;lp90io 石井正紀
 

いまに残る徳川将軍家の墓所

増上寺徳川将軍家霊廟域内・台徳院殿(秀忠公)・崇源院殿(お江)夫妻の宝塔(木造だった秀忠の宝塔は戦災で焼失。戦後正室お江の石造の宝塔を用いて改装された)

1.はじめに
天正18年(1590年)、徳川家康がはじめて江戸の地を目にしたとき、彼はこの地を来たるべき徳川の天下の居城にふさわしく、盤石の城づくりと町づくりを頭のなかに描いたことをうかがわせます。大阪で朝鮮への出兵と花見に現を抜かす秀吉をよそに、家康は土木工事でしっかりと足元を固め、町づくりの基本方針に「陰陽(おんよう)道」を取り入れることによって、護りの面でも慎重さが組み込んでいました。彼は入府してすぐに、当時、武州豊島郡江戸貝塚(現千代田区紀尾井町辺り)に存在していた浄土宗増上寺を、江戸の裏鬼門にあたる現在地・芝を守護するために移転させました。そしてかねて懇意にしていた鎌倉・大船の大長寺(現存)の住持を増上寺の山主として招くなど、浄土宗大本山増上寺は徳川家とは格別の関係を持ち、のちに徳川家の菩提寺となっています。これで裏鬼門は固めましたが、肝心の北東の方角については、古刹浅草寺だけでは位置の関係で心もとなさがありました。そこに登場したのが天台宗の僧・天海大僧正です。大僧正と家康とはかねて懇意にしていた関係で、家康・秀忠・家光三代にわたって幕府のブレーンとして絶大な力を持って「黒衣の宰相」と呼ばれた人物です。のちに家光の代になって上野の山に天海大僧正を開山に寛永寺が創建されました。山号は東叡山、京都の鬼門を守護する比叡山を意識した命名です。いかにも比叡山延暦寺で修行した大僧正らしい命名で、山号のみならず、天台宗関東総本山という寺格、将軍家の祈祷所となり、さらに東叡山主に皇室から輪王宮を迎えるなどの格式が与えられた寺によって江戸の鬼門は守護されるようになったのです。のちに四代将軍家綱の霊廟が寛永寺内に設置される際に徳川家の菩提寺になりましたが、増上寺側の反対はつよく、幕府としては、順番に霊廟を設けるという苦肉の策を弄したようです。ご参考までに、増上寺・寛永寺の二つの菩提寺に置かれた霊廟は次のようになります;
増上寺:2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家重
寛永寺:4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定
その他:初代家康、3代家光はご存じのように日光山中に東照宮、大猷院(たいゆういん)として祀られている。これは別格で、家康は徳川幕府創始者として「神君」と崇(あが)められ、家光は幕府草創期の地固めをし、「天下泰平の世」を迎えられた功(?)であろうか。ちなみに歴代将軍のうち、家光はただ一人、「将軍の正室の実子」である。もう一方、15代将軍慶喜は?となるが、この方は菩提寺の寛永寺に埋葬されずに、隣接する谷中慕地に墓所が設けられている。定かな理由は存ぜぬが、慶喜は神道によって埋葬されているので寛永寺側が墓所の設置を許せなかったのであろう。

                   

徳川家霊廟域内文昭院殿(家宣公夫妻)宝塔(青銅製)

2.徳川将軍家霊廟関連―増上寺
主宰していた江戸探訪で増上寺を訪れたのは、10年前の秋の候でした。幸いなことに、「徳川霊廟」の特別公開がされていました。正直なところ、そのような催しの行われていること、それ以前に、そのような霊廟の存在そのものをまったく知りませんでした。びっくりもし、感嘆措くあたわずの思いでした。公開中、再度訪れたほどでした。将軍家霊廟(増上寺御霊屋)門を入った内部の深閑とした霊廟内の雰囲気の中、二列に向かい合って並んだ八基の宝塔、それらを取り囲んだ苔むした石造灯ろうが目に入りました。一見して、将軍家の墓所といっても、今まで見てきた大名家の墓所とさほど大きな差はないのだな、といった意外性を込めた思いでした。その点で、わたしは大きな誤解をしていました。会場で入手した『三縁山増上寺境内全?圖』、『徳川将軍家旧御霊屋(おたまや)絵葉書』にじっくりと目を通してみて、わたしはびっくりしました。耳にしてはいましたが、増上寺は昭和20年3月と5月の二度にたって空襲を受けています。直撃にちかい空襲で、本堂など寺としての施設の三方を囲むように配されていた御霊屋群を含めて、境内のほとんどが焼失しました。御霊屋となると、門を入って拝殿・本殿、そして御霊を祀る宝塔のある奥院などの施設があり、そのほとんどすべてが焼失したいま、その姿を知るには絵葉書として残されたモノクロ写真に頼るしかありません。ただ、施設の厳粛さ壮麗さは日光の東照宮・大猷院から知ることができることは幸いなことです。先に記した、徳川家霊廟でわたしが感じた意外性は、その敷地のせまさ、そしてそのために感じたせせこましさです。考えてもみてください、戦前の増上寺の大きさは、現在の本堂前の広場を寺の境内と考えればその数倍、その広さの中に設けられた御霊屋・宝塔の数はざっと15です。それだけの施設を、最も大きいと思われる台徳院殿の霊廟の半分にも満たない広さの中に収め、しかも数多い諸大名から寄進の石灯ろうが並びますので、どうしてもせせこましさを感じさせるわけです。戦火のためとはいえ、淋しいことですね。意外性はもう1点、家宣公の宝塔の大きさ(そばに立つ参拝客の背丈と比較してください)が曽祖父に当たる秀忠公の宝塔よりはるかに大きかったことです。このことの説明は容易です。秀忠の宝塔は木造で、がゆえに空襲で焼失してしまったのですが、写真によれば、奥の院に収められた宝塔は当時最高の技術の彫り物が施された、それは素晴らしい宝塔だったのです。しかも、現在の霊廟に祀られた宝塔は石造、南御霊屋(台徳院殿の霊廟)で秀忠公と一緒だった正室お江与の宝塔だったもので、焼失しないで済んだのです。昭和33年から始められた大改修時の際、その宝塔を用いて秀忠・正室達子夫妻の宝塔として祀ったというわけです。それにしても15人いた徳川家将軍のうち、秀忠公はたいへん実直な方で、ただ一人の正室(お江与は信長の姪)だけを愛して8人の子を持った当時としては稀有の方(唯一最後の9人目四男だけは別でのちの保科正之)で、後世、宝塔までも正室と共有するなんて、ほんとうに律儀な将軍でした。

寛永寺徳川将軍家旧御霊屋・常憲院(綱吉公)霊廟勅額門

−寛永寺
寛永寺は上野の山のほとんどを寺域にしていて、その面積は往時120万坪にも及んだと言われている大寺です。しかし幕末以降、この寺は三度大きな災害に見舞われました。その第一は維新戦争の戦場になったことで、本郷台に大砲を据えた官軍の攻撃で根本中堂をはじめ、寺の目ぼしい建物はほとんど焼失しました。いまでも銃弾の跡は思わぬところ、そこかしこに残っています。二度目は明治維新という名の人災です。明治政府・官軍は「勝てば官軍ぞ」、と徳川家の寺・寛永寺を目のかたきにして、寺域の大半を徳川家から奪いました。三度目は増上寺同様に先の戦争での激しい空襲により、徳川家の霊廟(寛永寺御霊屋・御裏方廟)はほんのわずかな建物を除き焼失しました。現在の寛永寺の寺域は往時の10%ほどの広さだと言われています。写真は5代将軍綱吉公(家光三男)霊廟の勅額門で、綱吉の兄4代将軍家綱公の霊廟勅額門と隣合わせで、国立博物館北側の敷地沿い道路に沿って建っています。寛永寺の御霊屋は、増上寺のそれと大きく異なる特徴が三つほど挙げられます。まず第1は、家綱・綱吉とつづく将軍以外の他の将軍の霊廟は、お二方の霊廟域内に分かれて祀られていることで、それに加えて3代将軍家光公の大猷院殿の霊廟が、日光とは別に寛永寺にも設けられている点です。この寺の開基が家光公だということから、増上寺以上に徳川の寺だという特別な配慮が払われていたのでしょう。両寺とも空襲により壊滅的な被害を受けたものの、ご遺骸は宝塔の下かなりの深さのところに埋葬されていましたので焼失をまぬがれたことは共通しています。大きく異なった2点目は、戦後になってからほぼ同じ時期に改葬をしたのに、増上寺の場合は掘り出したご遺骸をいったん火葬し、遺骨を改めて移設した宝塔の下に埋葬し直した点です。そうすることで、秀忠公の現宝塔のように正室お江与の宝塔を用いてその下にご夫妻を合葬させることが可能になったわけです。詳細は不明ですが、もしかしたら火葬し直したのはそれがためだったのかも知れません。その点で、宝塔が無事だった寛永寺では、ご遺骸を往時の姿のままに埋葬し直せたわけです。最後は3点目で、「御裏方霊廟」のことです。寛永寺では、広い敷地を活かして、いわゆる裏方(貴人の奥方のこと)である将軍の多くの正室・側室に加えて、生母あるいは、たとえば増上寺に霊廟を持っていた12代将軍家慶の息女といった方までがそれなりの格式を備えた霊廟が設(しつ)らえていたようです。そのため、「御裏方霊廟」という名称がつけられたのでしょう。戦後の改葬の機会に大規模な発掘作業が行われ、貴重な資料が残されているようです。
−伝通院
御裏方霊廟ということでは、増上寺・寛永寺に加えて徳川家の菩提寺の一つとして「江戸三大霊山」と称された伝通院があります。伝通院とは家康の母・於大の方の法名からとられており、於大をはじめゆかりの子女30ほどの墓所となっています。徳川家菩提寺以外でも御裏方の墓はあります。たとえば小石川植物園近くの宗慶寺で、ここには家康の6男忠輝と7男松千代を生んだ茶阿の局の墓があります。一説では、実子忠輝が豊臣側との戦場で不手際があり、父と兄秀忠の勘気をこうむったためと言われています。

家光公正室(本理院)の墓

−品川東海寺関連
以上述べてきた三寺は徳川将軍家の菩提寺ですが、菩提寺ではなかったものの、増上寺・寛永寺とは別のかたちで徳川家とゆかりの深い寺・公儀寺に品川の東海寺(臨済宗大徳寺派)がありました。この寺は三代将軍家光の開基によるもので、紫衣事件に連座して出羽の国へ流罪となっていた大徳寺首座沢庵宗彭師を、許してまで招いてこの寺の開山とした家光は、ことのほか品川御殿とこの東海寺を愛したと伝えられています。同寺への御成(高貴の方の外出)は月に20回にも及んだ年があったようです。そのような性格の寺、しかも武家階級に好まれた禅宗系の寺でしたから、諸大名こぞって東海寺とのつてを求めて、自国領内とは別に江戸府内の菩提寺にすべく、東海寺山内に塔頭を設けました。大名が開基した塔頭は11院に及び、うち7院までが家光の生存時でした。また、菩提寺になったのは5院・7家です。

東海寺塔頭清光院中津藩奥平家墓所

正保2年(1645年)には沢庵禅師が入寂し、それから7年ほどで家光が病死するなど、寺はうしろだてを失いました。さらに家光が亡くなってから40数年後の元禄7年(1694年)の失火で寺は焼失しましたが、半年ほどで驚異的な復興をさせたようです。寺の開基者としての家光の威光がまだ残っていたとも言えますが、家光の側室・5代将軍綱吉の生母桂昌院の意向がつよく働いたのでしょう。ただし、これ以降、寺の力は下降気味で、明治維新以降、寺の衰退は決定的なものがありました。増上寺・寛永寺のような将軍家の菩提寺ではないものの、将軍家光開基の憎っくき朝敵徳川の公儀寺です。直ちに没収、廃寺にされて東海寺の名跡は、玄性院と名を変えていた旧東海寺の塔頭・臨川院(大老堀田正盛開基 篠山藩青山家の菩提寺)が引継ぎました。その他の塔頭のほとんどは廃院に追い込まれ、現在、残っている塔頭は旧東海寺の境内を南に出て、目黒川を渡ったところに位置する清光院(肥後宇土藩主細川行考開基 宇土藩細川家・中津藩奥平家・高槻藩永井家菩提寺)だけです。名刹東海寺塔頭清光院は、わたしが社会人になるまで住んでいたところからごく近く、その存在は子供のころからよく知っていました。皆さんもよくご存じの品川宿は江戸への門口になりますから、当然のように防備上ずいぶん多くの寺が集中しており、地元の子たちの遊び場となっていました。近所のそうした多くの寺と比較すれば、清光院は明らかに格式の違いがあり、子供心にも近づきがたく、立ち入ることができませんでした。考えてもみてください。戦後でも、まだしばらくは爵位制度が存在しており(制度の廃止は昭和22年)、ひょっとして伯爵さま(奥平家)や子爵(宇土細川家、永井家)さまが墓参りに来られていたのと出くわすかも知れなかっのですから。恐れ多いきわみだったのです。

  

(2021年7月)

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