富士桜高原記(2)

ペンキ塗り替をした山荘

高原の四季と行事と出来事と
富士桜高原での生活は春に始まります。前年、地中凍結の始まる前に水抜きをした水道管の通水のために、4月半ば頃に高原を訪問します。山荘生活にまだ不慣れのころは、給湯器に水を通し、湯を出す作業にてこずり、毎年のように給湯器まわりを水浸しにしたものでした。高原の水は冷たく、あるていどの温度に上げなければ、とても炊事はできないのです。高原の春はおそく、水抜きのころではまだフジサクラは咲き始めておりません。車の渋滞を避けるため、ゴールデンウイークの少し前に山荘に入ることにしていましたが、その年によって花の咲き具合はまちまちで、満開時にぶつかるとはかぎりません。ただし、自荘の桜はまだでも、すでに満開になっているお宅もあり、それなりに楽しめるものでした。それに、近くの富士吉田登山道・中の茶屋あたりへ行けばフジサクラの群落があり、ちょっとした花見気分を味わえるのです。この時期、富士はまだ真っ白に雪をかぶっており、青い空と富士の白さとフジサクラの淡い桜色、よく似合う光景だといえるでしょう。太宰治が「富士には月見草がよく似合ふ」と書いていますが、わたしには賛成しかねます。

山荘のフジサクラ・ミツバツツジ

この季節には、別荘地へ上がる道の途中、創造の森キャンプ場では「富士桜まつり」が大々的に開催され、近傍の造園業者がこぞって花木類を売りに出し、結構、団体バスで乗り付ける客もいます。別荘地の人たちは、ここで大小さまざまな好みの草木類を購入し、自荘の庭園に植え、庭木いじりを楽しむのです。わたしはと言えば、ありのままの自然を楽しむ好みのため、花木等を植えるようなこと、あまりしなかったのですが、それでは淋しいという家人の意見で、フジサンミツバツツジやヤマツツジなどを購入し、フジサクラの盛りがすぎる頃から咲くツツジ類の花を愛でたものでした。とくに高原特有の薄い赤紫色のフジサンミツバツツジは大好きでした。

高原夏祭りでの盆踊り・花火

7月1日は富士山の山開き、この日には河口湖で山開き花火大会が催され、夏の高原は一気ににぎわってきます。夜、高原から富士吉田口の登山道を見上げますと、数多くの山小屋そして絶え間なくつづく登山道の灯が見え、山のにぎわいが感じられるようになります。一般車のスバルライン利用は禁止され、登山者は高原のそこかしこに設けられた駐車場から出るバス利用ということになり、高原は登山姿の人でにぎわいます。8月4日・5日は河口湖々上祭の花火が打ち上がり、その翌日には富士観光開発(高原での別荘地開発の最大手)別荘地の広場で「高原夏祭り」が開かれ、下の鳴沢村からもバスをチャーターして、村の氏神である春日神社氏子の女性たちが浴衣姿で大勢参加してくれます。小規模ですが花火も打ち上げられ、せまい広場ですから、ほとんど頭上で開いているような迫力を味わえます。あまりの近さで、かんじんな花火が煙によって薄れてしまい、ときには火の粉が舞い下りてきます。そんなことがあったせいなのか、久しく留守にしていた間にこの祭は取りやめになってしまったようで残念に思っています。8月初旬のもう一つの楽しみとして、富士浅間神社神楽殿で催される梅若薪能があります。神社境内での幻想な雰囲気の中での能は、他の薪能とは一味違う趣があり、高原の特殊性からか、一度なんか深い霧につつまれ、幻想をこえたまさに幽玄の世界に引き込まれたこともありました。もう20年ほど前になるでしょうか、能に造詣の深い畏友長尾高明君(宇都宮大学名誉教授 故人)を誘ったことがあり、本人もたいへん喜んでいたのですが、宇都宮を出発する直前で体調をわるくし、断念したことがありました。本人はむろんでしょうが、わたし自身、来てもらえなかったこと、いまでも断腸の思いでいます。

富士浅間神社薪能

高原の夏のにぎやかさも、ほんの短い間です。8月18日には河口湖の灯篭流しがあり、それが終ると河口湖音楽祭で、多くの若者がステラシアター(船津口登山道際に建つ屋外音楽堂)に蝟集します。終了時の車の渋滞はすさまじく、うっかり巻き込まれようものなら、たいへんな目に合います。そしていよいよ8月26日は、日本三大奇祭の一つ「富士吉田の火祭り」で、この日をもって富士山は閉山ということになります。むろん、閉山したからと言って登山ができなくなるわけではなく、登山道の灯かりはまだまだ登る人を招いているようです。しかし、火祭りが終わればもう9月、高原では一足早く秋の訪れとなるのです。日が落ちれば、もう長袖が恋しくなってきます。

剣丸尾で採れるキノコ類

秋は収穫の季節です。スバルラインから別荘地へ向かう辺りは剣丸尾(けんまるび)と称され、青木ヶ原を形づくった本栖湖方面への溶岩とは別に、河口湖方面への溶岩の流れたところで、富士の成り立ちを知る上での研究対象物が多いということで、環境庁の生物多様性センターや県の富士山研究所などの施設があります。この辺り一帯キノコの豊富なところとしても知られ、秋ともなれば、スバルラインの路肩はそのことをよく知る地元民が停める車であふれます。県の研究所は例年「剣丸尾のキノコ採集」と題した講習会を開き、参加者は募集人数を超えるほど人気です。わたしも3度ほど申し込みをし、雨で中止になったりして1度だけ参加しました。はじめに一般的な注意事項を聞いた上で、約1時間、広大な敷地内で各自勝手に採集し、それを持ち帰って種類別に分類するのです。その結果を専門の学芸員、地元の研究者たちが講評してくれます。採取結果を見ていますと、わたしなどは、見つけしだいむやみと採取しましたが、地元の人たちは、おいしそうな上等のキノコを選別し、それがどういう場所に生えているのかを経験上からあたりをつけて採集していました。それにとにかくスピードが違うのです。結果としては、わたしは量的に地元の人の半分ほどの採取、それに毒キノコ、毒とまで言わないまでもやめておく方が無難だというキノコ、あるいは美味ではないといったものなどが半分も占めていました。一度だけ、マツタケを求めて、独りだけで別荘地の西側の原生林の中へ入り込みましたが、素人などが採取できるものではないのでしょう。たまに地元の人の姿を見ましたが、わたしの存在を知ると、すっと離れてしまいました。よく、「マツタケの採れる場所は身内にも教えない」と言われますが、たしかに半日ほどほっつき歩きましたが、空しい努力でした。

山荘から見る紅葉

キノコ同様、富士桜高原でよく採取されるのはクルミです。はじめのうちは物珍しさもあって、オニグルミの木から落ちた丸い緑の実を土中に埋め、外側を腐らせてクルミを取り出したものです。しかし、手間をかけたわりにさしておいしくもなかったため、1年でやめてしまいました。別荘地内いたるところに転がっており、あまりにも多いので有難味がないこともやめた理由の一つです。代わりに目を付けたのは栗でした。土壌がよくないせいか、粒は小さく、住人の大方は見向きもしなかったようですが、味はわるくなく、根気よく皮をはいで栗ごはんにして楽しんだものです。最初のころはあちらこちらに栗の木があり、かなりの収穫があったのですが、別荘地内を走る車の増加とともにせっかく路上に落ちた栗がタイヤでおし潰されてしまい、また別荘の建設が増えるにしたがって土地の造成で栗の木が伐採されるようになり、めっきり栗の実が取れなくなってしまったのです。わたしにとっては残念なことでした。そのほかに、わが家ではサンショウの実、ミョウガなど、来荘のたびに収穫を楽しんだものでした。それにしても、秋は饒舌です。松ぼっくりの落ちる音、大きなホオノキの葉の屋根にあたる音も、静かな山の夜では大きく響くのです。自然界から話しかけられているようで、わたしはその饒舌さが好きでした。

豪雪に閉じ込められて

山荘購入時、別荘地管理事務所の説明では、冬季は寒いが雪は少ないとのこと。その言葉を信じて、最初のうちは、安全のためにチェーンだけは用意して冬の間でも結構山荘へ行ったものでした。富士浅間神社へ初詣に行ったこともありました。もっとも、行けばかならずと言ってよいほど給水管が凍結しており、そのたびに管理人をわずらわすので行きにくくなり、また、チェーンを装填していても路面の凍結によるスリップは避けられず、その危険性を考慮して、冬季の高原行は徐々にやめるようになりました。それに、不器用なわたしはチェーンの装填が得手でなく、その間、家人は寒い車外で待たされることが不満で、だんだん冬の高原行は見合すようになったのです。理由としてもうひとつ、大雪で山に閉じ込められる事態に見舞われたこともあげられます。昭和61年(1986年)の春のことでした。3月も終わりにちかく、春の到来に備えて水を通水しておこうと21日(金)の午後、山荘へ向かいました。天気はあまりよくなく、土曜日の午後には雨が降り出し夕方ちかくになって雪になりました。翌朝の出発に備えて、念のためにチェーンを装填し、エンジンまわりも毛布で温めておきました。春の雪だし、たいした降りにはならないだろうと高をくくって、そのまま寝てしまいました。翌朝、目を覚ましたのは6時、家の中はし〜んとして、薄気味わるいほどの静けさでした。外へ出てみてびっくりしました。いままで見たこともないような大雪でした。あわててTVをつけますと、山梨県地方に「大雪注意報」、それに今まで聞いたことのない「着雪注意」とが重なり、しかも河口湖測候所始まって以来の72センチの積雪を記録したと報じているではありませんか。むろんこの日の行動はできないとしても、困ったのは、当時まだ電話を敷いていなかったので、管理事務所と自宅への連絡をどうとるかでした。時間が遅かったため管理事務所に無届けのまま入山したので、山荘内にいることを管理人は知らないことになります。それに娘たちも家で心配するにちがいありません。近所のMさんの山荘には電話があり、ご夫妻が来ていることは知っていましたので、150メートルほどの距離、わたしは太ももの上までくる雪の中をラッセルして行きました。1時間はかかったでしょうか。Mさんはすでに管理事務所とは連絡がついていたようで、その結果として、事務所自体も孤立状態で様子が分からないとのこと。また、わたしのところにも2人いることを連絡してくれていました。雪は夕方に小やみになり、夜8時ごろに降りやみました。積雪は90センチにもなっていたでしょう。木の枝から落ちる雪の音なのか、それとも屋根の雪が凍てつく音なのか、ときどき、にぶくそれでいてびっくりするほど大きな不気味な音がしていました。昼の作業のつかれがあったにもかかわらず、不安でなかなか寝つけませんでした。

雪中から掘り出した愛車

翌朝は晴れあがっていました。管理事務所からの連絡結果を知りたいのと、妻がどうしても直接娘と話したいということで、歩いて行けるようにと昨日のラッセル跡を追って雪を踏み固めつつ、午前中をかけてM荘までの道づくりをしました。管理人の話しでは、前日の徹夜作業で国道138号線までのラッセルが終っているので、事務所までたどり着けばジープで河口湖駅まで送ってくれるとのこと。このチャンスを逃してなるものか、M 夫人をのぞくMさんとわたしたち2人の3人、意を決して管理事務所へ向かいました。午後2時前だったと思います。事務所までの最短距離を、もうなりふり構わずがむしゃらに進みました。別荘地メインゲートへの最後の道は600メートルほどの上りです。そこをなんとか雪にもぐらぬよう這いつくばうように進むのです。地獄の苦しみでした。「これは白魔だ!」、そう思いました。途中で若い男女二人に出会いましたが、彼らはなんと、ゴザを2枚用意していたのです。その2枚のゴザを交互にうまく前に進めつつ、その上をほふくしていくのです。「なるほど!天晴れ」、つくづく感心しました。別荘地のゲートを出たところからは、幸いなことに道はラッセルされており、そこからはいつもと同じように管理事務所にたどり着きました。到着は3時、ふだんなら15分のところを1時間以上かかったわけです。Mさんとわたしとは同世代、おなじ市内でとなりの南区住まい。貿易商社の社長さん、この日はどうしても社を休むことができないそうで、ビニール製のズボンをはき、レインコートで身をつつんだその下はスーツ姿、袋から紳士靴をおもむろに取り出し、履いてきたゴム靴を事務所に預けていました。このことが縁で、すっかり親しくなり、その後、顔を合せたときなど、たがいにそのときの姿・恰好を思い出し笑いをしては、苦労話に花が咲かせたものでした。ついでながら、出発時、わが山荘には食べるものがぜんぜん残ってなく、留まるわけにいかなかったのです。ぶじに横浜へもどったその週の中ごろ、管理事務所から車が動かせるようになったとの連絡を受けました。土曜日に愛車引き取りのため電車で河口湖駅へ向かいました。そこからタクシーで、なにはともあれ愛車のところへ行き、エンジンのかかることを確認して、安どしてタクシーを見送りました。

   

(2017年2月)

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