富士桜高原記(番外編)

源頼朝公巻狩仮陣所跡碑

富士登山断念記
富士北麓の山荘に住み、富士山を間近に望んでいますと、そのうちいつでも登れるや、という気持ちになってきます。そんな思いで30数年すごすうちに、結局、頂上へ立つことできなかったこと、慚愧の思いでおります。むろんその気になりさえすれば、ある程度のトレーニングは必要だとしても、7合目、8合目にある山小屋に電話予約を入れ、車でスバルラインを行けば5合目(2500メートル)までかんたんに達することができます。そこから歩き始めれば、日のあるうちに8合目(3400メートル辺り)にさほどむりなくたどり着けるでしょう。翌朝、暗いうちに宿を出れば、山頂でご来光を仰ぎ、下山する。頭の中でこんな計画を立て、あとはタイミングを見計らって仲間をさがし、実行するだけとかんたんに考えていました。でも実行できなかったのです。理由は、わたしの独善的なへ理屈でした。一つは、だれでもが選ぶ、車で5合目まで行ってから登るという陳腐な方法ではつまらないじゃないか、ということ。そして、多くの人が口にする「一度は日本の最高点3776メートルを自分の足で踏んでみたい」という思いに、わたしはさほどこだわらなかったためです。これが二つ目の理由で、これはまさにへ理屈以外のなにものでもなく、じつは南米から帰国するとき、ペルーのクスコ近郊サクサワイマン遺跡に寄っており、そこの高度は現地で確認したところ3780メートルほど、富士山より高いとのことで、わたしは富士山より高いところを自分の足で踏んだとの思いを持っていたのです。

富士吉田口登山道馬返・明大山荘

その結果として、わたしは、せっかく富士に登るなら5合目からではなく、吉田口登山道を麓から登ることにしよう、と考えました。吉田口登山道は代表的な四つの登山道の中でも、古来霊山としての富士参拝の中心的な登山道であり、古道として麓から山頂まで歩いて登れる登山道です。それに何よりも、わたしにとっては地の利に恵まれていたからでした。吉田口登山道は「北口本宮富士浅間神社」から始まります。厳密には、富士山信仰を広めた御師(おし)の家々を含めて富士吉田市内の金鳥居からが登山道だと言われています。世界遺産登録にあたっても、信仰の山として総合的にとらえられることが評価されたようです。それはそれとして、神社裏手では登山者用の金剛杖が販売され、お払いなどもしてくれます。古来、信仰上重要な場所とされている小高くなった「大塚丘」があり、いくつかの石造物も建っています。登山道と並行する「馬返」までの遊歩道もそこから始まっています。登山道は神社から「中の茶屋」(1100メートル)までは、北の方向にほぼ一直線に進みます。ここには改築されたばかりの茶屋があり、わたしはこの茶屋をよく利用しており、上から下って来たときなど汁粉を食するのが常でした。甘いものを口にしたときの安堵感が得られ、そして疲れを癒やしてくれたものです。ここには、かつて名物のおばあさんがいて、希望すればキノコの採り方を教えてくれていたようですが、わたしが訪れたころには、もう姿を見ることができませんでした。話がそれますが、ここからは滝沢林道が分岐しており、車で「五合目」まで登れますが、わたしは山間部での無用なトラブルを避けるため、せいぜい「一合目」あたりまで行ったきりです。中の茶屋のつぎは「大石茶屋」(1300メートル)で、ここは朽ちた建物がかすかに茶屋の痕跡を残すだけですが、近くに、頼朝公の巻狩の際、ここを仮の陣所にしたことを示す碑が建っています。またこの辺り、レンゲツツジの群落地で、二つの茶屋間にはフジサクラの群落もあり、シーズンともなれば、花を見にときおり訪れたものです。ここから「馬返」(1450メートル)まではもうひと踏ん張りです。

馬返付近に残る富士講碑群

馬返は読んで字のごとくここまでは馬で来られるが、ここから先は登山道が急になり、馬は引き返された地点です。同時にここから先は聖域ということで、富士信仰の基点となるところのようです。そのせいか、この辺り、苔むした冨士講の碑がずいぶん残っています。いまでも、車で来られるのはここまでです。さて、標題に出した『富士登山断念記』ですが、これを書くにあたって、じつは、わたしは姑息なことを考えました。北口本宮富士浅間神社から馬返まで、わたしはいままでに通して歩いたことはないのですが、神社から中の茶屋、中の茶屋から大石の茶屋あるいは馬返まで何度か歩いています。したがって、時間を節約するために馬返まで車で行き、そこから登り始めたとしても、麓から富士吉田登山道を登ったことになるだろう、という理屈をこねたのです。

一合目鈴原天照大神社

馬返から上への登山を実施したのは2002年(平成14年)10月15日、この日の登山では正確な記録は残しておらず、断片的に記したメモにしたがっての記述ですから、多少正確さに欠ける点のあることお許しください。前夜の空の様子から、たぶん明日は雨ではなかろうかと思っていたのですが、起床したところ、天気は曇天、それなら行ってみようかと準備を始めたため、山荘発がすっかり遅れてしまい、10時を少し回ったころにようやく馬返に着きました。明大山荘裏手に車を停めたのですが、この山荘、ほとんど使われていないのか、いつ行っても人の気配はしていませんでした。最近耳にしたところでは、夏のシーズンの間だけ、大文司屋が山荘を借りて休みどころにしているそうです。足下をかため、体をならしたところで馬返を出発したのが10:20、10分ほどで「一合目」(1520メートル)の鈴原天照大神社の朽ちた社屋前へ到着しました。この辺りまで上りますと、もう完全にシラビソなどの針葉樹林帯の中、高木によって日の光は閉ざされ、薄暗く、湿気も多く、長居はできません。

登山道からの眺望

ここから2合目への道もよく整備されており、「二合目」(1700メートル)の御室浅間神社への到着は11:05でした。北口本宮富士浅間神社に対してこちらは上浅間と称され、本来由緒ある神社なのですが、本殿はすでに勝山の方へ移築されていて、ここには古い拝殿のみが残っています。案内板によれば桃山期の建立とかですが、長い年月を風雨にさらされて見るかげもなく、いまにも倒れんばかりです。二合目からは「女人天上の碑」へ導かれる脇道があります。江戸時代、富士山は女人禁制だったため、ひそかに女人のための遥拝所が設けられていたようです。先を急ぐわたしは脇にそれることなく参道を三合目へ向かいました。勾配が急になり、久しく山を歩いていなかったわたしにはつらいものがありました。太もも、そしてふくらはぎがつりそうで不安感が漂いはじめました。救いは、この辺りまで来ますと登山道の右手の視界がときどき開けてくることでした。

三合目小屋跡

二合目から三合目にかかる辺りは、地図上ではなぜか富士河口湖町飛地になっています。そのせいか(そんなことはないでしょうが)、よくは分かりませんが、河口湖から西湖にかけた、行政区画でいうと河口湖町・勝山村(現富士河口湖町)辺りの眺望が目に入ってきます。登山しているときに、ふと心が休まる一瞬と言えるでしょう。山道の傾斜がなくなり、少しく平坦になったところで「三合目」(1840メートル)の小屋跡が見えてきます。「登山案内」ではこの間は20分と表示されていますが、体力のないわたしは景色を見つつ、かつ休みながら登りますから、おそらく30分以上かかったでしょう。ここまで来ますと、もうメモを取る余裕がないので、だいたいのカンで書いています。早朝に麓から登り始めると、この三合目あたりがちょうど昼食時になると言われていますが、わたしはここは通過点として先に進みました。

四合五勺御座石浅間神社

三合目からの登りは一段と急勾配となります。登山道には流出した岩盤が道の測壁として現れるようになりました。古富士と呼ばれていた頃の太古の昔、火山活動で発生した火砕流の流出した岩盤なのでしょう。勾配は急であっても段状部分が多く、歩く上ではかえって楽になったと言えるかも知れません。そろそろ亜高山帯にさしかかったのか、シラビソや、姿を現し始めたダケカンバなどの背は低くなってきています。三合目から30分ほどで「四合目」(2000メートル)を通過し、ジグザグ状の道をさらに10分ほど登ったところで、岩盤があたかも石畳状にしつらえられたかのような石段の参道になっており、そこを上り切ったところが「御座石浅間神社跡」で、通称「四合五勺」と呼ばれているようです。この辺り富士講の奉納した石碑のたぐいが多く、中には社殿(?)左手の大きな岩盤に「日本橋」と彫り込まれたものもありました。登ってきた石段を見下ろしますと、樹木の背が低くなった分、下界が視野に入り、重苦しかった針葉樹林帯から完全に抜け出して陽光が当たる場所もありましたので、そこで昼食をとりました。この日は単身で山荘へ来ていましたので自分でつくった、こんぶとおかかの握り飯と、まだ熱かったポットのお茶、ささやかではあったものの、おいしい昼食でした。予定よりおくれた感がありましたので、そそくさと四合五勺を発ちました。

五合目旧焼印所跡

中の茶屋から上ってくる滝沢林道と合流して間もなく「五合目」(2300メートル)、そこの旧焼印所を過ぎ、森林限界をこえたところに建つ佐藤小屋へ着いたのは1時半ちかかった頃だと思います。ここでひと休み。お汁粉をいただきお茶を飲んでいるとき、小屋の主人から「これからどうなさるだ?」、と尋ねられました。「今日は偵察ていどの登山なので、このまま馬返へもどるつもり。そのまえに六合目あたりまで行ってきたい」と応えたところ、「せっかくここまで来たのに、そりゃもったいないがね」と言い、「いまから山頂へ行っても明るいうちに八合目辺りの小屋へ入れるがね」、とつづけるのです。わたしは厚意だけは受け、お礼を言って六合目へ向かいました。姑息でしたが、わたしはこう考えていました。この日、馬返から五合目まで歩いたことで、結果として何日かを費やしましたが、富士吉田口登山道の麓から五合目までは踏破したことになる。あとは別の日に、仲間をさがして車で富士スバルライン五合目まで上り、途中1泊して山頂を踏破すれば麓から山頂まで完全踏破したと言ってもいいのではないだろうか。べつに『富士山登山認定書』がほしいわけでないが、まあ、いつかそのことを実現できることを楽しみにして、今日のところは六合目までで満足しておこうと……。足取りも軽く「六合目」(2380メートル)に達したのは2時半ごろでした。10月半ばのシーズンオフだということもあって、スバルライン方面へ向かう道筋にも人影はほとんどありませんでした。この時期、まだバスが五合目まで上がって来ており、いざとなればバスで下におりればいいからと、もう少し登ってみる気になり、吉田ルートの下山道近くまで行きましたが、ガスがかかりはじめたことと、ちょうどこの季節に亡くなった方の慰霊碑を見つけ、不吉な思いがして下山することにしました。下山はまったく同じ道、途中、四合五勺で登ってくる2人の女性に会いました。このルート、わたしは何回か経験していますが、それまで登山者に会ったのは、ほかに1度だけ、大学生らしきパーティだけでした。彼女たち、この日は七合目の花小屋泊とか。馬返にもどったのは4時を少しまわった頃でした。
この登山は、いまから14年半まえのこと。いつか富士山登頂を実現したいと念じていましたが、その後、山荘へ行く機会すらめっきり減ってしまい、結局実現できないまま山荘も手放し、おそらく、もう富士山に登ることないでしょう。わたしの拙い『富士登山断念記』でした。
(付記)添付した写真、森林樹林帯の中の暗いところが多く、たいへん出来のわるいものばかりで申し訳ありません。

    

(2017年5月)

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