京都・洛北大徳寺

大徳寺・大仙院尾関宗園師筆「檀越歌」

国内での現場勤務やコンサルタント業務で滞在していたところを除いて、わたしがもっとも訪問した回数の多い都市は圧倒的に京都です。学生時代は毎年のように、社会人になってからも、時間さえとれれば、よく訪問したものです。わたしの場合、京都を歩く際の訪問先は、キーとなる寺を中心にいくつかの訪問地域を定め、その地域を順番に回るようにしていました。東からその地域を書き出してみますと、こうなります。
1)南禅寺周辺:南禅寺 鹿ヶ谷通を永観堂・銀閣寺へ
2)八坂周辺:知恩院 八坂周辺から高台寺へ足をのばす
3)東福寺周辺:東福寺 泉涌寺や洛南の諸寺
4)洛北紫野周辺:大徳寺 境内の塔頭めぐり
5)御室界隈:仁和寺 山門前に佇み、ときに妙心寺へ
6)嵐山・嵯峨野界隈:天龍寺 化野までの諸寺を訪ねる
むろん、これだけでは済みません。時間のないときは、スポット的に、清水の舞台で京都の空気を吸い、ときには詩仙堂の庭から京都の街並みを遠望する。あるいは仏さまへのご挨拶に東寺や蓮華王院(三十三間堂)を訪ね、家族同伴となると、サービスが加わりますから、地域はさらに広がります。女性が好む大原界隈へ行き、三千院の阿弥陀仏を拝観すれば、それと対になるべき日野・法界寺を訪問し、そこからさらに醍醐・宇治へと足をのばすことになります。娘が一緒なら太秦の広隆寺もはずせませんし、八坂の塔・三年坂界隈の散策も欠かせません。上述の1)〜6)の地域、いずこも甲乙つけがたいものがありますが、その中で敢えて1番好きなところを選ぶなら、洛北紫野ということになります。

大徳寺・芳春院山門にて

洛北紫野、ここを1番に挙げた理由は、しごく簡単なことなのです。要は高校生のころ私淑していた美術のN先生の影響なのです。先生には2年間、高校の科目でいえば「芸能」(図画)を習いました。図画といっても、彩色するような絵を習った記憶はなく(絵具が高価だったため?)、鉛筆・木炭とパンを手にしてクロッキーやデッサンを描いていたことだけを覚えています。それと、ときどき京都の庭園や仏像の話をしてくださいましたが、とくに印象に残っているのが修学院離宮の話でした(2015年6月号『京都・修学院離宮』参照)。3年に進んで芸能の時間がなくなってからも、机にむかっての勉強の嫌いだったわたしは、美術室となりの、テレピン油の匂いが鼻をつく先生の部屋によく顔を出していたものです。受験勉強に熱がはいらず、成績のわるかったわたしが、ずいぶん苦労して建築の道に進むことができたとき、先生はことのほか喜んでくださいました。
わたしが一人で京都を歩いてみたいと言い出した際、先生はいろいろなことを教えてくださいましたが、とくに記憶していたことは、京都での泊は智積院に声をかけてみたら、ということと、朝一番に、大徳寺の塔頭大仙院の石庭を見なさいということでした。智積院は宿泊を受け入れていないということで泊まれませんでしたが、大仙院には先生の教えにしたがい、朝食を済ませてすぐに、東本願寺前の古びた宿を出て、待ちこがれたように洛北へ向かいました。もう記憶は茫々としていますが、玄関(国宝)を入ってすぐに、本堂(国宝)背面に位置する書院(重文)へ進み、東側の壺庭(中庭のこと)の石組を見ました。せまい空間にさまざまな形の石が、がっしりと組まれた姿は、なんとも言えず力づよさを感じました。しかし先生が教えてくれた朝の光がどのように影響するのか、わたしにはよくわからず、ただ大仙院の東庭を観たという満足感に浸っただけでした。そのあと本堂へもどり、北側の広縁にどっかりと座り込み、相阿弥作の石庭をじっくりと鑑賞したものでした。敷つめられた白砂と砂積二つだけの、龍安寺の庭と比べればはるかに簡素な石庭でした。それが禅の悟りとどう結びつくのか、正直なところ、さっぱりわからなかったはずなのに、まだ若かったわたしは、当時、臆面もなくこんな文章を残していました。若さゆえの気負いばかりが目立つ文章ですが、恥を承知で引用してみます。
「広縁と土塀とに囲まれたわずかな空間。しかしそこに込められたものの深さ、大きさは如何程のものであろうか。それは無限の何たるかを観る者に語ってくれる。それが何であるかはとても語れない。ただ黙って佇めばよいのだ。1時間でも、1日中でもよい。そこからは刻々と違った風景が展開するであろうし、訪れるたびに別の味わいを持ってくるであろう。龍安寺や金地院の石庭も、有晴園や金閣の池泉庭も、皆大仙院の庭に含まれてしまっている。この庭園こそ室町文化を凝結し、禅の精神を美象化したものと言えよう」。
抽象的で、かつ勝手な思い込みをした文章で、赤面する思いです。

紫野周辺図

往時、洛北はいくつの野から成る広大な皇室・貴族の狩猟の場だったようです。紫野(むらさきの)はその中の一つで、その名の由来について、作家・司馬遼太郎はその著の中で、「紫野とは、染料の紫をとる紫草がはえている野をいう」(『街道をゆく』34)、と説明しています。その通りなのだと思います。しかし、わたしは、じつは別の見方をしているのです。紫野に建立された大徳寺境内には、山門・仏殿・法堂・本坊(方丈・庫裏)が南北一線上に寸分の狂いなく並ぶ禅宗建築特有の伽藍配置がなされ、伽藍に寄り添うがごとく20余の塔頭が整然と建ち並んでいます。境内は静寂さを保ち、凛とした気が張りつめています。大徳寺は、茶に仏法を見出したとされる村田珠光、それを受け継いだ武野紹鴎、その門下である千利休・古田織部・小堀遠州といった茶人たちを育んだ一大禅林です。しかも一休禅師、沢庵和尚を生んだ寺でもありますから、清濁を併せ含むだけの大寺であり、静寂で凛としているだけでなく、誰でもが肩を張らずに境内を散策できる寺でもあるのです。境内はいつも掃き浄められたようにきれいです。しかし秋ともなれば,境内は落ち葉で彩られ、それを掃き集める箒・熊手の音が朝の静寂をやぶってしまうでしょう。そして境内のいたるところで落葉を焼く煙が紫に立ちのぼり、あたり一面、紫と化してしまうのです。ひとり境内を歩いていて、わたしはそんな風景を想像し、箒を持つ雲水に声をかける自分の姿を連想していました。将来、自分が結婚し、女の子を持つようになったら、その子の名は「紫野」にしようと決めたのは、そのときでした。

長女誕生時の案内葉書

長女の誕生は1967年(昭和42年)のことでした。7年前に京都・洛北大徳寺境内で考えた通り、名前は紫野(しの)とつけました。ただし、「野」という漢字は名前としてふさわしくないのでは、という家人の意見で「乃」の字を採用し、紫乃としました。縁起もかつぎ、本を参考に名前の字数もチェックしました。成人した当人が、自分の名前をどう考えているのか聞いたことはありませんが、わたしはいい名前だと自負しております。名前に紫野(乃)とつけた長女を、はじめて洛北紫野の大徳寺へ連れて行ったのは1979年2月、滞在していたサウジから一時帰国した際、家族みんなで京都旅行をしたときでした。のちに、病院建設のために神戸に滞在した3年間は、娘たちも成人となっており、家内を含めて家族が何度か関西へ訪ねてきたときでもありました。大学卒業を目前にした長女が神戸を訪ねてきたとき、京都へも行きましたが、あいにく大徳寺へは行けませんでした。その代わりと言っては変ですが、下の娘、家内とは行っております。下の娘は、長女が来神した同じ年の晩秋、広島方面への旅行帰りに神戸へ立寄りましたので、その機会に神戸から京都へ日帰りしました。大徳寺では孤蓬庵と真珠庵とが特別拝観をしており、境内から離れた孤蓬庵で茶席「忘筌」を拝観し、境内へもどり本坊北側の真珠庵で、大徳寺と茶道とをはじめて結びつけた珠光の墓を参拝し、すぐとなりの大仙院へ寄ったのです。それから10年あまり経った2002年の新緑の候、家内と、奈良の国立博文館へ重源上人像を拝観しに行った折に、京都に一泊して詣でてきました。このときは、興臨院、芳春院で特別拝観ができ、その他に龍源院、大仙院を拝観してきました。大仙院へはじめて行ったときから44年の歳月が経っていたことになります。当時の大仙院は早朝だったこともあって、静寂そのものであり、人影もまばらでした。それがどうでしょう、玄関を入ってすぐのところに売店が大きなスペースを取り、わかい寺ガールズがたむろし、本堂の広縁は人ひとで埋まっていました。たまたまお体が空いていたのか、御住職自らが説法、そして庭園の説明をし、ときには売店の売り子までしておりました。正直なところ、わたしは唖然とする思いでした。元来大徳寺は、京都五山の中でも他派とは趣を異にし、厳粛なる禅の道を教える道場として観光寺ずれするのを嫌っている寺のはずです。ために、大仙院をはじめ4塔頭を除き、他の20あまりの塔頭は「拝観謝絶」(特別公開時を除き)をつらぬいているわけです。そのはずなのに、大仙院の迎合ぶりにびっくりしたわけです。しかし、こうとも考えられます。先に記したように、大徳寺は清濁を併せ含むだけの力のある大寺です。境内すべてが「拝観謝絶」をしていたのでは、せっかくの「宝」も持ちぐされ、いずれは社会から取り残されてしまうかもしれません。そのためには、公開されている塔頭だけでも積極的に社会に迎合し、いわば観光寺に徹することで、多くの塔頭を含む大徳寺そのものを、一大禅林として社会の中で忘れさせずに生き残っていくすべなのではないか。大仙院尾関宗園和尚はそう考えておられるにちがいない、わたしにはそのように思えるのです。

懐石料理「紫野和久傳」入口

最後に、蛇足ですが、紫野で味わったほろ苦い経験談を一つ。家人と大仙院を訪れたその朝、京都駅構内のホテルを出るとき、午前中は嵯峨へ行き、昼食に豆腐でもと思っていました。ところが、つい保津川まで行ってしまい、JR、地下鉄、バスを乗り継いで大徳寺前へ出たのですが、もう昼食には遅い時間になっていました。あわてて飛び込んだのが、大徳寺門前の懐石料理「和久傳」でした。たいへん雰囲気のよい店で、昼懐石を注文し、一息ついたところであたりを見回してびっくりしました。「カード払い謝絶」の文字が出ているではありませんか。京都では有名な店ですから、お値段は「半端ない」様子です。おそるおそるカウンターで確かめたのですが、やはりカードは扱えず、この辺りには市中銀行の支店はないということで、いまさら出るわけにもいかず、途方に暮れました。家内も、はじめのうちはびっくりしたようですが、さすがに女性の用心深さか、万が一を考えて秘かに用意していたお金を足してくれ、急場をしのぐことができました。京都というところの怖さ、というか奥の深さを、あらためて教えられた思いでした。それはそれとして、助けられたわたしのほうは、いまでも家人には頭があがらないままになっています。

    

(2018年08月)

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