信州の古寺を訪ねて

安楽寺三重塔の全景

少し前の号で書きましたが、日本建築史の研究の道に進みたいという思いを断念し、卒業と同時にエンジニアリング会社(プラント建設)へ就職することにしました。しかしその思い断ちがたく、社会人になる前に可能な限り古建築に別れをしてこうと、卒論・卒業制作のまとめで忙しい中、都内、そして東京近郊の遺構を見て回りました。入社式の直前には、日帰りで信州・別所温泉近郊に点在する三重塔を見てきました。今月は、その旅の1年半後にまとめた紀行文を載せることでお許し願います。たぶん、当時休刊していた同人誌『棕櫚』が再開されたら寄稿しようか、とでも考えてまとめたのだと思います。可能な限り原文の再現を念頭におきましたが、文中にむずかしい専門用語が多用されている箇所については部分的に書き直したこと、お断わりしておきます。

信州上田周辺略図

信州別所の安楽寺の八角三重塔は、その特異な形でよく知られている。いつか訪れてみたいと思っていたものの、なにせ一つだけとび離れているので、足を向ける段になると、躊躇せざるを得なかった。しかしその安楽寺の近くの大法寺、前山寺にも立派な三重塔が残っているとのことなので、意を決して信州路に向かうことにした。卒業式の終わった翌々日、三月も末で、上田盆地は残雪輝く山々に囲まれ、まだまだ寒かった。
1)崇福山安楽寺
信越本線の上田で上田丸子電鉄線に乗り換えて、40分ほどで別所温泉につく。予想していたよりはるかに活気ある温泉場で、安楽寺は街並みから少しく離れた静かな山中に、質素なたたずまいを見せていた。茅葺のいかにも田舎寺風情の方丈の横をつま先上がりにのぼって行くと、程なく三重塔(国宝)が木の間がくれに見えてくる。すでに写真などで馴染みではあったが、三重塔としては他に例をみない八角形、しかも裳階(もこし 一種の庇)付きなので四重塔に見える、奇怪な形をした塔である。それでいて一種の風格を備えている点はさすがだと言えよう。小高い山と墓地に囲まれた塔は、訪れる人だになくひっそり閑とし、取り残されたかのように、その影を落としていた。屋根は柿(こけら)葺きの一種である橡葺き、垂木(たるき)は放射状に拡がる扇形をとり、各層三手先の出組が密に組まれるなど、全体として、唐様の様式をよく伝えていると言える。

安楽寺三重塔組物詳細

次にこの塔の建立された時期であるが、これは学会でも定説がない。寺伝によれば、安和2年(969年)平惟茂(国香の孫)が信濃守に任じられた時、勅を奉じて国家鎮護のため塔を建立し、内部に金光明最勝王経を納めたとされている。のち、寿永年間に木曽義仲が平氏と戦った際(以仁王の令旨を受けた義仲が信濃から越後へ抜ける際の戦?)に、寺は兵火のため焼失したが、塔は災いを免れたと記されている。さらに正応元年(1288年)に禅宗に改宗され、相当に栄えたらしい。以上のことを史実としたとき、私は、塔の建立時期を次のように推定したい。即ち、現存の塔が唐様である以上、寿永年間に残った塔が何らかの理由で消失し、禅宗に改宗された正応年間以降に、唐様を取り入れて再建されたことに間違いあるまい。それがいつ頃なのかが問題になるのだが、ここで、所謂「唐様」という様式に触れねばならない。そもそもと言うと仰々しいが、我が国における唐様の起源は、承元元年(1207年)に入宋した、曹洞宗の開祖・道元の弟子・徹通義洲が南宋五山の諸刹の制式を写生して持ち帰ったことに始まり、その「徹通写生」と称される『大唐五山諸堂図』(金沢・大乗寺蔵)に基づき、我国の唐様建築が大成されたことになっている。こうして日本へ入った南宋五山の建築様式(唐様)を最も正確に伝えているのが、鎌倉・円覚寺の舎利殿であり、東京東村山・正福寺の地蔵堂であって、共に弘安年間(1285年頃)の建立とされ*1、国宝に指定されている。

石段下から安楽寺三重塔を望む

禅宗はやがて貴族や上級武士の間で信仰を得て非常に盛んとなり、地方にも普及されるにつれ、唐様も亦、地方の建築に影響を及ぼすようになった。しかし、伽藍配置に始まり、個々の建物の立面から建築手法に至るまで細々と規制した唐様も、時代が下がるにつれ、次第にその形がくずれ、やがて形の上でこそ影響を残すことがあっても、精神的な面での姿は全くうすれてしまう運命にあった。したがって、安楽寺の塔の建立を云々するときには、どうしても、様式的な背景とともに、こうした時代的な背景も頭に入れておかなければならないのである。大分脇道にそれたが、本論にもどろう。前にも少し触れたが、この塔をみるとき、成程、全体としての感じは唐様の色合いがつよく、その姿を十分に伝えていると言えるが、細部に至ると、例えば礎盤(柱の受け)の形などに見られるように、唐様本来の手法からはずれている点があり、舎利殿建立時期から大分年代の差があることは否定できない。従って、寺が禅宗に改宗した頃(舎利殿建立の3年後)に再建されたとは到底考えられず、鎌倉末期から室町初期にかけて建立されたとされる東山梨・清白寺の仏殿が、唐様の様式を完全に近く残している点を考え合わせて、室町中期頃の建立とみるのが最も妥当であろう*2。とは言え、何はともあれ、この塔は種々の点で変わっており、真に特異な塔である。要約すれば、
?禅宗寺院の塔として数少ない例
?八角の三重塔として現存する唯一の例
?裳階のついている点(奈良薬師寺の東塔の例があるが)
?唐様を採用したこと(塔は構造的に特殊なので中国渡来の構造の採用は、地震国では本来難しい)
など、他に比類なき形をしており、この三重塔の存在意義は大きいと言わねばならない。

前山寺三重塔

2)独鈷山前山寺
別所温泉から上田駅行の千曲バスに乗る。左手の窓には雪をかぶった菅平が、遠くに、高くそびえている。新町でバスを降りる。ゆるやかな傾斜で部落が続き、その屋根がきれたあたりに、寺らしき甍が望まれる。風がめっぽう強く、おそらく筑波や荒船おろしといった類の名がついているのだろう。半月も前だったら、その冷たさに顔も上げておられなかったに違いない。この寺の三重塔(重文)も普通の三重塔と少しく肌の色を異にしているようである。屋根が?葺き、造りが和様であるという点は、別段不思議でもなんでもないのだが、勾欄のない点と、窓が全然ない点が変わっているのである。創建は建久年間だとされているが、これが事実だとしたら鎌倉時代初期であり、かなり古い作となる。その10年ほど前に奈良の東大寺・興福寺が猛火につつまれ、再建のために新しい建築様式が導入されようとしていた頃である。そんな噂は信州の片田舎にも伝わってはいたであろうが、新しい建築手法までが伝わっていたとは考えにくい。ところが前山寺の三重塔には、頭貫(梁材が柱から顔を出したところ)に大仏様に見られる独特な鼻繰形(一種のかざり彫刻)が見られるのであるが、なぜなのだろうか。この種の繰形は大仏様式で取り入れられたものの、大仏様式そのものは日本の建物にはなじまぬため、長続きせずに姿を消してしまう運命にあった。ただ、頭貫の繰形だけは、後の和様建築に取り入れられ、残ったようである。そのことから、この三重塔の創建は、建久よりはもっと時代が下がり、同じ手法が甲州の大善寺本堂(国宝)にもみられ、こちらは弘安期(1280年代)の建立だというから、前山寺の三重塔も大体この辺りに建立されたと考えるのが妥当だと思う。いうなれば、鎌倉末期の作であろうと推定しておこう。素朴というよりは、むしろ粗野に近いこの塔は、勾欄がないため、どうしても間のびした感が否めず、窓がないことで壁はすべてが板張りとなり、見た感じが益々粗野な印象を与えてしまう。とは言え、豊かな反りを持つ屋根の線は素晴らしく、いい味合を有した三重塔である。バスの便がわるく、時間に制限されてしまい、ゆっくり見る間もなく、寺を後にした。帰路は風を背に受け、飛ぶような速さでバス停まで来た。

大法寺三重塔全景

3)一乗山大法寺
新町から再びバスに乗り、一旦上田へもどってから、今度は青木温泉行きのバスの客となった。当郷で降り、畠の中の道を歩いて程なく、小高い丘の中腹に三重塔(国宝)の姿をとらえることができた。比較的裕福そうな農家を数軒通り越して、大法寺に達する。寺とは名ばかりで、三重塔一基の他は、屋根をアルミで葺いた粗末な堂が一棟あるばかり。恐らく廃寺となってしまったのであろう。むろん、住職はおらず、ひとり淋しく三重塔が建つのみである。しかし塔そのものはすばらしく、さすが国宝だけの価値のある塔で、先に見た前山寺の塔よりはるかにすぐれている。また、形の面白さから安楽寺の三重塔の方が全国的に知られており、この大法寺の塔は全くと言ってよいほど知られていないが、私自身、後者の方が良いと思ったし、好きである。建立は正慶2年(1333年)というのが通説であり、鎌倉末期と比較的新しいのであるが、どこからみても、鎌倉時代の代表的な和洋建築と言ってよい。鎌倉期以前の和様の手法をあますところなく踏襲しており、ある意味では、完全過ぎて特徴がないとも言える。しかし本来の和様の様式から外れたような造りをした前山寺とは違って、ゆがみのない美しさを備えた造りである。

大法寺三重塔組物詳細

屋根は檜皮葺で、木割は比較的大きいのであるが、山を背負っているためか、見た目には小さく感じる。ところでこの塔、軒の出は塔には珍しく二手先出組で支えているように、必ずしも深いというのではなく、また、屋根の反りもいいとは言えない。この辺りのことは、むしろ前山寺の塔の方がいいかもしれない。ただひとつ、屋根のセットバックのプロポーションがいいだけで、実に美しく見えるのである。こんなところは、真に宮大工の棟梁の腕次第であって、単に時代が古いからいいとかということではなく、「我が手よし、人これ見よ」という気構えの問題なのであろう。後世の、就中、江戸時代の棟梁に見せたい作だと言える。何はともあれ、この塔は美しい。俗に「見返りの塔」と称されているが、その名にふさわしく、幾度でも振り返ってみたい塔である。振り返ってみたくなるほど美しいことは勿論だが、振り返ってみるにふさわしい地形に建っているとも言える。この辺りの人が、どれほどこの塔になじんでいるのかはわからぬが、名前の通り、折あらばこの塔に手をかざし、「おらが村の国宝だべ」、と心に刻み込んでいるのではなかろうか。郷愁を呼ぶ塔だと言える。私は大きな収穫を得て、その日の夜行で帰京した。
(注記1)のちの研究で、舎利殿は火事で焼失し、現存のものは、もっと時代が下ることが判明している。
(注記2)現存三重塔に使用されている木材の年輪から年代を調査したところ、正応年間の建立と判明している。

    

(2019年04月)

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