;lp90io 石井正紀
 

北辰斜めにさすところ

映画公式プログラム表紙

はじめに
北辰(ほくしん)とは北極星の別称で、『北辰斜めにさすところ』は、平成19年(2007年)に制作された映画の題名です。この映画では旧制第七高等学校造士館(のちの鹿児島大学)と第五高等学校(のちの熊本大学)との伝統ある野球対抗戦を表舞台に登場させ、往時の旧制高校生の熱い青春と、戦時下、学徒出陣の名のもとに戦場へ駆り出された痛ましくも無情な体験が活写されています。映画全編に脈々と流れる伝えたい志、残したい想い……、主演した三国連太郎は「この映画には、これからの日本に対する大きな示唆が込められていると思います」と記しています。

父の通信簿

わたしと旧制高等学校(1)
大それた見出しをつけてしまいましたが、いまさらなぜ旧制高校なのか、亡き父から受けた影響について語りたいと思います。戦後間もなくのころ、疎開でわたしがお世話になっていた群馬県磯部で農蚕を営んでいたNさんが、よく父を訪ねてきては、夜遅くまで話し込んでいました。いとこ同士であり、幼友達でもあったのでしよう。二人が楽しそうに交わす話題の一つに旧制高校のことがありました。とは言っても、二人して高校にはまったく縁がないのに、なぜなのと、滑稽に思えたものでした。わたしの手元には遺品らしきものほとんどありませんが、父が大事に保管していたと思われる1冊の磯部尋常高等小学校の「通信簿」が残されています。粗末な紙の造りの中にも、飾線で縁取られ重厚なもので、ざら紙に謄写版で刷られた戦後の「通知表」とは比較すべくもなく、教育に力を注いだ明治という時代を感じさせます。それはともかく父の成績はたいへんよく、第二・三学年の成績など全「甲」に近く、体操と唱歌がちょっと苦手だったようです。そして三年生のときまでは1度も欠席がなかったのに、四年の1学期は3度も欠席をし、途中でそのまま退学をし、奉公に出されたようで、さぞ悔しい思いをしたのだと思います。Nさんも農家の育ちでしたから、上へ進んだとしてもせいぜい尋常小学校の高等科程度だったでしょう。そんな二人でしたから、半ば憧れであり、半ば悔しい思いで、旧制高校を語り草にしたのだと思います。狭いわが家でのこと、枕元から入る「まさるさんなら、高中(旧制高崎中学)から一高でも、浦高でも入れたんに」、なって言葉を耳にしながらいつしか眠りについたわたしの頭には、一高(旧制第一高校)、あるいは浦高(旧制浦和高校)といった、世の中からは消え去ってしまった名前がへんに頭の中にこびりついてしまったのです。
へんな頭になってしまったわたしが、実際に旧制高校生の姿を見たのは1度だけ、小学校高学年のときでした。白線帽に黒マント、そして足元はすり減った朴歯(ほおば)姿は、うわさに聞いていた通りの「三種の神器」をまとっていました。学校名まではわかりませんでしたが、古参の恩師を訪ねてきたのでしょう、先生のほうがかえって丁寧なことば遣いだったようで、「これが(旧制)高校生か!」、しゃにむに憧れたものでした。進駐軍から押し付けられた新教育制度、小学生のわたしにはよく理解できませんでしたが、「旧制高校がなくなってしまうのだ」、と父から聞かされたとき、わたしは子供心にも、その不条理さに怒ったものでした。
わたしと旧制高等学校(2)
もうとっくに消えてしまった旧制高校ですが、わたしが社会人になったころは、まだその名前はしっかりと残っていました。会社に入って最初の仕事は、岡山県・水島に建設する石油化学プラントでした。日本で1、2を争う石油化学の会社でしたから、そこで働く社員の中には、戦時中、軍の施設で働いていた人が結構いて、社内では中枢の立場におられました。のちに自分の執筆の関係で知ったのですが、その会社の場合は、府中に本部があった陸軍燃料廠に勤務されて人がおられたようです。その中にお一人、旅順高校を出られてから、内地の帝国大学ではなく、旅順工大で土木を学ばれたような方がおりました。推測するに、満州にあった燃料廠に勤務されていたのかも知れません。それ以外でも戦時中は、大学卒業とともに軍務についた短期現役将校の方も多く、帝国大学を出られた方々は必ず旧制高校を経ていますから、戦後の平和な時代になってから、旧制高校の同窓生同士、改めて酒を酌み交わしたなんてこともあったかもしれません。
その後、わたしの勤務が海外の業務となってからは、旧制高校とはまるで縁がなくなってしまいましたが、後年、技術士の資格を取得した関係で集まる会合で、思わぬ方と親しくなりました。その種の会合となりますと、出席者はわたしより若干年長である方が多く、博士号の取得者や専門誌への投稿で名の知れた方など、ひとかどの人物もおりました。そのような人の中に、偶然わたしと同じビル内に勤めている顔見知りがおり、親しくことばを交わすようになりました。歳は見た目よりお若く、わたしより二、三ほど上かと思っていたところ、話しているうちに、七年制の旧制府立高校卒だということがわかりました。自分でもおかしいのですが、妙に親近感を持ったものでした。ちょうど旧制と新制とが合体する頃に在籍していたような方は、年齢的にみても、まだ社会の第一線で活躍されていた方がまだ多かったのです。

旧制高等学校記念館

旧制高等學校寮歌の世界
いつのころだったか、大学の同窓会が信州・松本であったとき、アルコールが不調法でということもあり、その種の会合を敬遠しがちなわたしとしては珍しく、勇んで参加したことがありました。松本城の大修復工事が完成した昭和30年(1955年)、亡父はすぐに見学に行き、もどって来た時の興奮していた様子、いまでもよく覚えています。わたしも学生時代に2回、その後も家族と足を運んでおり、松本(城)はなじみ深いところですが、好きでもない同窓会へなぜ勇んで参加したのか、長年訪れたいと念じていた旧制高等学校記念館へこの機会にぜひ行きたかったからです。駅へ着いてすぐに記念館へ向かいました。記念館は古色蒼然とした旧制松本高校(現信州大学)当時の校舎内にあり、展示物も豊富で充実していて、わたしはすっかり満足しました。そして、自分が旧制高校に魅かれていたのは、寮生活であり寮歌だったのだということを、改めて認識しました。旧制高等学校の華は、なんといっても寮歌にあったのです。
ご存じの方もいると思いますが、旧制高校は全学生こぞっての寮生活が原則であり、この点が旧制高校の大きな特徴でした。全学生が共同生活を送るとなれば、求められるのは互いの深い絆であり、自ずとコンパやストーム、あるいは学園祭といった行事です。そうなれば、必然的に必要なのは歌となります。学校ですから当然校歌があり、応援歌もあるでしょう。しかし、求められたのは、なんといっても高等学校の華である寮歌なのです。

信州白線会寮歌祭

さて、その寮歌ですが、一口に寮歌と言っても、寮が複数に分かれていれば全寮統一の寮歌のほかに各寮の歌もあったり、寮歌と称しても、じつは学生歌・逍遥歌・記念祭祝歌・寄贈歌、その他さまざまがあり、数にすれば相当な数となるでしょう。その数多い寮歌から、名歌というか、人気のある曲を選びますと、学生の間だけでなく、世間一般でも流布した三大寮歌は、?『嗚呼玉杯に』(一高)、?『紅萌ゆる』(三高)、?『都ぞ弥生』(北大予科)となります。歌詞もさることながら、旋律もよく、歌いやすい、そのいずれをとってもこの三曲は秀逸です。わたし自身、中学生のころから口ずさんでいた曲です。たとえば『都ぞ弥生』のあの長い歌詞も、1番だけでしたらなんとか覚えられました。なにしろ、自分に関係のない学校の歌を歌えるなんてこと自体、尋常ではないですね。余談ですが、わたしは慶応義塾大学塾歌の1番でしたら今でも歌えます。耳から何回も入って来るうちに、脳のどこかに引っかかってしまったのでしょう。ところで、三大寮歌につづくものとしては、本稿題名の由来、七高の『北辰斜めに』が挙げられるようです。この寮歌、わたしは映画の中で耳にしただけで、まったく知らない曲です。七高というのは他校には見られぬ特異な面が見受けられます。堅苦しい話になりますが、東京帝国大学が設立された明治19年の帝国大学令の公布に合わせて、全国を5学区に分けて1校の高等中学校(のちの旧制高等学校)を設立する中学校令も公布され、東京・仙台・京都・金沢・熊本に5校が設立されました。その際、5校とは別に、山口と鹿児島にも、資金は地元が負担するが文部省管轄下の正規の高等中学設を設立することも定められたのです。新政府内の薩長閥のつよさを見せつけられた思いです。その結果、熊本のあと岡山に六高が設立され、ついでいろいろと曲折を経て、明治34年に校名の下に旧藩校の名を表記する第七高等学校造士館が発足したのです。山口にも旧藩校・明倫館がありましたが、こちらは地方名山口を受けていたのに、鹿児島は戦後の昭和21年3月にはずされるまでそのままでした。七高の特異点はもう一つ、寮歌を歌う前の口上として、『流星落ちて住む処云々…いざや歌わんかな 北辰斜め』、という長い巻頭言を朗々と唱えるのです。映画の中で冒頭の、試合に敗れ、そのあげくに誇らしげに前口上を唱えられ、寮歌を高らかに歌い出す。敗れた五高側としては、屈辱にまみれた悔しさのあまり警察が出動する騒動となるシーン、実感がよく伝わるシーンでした。

琵琶湖周航の歌

さて、三大寮歌以外でわたしが歌える曲となると、恥ずかしながら、たった3曲しかありません。三高の『琵琶湖周航の歌』と旅順高の『北帰行』、そして七年制の東京高校の『東高節』です。はじめの2曲は、皆さまもご存じの曲でしょうから、結局、旧制高校フアンだ、寮歌が好きだったと言っても、皆さんになじみがない寮歌は『東高節』だけということになります。この曲は、わたしが社会人になりたてのころ、私淑していた歴史家網野善彦先生(故人)が同校卒業生だったというご縁で覚えたもので、本来ならストームを囲んで踊りながら唄うべき曲なのでしょう。軽快で単純な旋律の曲です。『琵琶湖周航の歌』は、三高ボート部の部員がつくった詩を、当時学生たちが好んで口ずさんでいた『ひつじぐさ』というメロディに合わせるとよく合うということで、ボート部歌として歌われているうちに学内でも広く歌われるようになり、いつしか逍遥の歌『くれない萌ゆる』に並ぶ三高寮歌となっています。いやそれどころではなく、その後の調査で作曲家の名前も特定できているのですが、両者とも夭折(ようせつ)されていて、作詞・作曲者の名前より曲の良さが先行したような気がしています。戦前にレコード化されていたようで、わたしはその歌詞のすばらしさにほれこみ、学生時代に歌声喫茶で覚えた気がしています。歌謡界でも、昭和30年代後半から大ブレークし、加藤登紀子はじめ、ずいぶん多くの、それもひとかどの歌手がカバーしたこと、皆さんもご存じだと思います。現在でもなおカラオケで唄われているという点では、もはや寮歌の域を超えた歌謡曲と言えるのではないでしょうか。同様な寮歌としてもう1曲、旅順高校の『北帰行』があります。この歌もワケ有で、同校卒業生の間では、忌避(きひ)される傾向があるようです。しかし昭和36年に映画主題歌として、歌詞を変えて小林旭が歌ったことから大ブレークし、旭の歌う「さらば 祖国いとしき人よ あすはいずこの町か」を、わたしは私なりに勝手に解釈して、その心情を自分に重ねて、いまでもよく口ずさんでいます。
(補 遺)
1)3年制の旧制高等学校とは帝国大学の予科的性格を有しており、ほぼ全員が進学できたために、語学を中心とした一般教養に重点がおかれた。
2)とはいえ、独立した学校がゆえに、自由の気風が生じ、創設者である国家権力の求めとは合致しない独立心のつよい学風がうまれた。
3)上記に合致する基幹高校は全国に38校あり、4種に類される。
・ナンバースクール: 第一高等学校(東京)以下、二高(仙台)三高(京都)四高(金沢)五高(熊本)六高(岡山)七高造士館(鹿児島)八高(名古屋)
・地名スクール:弘前高・浦和高など東日本に8校、静岡高・山口高など、西日本に10校
・帝国大学予科(3校):北海道大学・(京城)・(台北)
・七年制高等学校:東京高など官立2校、大阪府立高など公立3校、武蔵高・成蹊高など私立4校
秦 郁彦『旧制高校物語』(文春新書)を引用

  

(2021年10月)

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