わたしのレコンキスタは書斎づくりだった

小学5年のときだったか、それとも6年生になっていたか、定かには覚えていませんが、当時親しくしていた友人と神田の古本屋へ行ったことがあります。どういうきっかけだったのかも、いまとなっては思い出せないでおります。神保町は幸いなことに戦災をまぬがれ、軒を並べていた書店内の天井までうずたかく積み上げられた本を見た瞬間、驚きのあまり息を呑んだことを、いまでもはっきりと覚えています。鮮烈な思い出です。わたしが、書物、とくに古本にのめり込んでいったのは、このことがきっかけでした。

社会人になり、結婚するまでの2年あまり、独りで世田谷・芦花公園の公団のアパートに住んでいました。団地内の単身寮では、一部屋おいて作家志望のやくざっぽい男が住んでおり、いろいろな社会経験をさせてもらいましたが、就中(なかんずく)、彼が応募していた朝日の懸賞小説(三浦綾子さんが受賞し作家デビューを果たした)の部厚く積み重ねられた、書き上げの原稿に、ずいぶん大きな影響を受けたものでした。同じ団地に歴史学者網野善彦先生(故人 中世史の権威)が住んでおられ、寮内でよく食事を共にしていた社会活動家の柳沢さん、教育大大学院で音楽教育を専攻していた河口さん(のちに東京学芸大や日本女子大の教授)などとよく連(つる)んでは、先生のお宅へお邪魔したものです。当時先生はまだ都立高校の教諭でしたが、その蔵書量はすごく、3Kで決して広いとはいえなかった部屋のすべてが書物で埋まっており、食事はともかく、奥さまとお二人のお子様がいったいどうやって寝るのだろうか、他人事ながら気になったものでした。おそらく給与の大半を書籍代に費やされた奥さまは、家計のやりくりがたいへんだったでしょうが、わたしにとっては、家中が本だらけということで大感激、勝手に自分の「心の師」と決めて、理由をつけてはよくお邪魔したものです。書斎を持つことへのあこがれは、網野先生の影響大ということができます。

もうずいぶん昔のことになりますが、上の娘が結婚し、とき同じくして下の娘が会社の寮に入ることになり、わが家は一気に連れ合いと二人だけの家族になってしまいました。知り合いからはよく、「淋しくなったでしょう」と言われましたが、正直なところそういう気持ちにはまったくならず、むしろ、ひそかに計画していたことの実行のとき来たりぬと、じつは内心ほくそえんだものでした。その実行とは、15年もの間、娘たちに奪われていた「自分の場」をわが家の中に取り戻す、まさに、わたしにとってのレコンキスタ(領土回復運動)でした。それまで住んでいた多摩平の団地から、いま住む横浜のマンションへ移ったのは1973年10月、オイルショックの最中でした。3LDKのごくありふれた造りでしたが、それまで住んでいた公団の3DKよりは広く、狭いながらも自分の書斎を持てたことが何よりも嬉しく思ったものです。製図版付のデスク、肘掛のあるレザー張りの大きな椅子、それに天井までとどく3面の書架いっぱいの書物、そこにいるだけで幸せをかみしめられる思いでした。しかし、ようやくつかんだ幸せをいつまでも味わえるほど、人生は甘くはありませんでした。新居に移って3ヶ月もしないうちに海外勤務が多くなり、ゆっくりと書斎へこもる機会を奪われてしまったのです。それでも、下の娘がまだ小さいうちは、部屋そのものは確保されていました。わたしの受難は、南米からもどり1978年にサウジアラビアへ赴任した後でした。小学3年生になった娘が自分の部屋を要求し始めたのです。そうなると、家を留守にする者の立場は弱いものです。留守をしっかりと預かるはずだった連れ合いは、わたしの気持ちはそっちのけで、社の若手同僚の手助けで、書斎をさっさと娘の部屋に改造し、わが愛蔵の書物を間口わずか1メートル足らず、奥行き3メートル弱のスペースに押し込めてしまったのです。その上、あろうことか、わたしが気に入っていた製図板や椅子などは、「じゃまなので、手伝ってくれた方たちに持って行ってもらったわ」と、しゃあしゃあと宣(のたま)ったものです。そのことを知ったのは、一時帰国したときの事でしたが、その改造には、じつはわたしは一目置いていました。当時まだ出はじめたばかりの、壁に格納できるベッドをセットした娘の部屋はなかなか洒落ていましたし、両面の書架に本がぎっしり詰まった書庫は(写真を残せなかったことが重ね重ね残念です)、肩をすぼめなければ入れないほどでしたが、狭いながらもいかにも書物にかこまれているようで、気に入っていたのです。男独りがこもるには、絶好の場所だったのです。

その書庫も、10年ほどで姿を消すことになりました。子会社へ移籍してすぐ、病院建設の仕事のために出向することになり、約3年の間、神戸へ単身赴任しました。その留守の間、連れ合いは「厨房が狭いから改造したい」と言い出し、さっさと実行に移したのです。総タイル張りの壁、オカムラの高級システムキッチン、古びたマンションにはふさわしからぬ、それは豪華な厨房でした。そして哀れにも、限りなく愛着をもっていたわたしの書斎(というより書庫)は完全に姿を消し、本の一部はマンション地下のトランクルームに入れられ、残りは無造作に段ボール箱に詰められ、山梨にあった小さな家へ送り出されてしまったのです。手にすれば、1冊1冊に思いのこもる書物はすでになく、独り閉じこもる場所すら奪われた男の悲哀は、その悲しみをどこへぶつければよいものなのか。成長した娘二人を従えた連れ合いの、わが家における権力は絶大なものがあり、それに逆らうだけの力は、わたしには残っていませんでした。そんな悲しい歴史の中、15年ぶりに書斎を持てることになったときの嬉しさは、たとえようもないものがありました。まさに領土回復を期し、イスラム勢力をイベリア半島から追い出すために立ち上がったキリスト教徒のレコンキスタの時が来たのです。もっともわたしの場合、自らが雄々しく立ち上がったのではなく、わが娘たちが与えてくれた最初にして最後の親孝行ではなかったか、と今でも思っています。その年の秋は、3ヶ月かけて書斎づくりにいそしみました。準備のために東急ハンズに3週間ほど通いつめ、材料選びから、寸法取り、そして組立てと、久しぶりに楽しい日々の連続で、壁・天井のペンキ塗りもさほど苦になりませんでした。もっとも、山梨から本をもどす作業はたいへんでした。週末になると車を駆って鳴沢村(富士山北麓の高原地帯)へ本を取りに行き、持ち帰った分を書架に収めるという作業が何週間つづいたものか。それも、書架に収めるときに、もう何年も会っていない昔の恋人との再会を果たしたかのような思いだったもので、ずいぶん時間を費やしました。それに、たいへんな誤算もありました。寝ながら書物に手がとどくようにとの不精な考えから、ソファ―ベッドを持ち込んだために書架が十分に設置できず、もどせた本が半分も満たせなかったことです。それにもまして誤算だったのは、寝ながらの読書を楽しみにしていたというのに、本を手にベッドへ横たわると、2、3ページも進まないうちに、いつのまにか寝入ってしまうのです。これには愕然とし、そのショックはいまなお続いております。

書斎づくり大作戦から20年も経ちました。その間、限られたスペース内のことですから書斎が大きく変わったということはありませんが、小さな模様替えは行っています。事務処理のOA化にともないパソコンが必需品となり、プリンターなど周辺機器が増えたり、なくなったりしたことです。書架として採用した「トスカ組み立て家具」はオプションが多様性に富んでいて、パソコン用のデスクトップやキーボードテーブルの設置が楽でした。その他にもアメニティ的なオプションもあり、可動式のミラーやフリッパードアなども設置しました。フリッパーの扉の内側は通常の書架として使用でき、扉には雑誌やパンフ類を見開きの状態で置くことが可能で、重宝しております。書架に収納した書籍類も変化しており、当初の写真に載っています「平凡社の百科事典」などは早い時期に処分しましたし、いつだったかウェブサイトにも書きましたように(2011年5月号、2012年3月号参照)、もう手におえなくなった全集や著作集なども、大学や公共図書館などへの寄贈で姿を消しました。まだ役立てることもあろうかと専門書の何冊か、あるいは業務関係の書類、執筆に必要と思われる資料等もまだ相当量残しておりますが、2、3年の中にはたぶん処分することになるでしょう。いずれは蔵書の大幅な整理をして、これから読みたいなという比較的軟らかい書物を中心に、美術・歴史関係のものなどを手元に残し、まだ山梨に残している書籍類もできるだけ引き取りたいと考えております。何となくにせよ、書棚に手を加えることは、思わぬ資料が出てきたりして、それなりに脳を活性化するようでもあり、そのこと自体楽しみでもあります。限られたスペース内での本の整理、あるいはこれが終のわたしの趣味になるのか、そんなことを考えております。

(注1)本稿は、わたしが所属していた会社の安全工事協力会々報(第6号 1995年刊)に寄稿したものに、加筆したものです。
(注2)書斎写真の内、はじめの2枚は書斎づくりした当初のもの。壁にかけた「蝶の標本箱」は日本でも有数の蒐集家である畏友平井さんから贈られたもの。油絵は連れ合いの描いた三浦半島荒崎海岸で、わたしが気に入っているものです。
残りの3枚は最近の写真でPCやプリンターが置かれ、移動式の鏡も新たにセットされています。蝶の下の絵は、在米中の娘が描いたポートレイトです。壁に掛けられたに仏像写真は、京都・泉涌寺の観音菩薩坐像(重文 通称楊貴妃観音)で、わたしの大好きな仏像です。

(2013年3月)

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