食のたのしみ(2)

家政婦と賄い婦

3.北アフリカ・クスクス料理
アルジェリアの日本大使館改修工事のために1999年の夏ごろから半年ほどアルジェに滞在した際、日本から同行してもらった数名の電気工事関係者と同じ宿舎で一緒に暮らしました。ただの宿舎ではなく、広大な御屋敷を日本大使館に貸していた現地大富豪の邸の敷地内にあった館の一つを借り切っていたのです。他との兼務ではありましたが連絡係の執事、それに家政婦と賄い婦付という豪華な生活でした。食事はといえば日本から持ち込んだのはお米だけ、あとは彼女たちの料理による、いわば現地料理でした。その半年間、わたしは自分がそのように決めたことであり、また現地料理はこんなもの、と割り切っていましたので、まあ我慢していたのですが、同行の人たちは「口に合わない」と不平たらたらでした。二人の女性は、手もつけないで残される料理のあまりの多さに自信をなくしたようで、大使公邸のシェフや、日本料理の得意な現地ベルベル人女性(2011年11月『カビリーの乙女』参照)と相談してメニューを替えるなど、一生懸命に気を遣っていました。気を遣ったという点ではわたしも同じで、大使館の警備担当官にお願いして、かなりの頻度で市中のホテルでの食事をとれるよう配慮しました。むろん、都度ガード・防弾車付きということになるわけです。ところがホテル、それも第2次世界大戦時にアイゼンハワーが司令部を設置した由緒あるホテル、エル・ジャザイールでしたが、そこの中華料理でも彼らは満足しなかったのです。わたしは、手に職を持つ職人さんというのは、案外わたしなど持ち合わせない鋭い味覚を持っているのかも知れないと思い、一時、自分の味覚に自信をなくしたほどです。現場工事も終わりに近くなったころ、彼らにどんな料理が好みなのか聞いてみたことがありました。彼らの答えは、なんと、「家(うち)のかあちゃんのつくったものだ」というのです。なんのことはない、それだったら味覚とか好みの問題ではないわけで、それに、彼らにとっては、ホテルとか大使公邸といった堅苦しい場では、結局、何を食べてもおいしく感じなかったに違いありません。へんな話ですが、彼らのことばから、自分の味覚が人後に落ちているわけではない、と失いかけた自信が回復した次第です。

クスクス料理にナイフを入れるシェフ

わたしはいろいろな名目でアルジェとの間を4回往復しました。最初の訪問時は外務省のスタッフとして現地調査が目的でしたから、15日間の滞在中は大使館内の迎賓館泊まり、食事はすべて大使公邸のシェフの手による賄いでした。記録しておいたメモを覗いてみますと、公邸での正餐に招かれたのが3度で、すべてがフランス料理、前菜にフォアグラ、あるいはサラダにキャビア添えなどとメモられています。このほかに、わたしの送別会ということで、大使館員が昼食に市内のホテル・ソフィテルに招いてくれました。メモによれば、オレルアン風のフランス料理、デザートはカルバドス(りんご酒)入りの生クリーム、となっていますが、正直なところどんな料理だったか、ほとんど記憶しておりません。まだテロはなやかなりし頃だったので、レストランにはわたしたち以外の客はおらず、よほど嬉しかったのか、厨房のシェフ全員がサインしたメニューをくれました。フォーマルではない公邸での食事も3度あり、そのうち2度は北アフリカの代表的料理、クスクスでした。それも、シェフが気をきかせて、1回は地元アルジェリア風、2回目はモロッコ風でした。そもそもクスクスとは、小麦粉を粗挽きした粉に水を含ませ粒状にしたものを指すようで、それを食材にした料理、あるいはそれと肉やスープ類とともに食する料理を総称してクスクスというようです。北アフリカから発祥したようですが、今では中東をはじめ、ひろく世界に広がっている料理です。アルジェリアとモロッコとの間でどのような違いがあるのか、むろん多種多様な料理法があるのでしょうが、たまたま食した例では、このようなことが言えそうです。アルジェリア風は、大きな皿の上に羊の丸焼きが載せられてテーブル中央に置かれ、乾燥ぶどうの入ったクスクスは銘々皿に盛られていました。クスクスのことを、シェフはフランス語で「ソムール」と呼んでいましたが、蜂蜜のかかったソムールの皿に、切り取った肉を載せて食べるよう言われました。モロッコ風のクスクスは、羊の丸焼きはなく、羊肉のスープで、ソムールには「ハリサ」と称する香辛料がかけられ、さらに「リシタ」と呼ばれていたヌードルが添えられていました。

竣工パーティ

以下は、クスクスに関する後日談みたいなものですが、工事が完了し、新たにセットした発電機からの給電も確認できたということで、それを祝してのパーティを自分たちの事務所横の空いていたスペースを利用して催しました。大使館や工事関係者など、参加者は総勢で50名ほどでした。用意した羊は6頭で、丸焼きされた1頭の大きさを見たときこれは相当残るな、と思っていたのですが、懸念にはおよばず、6頭の羊の肉はまたたく間に巨漢ぞろいのアルジェリア人たちの胃袋に収まってしまいました。これにはびっくりしました。
アルジェリア風、モロッコ風のほかに、チュニジア風のクスクス料理も味合うことができました。2回目の訪問のときだったか、帰国の際の経由地チュニスで、在チュニジア(外務省の公式表記はテュニジアです)大使館員が紹介してくれた市内で1、2を争うレストラン、ダール・エル・ジェルド(オスマン帝国時代の太守の館を改装)でチュニジア風のスクスク料理を食したのです。ここのクスクスは一つの皿にソムールと羊の肉が盛られ、そこに玉ねぎ、ポテトそしてナツメヤシの実が入ったものでした。モロッコ、アルジェリア、そしてチュニジアと、マグレブ3国それぞれのお国柄が出ているようでしたが、基本的にはトルコ料理の流れをくんだアラビア料理の影響をつよく受けているな、という印象でした。

サマルカンドの市場・パン売り場

4.ウズベキスタンのパン
ウズベキスタンへは鉄骨製作業者TOYTEPA社に対する技術指導のため、2005年から足掛け3年にわたって、都合4度渡航し、かの国の四季のすべてを経験することができたことは、たいへんラッキーなことでした。ホテルは首都タシケントでしたが、仕事で通ったのは数10キロ離れた小さな町でした。はじめての訪問時では、昼食に街中にある不潔な感じのレストランへ連れて行かれ、そこの水のわるさには閉口しました。生水を飲んだわけではないのですが、どうやら大腸菌がウヨウヨしているような非衛生的な水で調理するらしく、その日のうちに、てきめんに下痢。帰国してからも、しばらくは収まりませんでした。そんなわけで、こと食べ物に関しては、わたしのウズベキスタンに対する印象は決してよくなかったのです。ところが2度目からは、TOYTEPA社から車で15分ほどのところにある自社の保養所で食事を提供してくれました。調理はすべて濾過した水を使用しているので大丈夫だという保証付きで、なるほど、それからは安心して提供してくれる料理を楽しむことができました。

プロフ

ウズベキスタンでは、際立っておいしい料理があったわけではありませんでしたが、バラエティに富んでおり、テーブルを囲んで一緒に料理を楽しむといった雰囲気を満喫しました。わたしにとって印象深かったのは、行く先々の土地で、そして同じ土地でも、店同士が自分の味を競い合うように作り出していたパンでした。サマルカンドへ行った際は、ここのパンは硬く日持ちがよくて、ウズベキスタンで一番おいしいという評判でしたが、わたしは防腐剤が入っているような気がして、むしろタシケントのパンの方がおいしく思われました。面白かったのは、客をもてなす食卓では、家の主人はまずパンを小さくちぎって、座につく人の位置に放り投げるのです。一見乱暴なような気もしましたが、客は自分でパンを取る手間が省けるわけで、それも客へのサービスかと感心しました。パンの次に注意を引いたのはプロフです。これは油を使って炊き上げたお米を、小さく切った羊の肉や野菜と一緒に大皿に盛りつけた料理で、大切な客人をもてなすために各家庭が自慢とする大切な料理のようです。写真に出したプロフは、会社保養所自慢のものらしく、白く見えるのは採りたてのニンニクで、臭みがなくたいへん美味でした。スープの種類も豊富でした。出汁(だし)をとるために大体が羊の肉を入れるようですが、麺の入ったスープはラグマン、とくに肉の多いスープはショルバと称するようです。

ウズベキスタンではいろいろなところで食事し、写真を撮るチャンスがありましたので、何枚かの写真を提示し、それにちょっとした説明を加えることにしましよう。

・タシケント旧市街のレストランにて
写真の夢花(ウズベク語の名前Babakh Odjaevaが日本語だと「夢」と「花」の意だとのこと)さんは、わたしがサマルカンドの日帰り観光をした際のガイドさんで、日本に留学したことがあり日本語に堪能でした。帰国する直前に、お礼にと食事を誘ったところ、タシケントの交通大学で歴史学を講じているお母さん同伴で、旧市街の庶民的なレストランで純ウズベキスタン風の料理を味わうことができました。たぶん、観光客は寄りつかないような店だったと思います。左の写真、夢花さんが手にしているのは馬肉と麺の生地とを混ぜ合わせたナルン(またはノリン)と称する料理で、ちょっと口にしてみましたが、見かけによらず美味でした。手前のスープにも表面に馬肉から生じたような白色の脂分が浮き上がってきており、一見気味が悪かったのですが味は存外よく、いかにも中央アジアの草原風の料理といったところでしょうか。右の写真はご存じ羊肉の串刺し(シャシリクと称していました)で、一切れの肉のサイズが大きく一本食べるのが精いっぱいでしたが、下にそえられた玉ねぎの細切りと一緒に食すと消化にいいようでした。

・TOYTEPA保養所食堂にて
わたしの胃腸がじょうぶでないことを察してか、2回目の訪問時からの昼食は会社の保養所でするようになったことはすでに書きました。わたしの体への配慮もあったでしょうが、そこでなら、食事時におおっぴらにウオツカをあおれる楽しみがあったためかもしれません。保養所は人工の湖に接しており、うっそうとした木立の中での食事は、気持ちの良いものでした。ソ連時代の基幹産業としてはなやかなりし頃は、宿泊施設への泊り客は多かったのでしょうが、1991年に独立後は、たまにスポーツ合宿の客が泊まる程度でさびれていました。それでも調理の腕は確かなようで、酪農国でもあるせいか、生ハムやチーズはつねに食卓上に出ており、ほかにナッツ、ビスタチオといった木の実もかならずテーブル上にあります。写真のスープがショルバで、スープのほかにサラダや野菜も豊富で、体によいとされる香草の類もかならず添えられていました。

・山荘での食卓
TOYTEPA 社は、タシケントの北東100キロ強の山中に山荘を有していました。隣国キルギスとの国境に近く、山荘の裏山へ登れば遠く雪をいただいた中国・天山山脈の西端が望め、おもわずシルクロードに思いがはせるほどでした。キルギスのみならず、国境線が錯綜している関係で、北のカザフスタン、南のタジキスタンとも近いようで、そのせいか、この山荘で供された料理は隣国諸国の影響を多分に受けたものもあるようです。写真の料理はカザフスタン風だという説明でした。

・通訳ドクター・ムハメドフ宅にて
ウズベキスタンでのわたしの業務に当たっては、通訳ドクター・ムハメド(経済学の学位を持ち、奥さんも医学博士)にはずいぶん助けられ、かつ業務をはなれての生活面でも面倒をみてもらいました。写真はウズベキスタンを離れる前夜、彼の自宅での食事にさそってくれたときのものです。写っている人物は、左からドクターの母親(ソ連時代に学士院賞を受賞した高名な歴史学者とのこと)と、ドクターの娘婿のご両親です。テーブルの盛り付けは、タシケントに生活する中流の上と思われる家庭での客をもてなす際の典型的な例ではないでしょうか。テーブルの中央には大皿に盛られた果物の山が置かれるのが普通で、ペットボトル横の皿は生ハム、チーズの盛り合わせ、揚げたようなものはサムサと称する揚げ餃子です。生魚は川魚で、レモンをたっぷりかけて食べていました。全般的に野菜・果物、そして木の実の多いことがお分かりいただけるでしょう。

(2012年5月)

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