行き、人影もまだらな照月湖を往復して軽井沢へもどり小諸へ。懐古園から千曲川を望み、藤村を偲んだのち、小海線で小淵沢へ向かいました。途中、人の気配すら感じられない松原湖に立ち寄り、鉄道駅としては日本一の高所に位置する野辺山に下りて、八ヶ岳の峻厳な山容に畏怖の念をいだき、小淵沢から東京へもどりました。数10年も前の旅のこと、もう茫々として詳しいことは覚えておらず、群馬県の安中からの途上、どこに泊まったのか、まったく覚えていません。高校生の乏しい小遣いでは宿賃などなかったと思いますので、夏でもあり、高校生だという気安さから、どこかの駅で1泊したなんてことも十分考えられます。ずいぶん道草をしてようやく大学へ通うようになった夏休みには、信州への旅の延長として、単身で父方の叔母の住む信濃大町を訪ねました。3日ほど逗留したのち上高地へ行き、そこで穂高へ登山する学友に会ってから下山して松本城を見学し、辰野から飯田線で伊那谷へ入り豊橋へ向かいました。途中、天竜峡、そして竣工して間もなかった佐久間ダムへ寄り、豊橋から帰京しましたが、この旅も、ひとり旅として忘れがたいものがあります。

浄瑠璃寺本堂

信州へ行ったあとの学生時代の旅としては、大きくは三つに分けられます。春休みは毎年、徹底して古都(奈良・京都)への旅、夏は伊豆半島松崎界隈の海岸へ。それに山行が加わることもありましたが、暑さを避けて、山行は春秋の連休利用が主でした。古都への訪問はいつも単身で、奈良ではひょんなことから大安寺(2010年1月 『南都大安寺』参照)さんと懇意になり、毎年のように訪れ、厄介になりました。都度、先代貫主河野清晃猊下(ドイツの文化勲章を受章)・久子夫人(藍綬褒章受章者)のお二方からいろいろと高邁なお話を聞かせていただくことが楽しみになりました。寺を宿代わりにさせていただき、南都の数多くの古刹を訪ねましたが、長谷・室生へ足をのばせたのも、大安寺さんのおかげでした。社会人になってからもご交誼をつづけさせていただき、猊下からは寺で出版の書籍、奥さまからは毎秋『正倉院展』の目録と入場券が恵送され、恐縮したものです。奈良同様大好きだった京都は、足がかりがなかったため、学生時代は、どちらかと言えば奈良のついでに1泊ていどの予定で回ったものでした。その代わりに、学生の特権である学割で、京都からの帰途、夜行列車を利用して北陸経由で金沢に途中下車するなどして、帰京したものでした。

京都御室・太秦周辺図
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夏休みは例年、旅とは言えないかも知れませんが、学友の知己である伊豆松崎の天然寺へ数人で押しかけ、あたかも合宿をしているかのように伊豆西海岸の海を楽しんだものでした。それまで逗子・鎌倉あたりの海しか知らなかったわたしとしては、澄んだ海の美しさ、そして新鮮な魚の美味しさを教えてくれたのは、まさに伊豆西海岸の海でした。海水浴ばかりは、ひとりで楽しむものではなく、このとき一緒に遊びまわったグループの仲間4名とは、いまでも年に2回、会食を楽しんでいます。ちなみに本稿の出るこの秋は、わたしが幹事役で、安政年間創業の品川宿にあるそばの老舗「吉田屋」で楽しむつもりでおります。

鼻曲山登山道にて

学生時代の旅に山行を挙げましたが、じつを言いますと、登った山の数はそう多くはありません。奥秩父、北、南、中央アルプスなどへ足を踏み入れてはいますが、体力にあまり自信のなかったわたしとしては、古都の巡礼と山行きのいずれを選ぶかと問われれば、やはり古都を選びました。社会人になってからはその傾向は一層顕著になり、一通りそろえた山の道具はお蔵入りさせたものでした。はじめての山行は高校1年のとき、親しくしていた友人と上州三名山のひとつ妙義山でした。高さは1100メートルていどの低い山ですが、峨々としたその特徴ある山容は、疎開していた安中での約1年半弱の間、天気が悪い日は別として毎日のように望んでいたので、その山を選んだのはごく自然の成り行きだったと思います。しかし、そのときは山登りの準備が不十分で、足元はズックの運動靴、たしか地図も持参していないというお粗末さで、結局登山道を失い、表妙義山塊の白雲山々頂を仰ぎながら、すごすごと下山するという苦い経験をしました。本格的な登山は大学へ進んでからで、アルバイトで稼いだなけなしの小遣いをはたいて安っぽい山の道具1式をそろえました。合成樹脂製のまがい物の登山靴、ウインドヤッケは秋葉原で購入した、朝鮮戦争で米軍が使い古したものでした。
その試用を兼ねて、大晦日、中仙道の険路碓氷峠から奥に入った山中の霧積温泉に泊まり、そこをベースに鼻曲山(1654m)、剣ノ峯(1430m)へ登りました。なぜそのような山へ、けげんに思われるかも知れませんが、かねてから、戦時中よく遊んだ碓井川の源流をたどってみたいと思っていたからです。それにしても、厳冬期の正月に2泊3日の山行、妙義の時と同様、いささか無謀だったかも知れません。たまたま宿で同室になった同世代のSさんとご一緒だったからできたようなもので、単身であったら、膝上まであった雪中をピッケルなしで登ることに躊躇していたことでしょう。2日がかりで二つの山を登頂し、下る途中の分岐点で軽井沢へ下りるSさんと分かれ、わたしは信越線の坂本(アブト式機関車の交換基地)へ向かいました。Sさんとはその後も交誼をつづけ、いまなお賀状交換をしています。

甲斐駒ケ岳から白峰三山を望む
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厳冬期の鼻曲山は、ほんの思いつきからの登山でしたが、わたしがホームグラウンドとしたのは奥秩父でした。高校1年のとき読んだ田部重治の『山と渓谷』に魅了されたからでした。秩父への初の単独行は三峰口から雲取山(2018m都内の最高峰)への縦走でした。自分の足の下を白い雲が流れていく快感をはじめて経験しました。その後も秩父へはよく行きましたが、忘れられないのは大学2年のゴールデンウイーク、中央線塩山から杣口を経て奥秩父の最高峰である奥千丈岳(2600m)を極め、国師岳(2592m)、奥秩父の盟主金峰山(2595m)と縦走して増富ラジウム鉱泉から韮崎へ下る単独行でした。そのころ登山者にとっての人気列車であった前夜新宿発の夜行列車の座席確保ために、発車のずいぶん前からホームに坐って待っていたのが事の発端でした。冷えたコンクリートに新聞紙ていどを敷いた上に長時間座っていたため、元々その気のあった痔の調子を悪くしたのでしょう。翌朝歩きはじめて間もなく、そのことが気になりました。高度が高くなるにつれ足下には雪が残っていましたから痔にいい訳がありません。その日は稜線に近い大弛小屋泊まり、翌日は4時に小屋を出て、国師への分岐点から奥千丈へ向かいましたが、登山者の多い主稜から離れたためか残雪が数十センチほど積もったまま。わるいことにその雪の中でキジを打ったため、びろうな話しですが、痔は一気に悪化し、脱肛状態になってしまったのです。その痛さたるや、上りはともかく、下りになると一歩一歩足を運ぶ都度ズシンと響くのです。もう登山どころではありません。とくに金峰から大日岩を過ぎて、里宮ノ坂の急なこと。半ば泣きながらの下りでした。増富の宿への到着は16:35、脱肛になってから約11時間半の苦行でした。韮崎への最終バスが17:30、時間があまりない中、ひたすら湯に浸かっていました。いまはどうなっているのか、あの頃の増富は男女混浴、浴室には10名ほどの団体らしき女性軍に対し男性はわたし一人、もう羞恥心などかなぐり捨てていました。温めたおかげで、バスの中ではだいぶ楽になっていましたが、帰京して品川駅に着いたときは気抜けしたのか、国電(当時)のホームから京急の乗換口への階段が手すりなしでは上がれなかったこと、いまでも鮮明に覚えています。翌日には父も手術したことのある代々木のY肛門科へ行きましたが完治せず、爾来(じらい)わたしは痔に悩まされており、文字通り寺の厄介になるまでお付き合い、と諦めております。

北アルプス涸沢にて

その後も秩父から足を洗ったわけではないのですが、山の先達である学友に誘われ、3000メートル級の山が連なるアルプスに目が向きはじめました。しかしアルプスとなると、簡単に単独行というわけにはいきませんので、学友に誘われたときに同行することにしました。はじめてのアルプス行は学友と2人での南アルプスでした。韮崎から入り甲斐駒ヶ岳・仙丈岳を経て間ノ岳(3189m)、北岳(3192m 富士山に次ぐ日本第2の高山)と踏破し、吊尾根を下って夜叉神峠越えして甲府へもどった5泊6日(途中台風のため、2日の両股小屋泊)の山行でした。頼りになる学友が一緒であり、何といっても2座の3000メートル超の山頂に足跡を残せたことは格別の思いでした。翌年は中央アルプス、木曽駒ヶ岳から宝剣岳へ縦走し、宝剣下の千畳敷カールのすばらしさは、いまなお瞼にやきついています。更には北にも目をやり、お決まりの銀座コースを体験し、合せて涸沢では数名の仲間たちと経験したテントを張ってのキャンプなど、単独行では味わえないいい経験でした。

   

(2016年10月)

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