富士桜高原記(1)

36年間使用の 山荘の表札

山荘の収支
2016年11月13日、ちょうど36年前に富士北麓の富士桜高原に購入した小さな山荘を地元業者に引き取ってもらう正式契約を済ませました。ながいこと使ってきた山荘の最後の見回りをし、戸締りをすませたときは、感無量なものがありました。4年前の春、愛車を手放したときは、込み上げてくるものがありましたが、今回は、言い知れぬ感慨こそありましたが、気持の上では安ど感のほうがつよく、むしろホッとした思いでした。これで負の遺産を処理できたかと思うと、肩の荷というか、心の中に重くのしかかっていたものが取り払われた喜びで、富士北麓からもどる車中でも、握るハンドルが軽く感じられたほどでした。正直に申して、このときの自分の気持は複雑で、わたしの筆力をもってしては書き表せないものがあります。

春の富士桜高原

36年前の1980年というのは、その年の夏にわたしがサウジアラビアの長期滞在からもどった年です。南米での滞在を含めて数年ぶりに日本に落ち着いたとはいえ、新たな業務で、アメリカ・パサデナ、フランス・パリへの出張などが続くあわただしさのなかで、ふと富士山でも見に行こうかと妻をさそって山中湖の「マウント富士」へ1泊の小旅行をしたのが、富士桜高原とのつながりのキッカケでした。記憶は定かではないのですが、たしか10月の後半だったと思います。ホテルから富士が見えたのかどうかも記憶にはありませんが、せっかく来たのだからもっと近くへ行ってみようと、山中湖から河口湖方面を結ぶ国道138号線を進み、船津口登山道を上っていきました。じつは、その辺りは別荘地になっているということ、チラシか何かで見たことがあり、別荘地なるものを見てみたいという魂胆もあったのです。国道から高度にして100メートルほど上ったところに丸紅別荘地の管理事務所があり、引き寄せられるように入ってしまいました。売出し中の物件として案内された山荘はアカマツ林に囲まれた中にぽつりと建っており、近くには数10メートルほどのところに1棟あるだけで、他はすべて数100メートルもはなれていました。わたしは、とっさに、自分が愛読していたギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』(新潮文庫)を思い浮かべ、こんなことを考えていました。こういうところで住んでみたら、50歳を過ぎてからロンドンの郊外をはなれ、南イングランドでの田園生活の中で思索の毎日を送ったギッシングをもっと理解できるのではないかと。そして、ウォ−ルデン・ソローの『森の生活』を少しでも味わえるのではないかな、と。しぶる家人をなんとか説きふせ、くだんの山荘を購入するまで、さほど時間は費やしませんでした。サラリーマンに過ぎなかったわたしにとって、むろん、それは決して楽な買い物ではなかったのですが……。

購入当時の山荘外観

そんな思いで購入した山荘も、じつは10年ほど前から、わが家にとっては大きな負担となっていました。理由はいろいろありますが、こんなことでまとめられると思います。
1)経済的な負担。とくに建物の維持管理のために、ばかにならない支出を余儀なくされていた。
2)山荘周辺のさまざまな環境の大きな変化。とくに樹木をはじめ植物類の成長の早さに対応しきれなくなっていた。
3)高齢化にともなう生活パターンの変化。とくに、住宅に求められる様式・設備等の大きな変化。
ここにあげた理由すべてはごくあたりまえのことばかりで、何をいまさらと言われそうですが、たしかにその通りで、当時、自分ではそれなりに考え、なんとか家人を説得したつもりだったのですが、やはり自分が不明だったことを恥じるばかりです。
まず1)の経済的な負担ですが、なにせセカンドハウスのローンに対しての金利は10パーセントにちかく、その支払いはたいへんであり、それでも在社中にローンの返済はなんとか済ませたのですが、支払いを済ませた後にもそのしわ寄せはわが家の経済に大きく影響しました。2)、3)については、直接的に影響するものではなかったのですが、いざ山荘を手放そうと考えたときに、樹木がうっそうとしてイメージが暗く、家のつくりが若者に向かないとか、設備類が時代にそぐわないといった理由で、購買層から見向きもされなくなってしまったという点で、結果として大きな影響を受けるようになってしまったのです。購入時、ヘンリ・ライクロフトやソローの生活に近づけて満足したものの、3年から5年もしないうちに、わが山荘の周辺には都市圏の瀟洒な住まいを思わせるような家、それも明るい日ざしを浴びた家々に囲まれてしまったのです。大きな誤算でした。その結果、わが山荘は、とても収支を云々できる存在ではなくなり、最終的には、なんとか業者に頼み込んで引き取ってもらう程度の代物になっていたのです。総じて述べれば、山荘、あるいはセカンドハウスなどというもの、わたしごときしがないサラリーマンが持つべきものではなく、持つとしても二世代以上にわたって所有するつもりでなければ維持できないということを身にしみて感じたのです。痛い目にあってようやく気づいたという愚鈍さ、恥じ入るばかりです。

秋の富士桜高原 背景は御坂山系

富士桜高原のこと
富士桜高原は富士北麓、海抜1000〜1200メートルあたりに展開する広大な高原です。わたしの山荘周辺で海抜1100メートルほど、気温は平均して横浜より7度は低いでしょう。したがって夏の平均気温は23度ていどで涼しいのですが、冬の寒さはきびしく、12月には地中が凍結をはじめ、冬期は氷点下の気温はあたりまえで、記憶ではマイナス12、3度を記録したことがあります。ちなみにフジサクラというのは富士山麓一帯に咲く桜で、木も花も小ぶりで楚々としており、山梨県の「県の花」に指定されています。この花の名を冠した富士桜高原という地名は公的には存在していません。あくまでも別荘開発を目的に地元開発企業が便宜的に呼称し、それが観光上でも都合がよいということから富士北麓のある一定の地域を指して、通称として使用されている地名だといえるでしょう。事実、山荘の登記上の名称は山梨県南都留郡鳴沢村字富士山10453番地347ということになります。その名に富士山とつけられていることから察していただけるように、富士箱根伊豆国立公園内に位置しており、富士山頂は鳴沢村に所在しています。高原一帯はいわゆる貞観6年(864年)の大爆発で形成された原始の森で、いまなお溶岩洞穴や樹型がいたるところに残っています。もっとも、国立公園内とはいえ私有地が38パーセントもあり、規制の適用のない普通地域と合わせれば、公園全体の45パーセントは何らかの開発が可能なことになるわけです。したがって、土地の所有者は原始の森のままにしておくというわけにもいかず、1960年(昭和35年)頃に質のよい水脈(年間を通して11℃の冷水が出る)の発見を機に、ゴルフ場の建設や別荘地として開発を始めました。はじめのころはどちらも売れず、ゴルフ場の会員権購入者には別荘地や建売別荘の低額サービスなどをしていたようです。そういえば、ミス日本に選ばれた著名な女優さんとか、有名な作家、あるいは何代か前の首相の別荘などもありました。いまでも、時流にのった有名な漫画家、グループ解散で話題になったタレント、それに著名な政治家などの別荘があるようです。原始林あるいは原生林としてよく名の知られている「青木ヶ原樹海」は鳴沢村の一部にもかかっていますが、大半は、となりの上九一色村(現富士河口湖町・オウム真理教で名が知られた)に広がっています。富士桜高原も青木ヶ原樹海と同様に溶岩流上に形成されており、アカマツの純林が展開しております。わたしがはじめて訪れた1980年のころは、冒頭に述べたような状況で、わたしなどはふらちにも、別荘地内でゴルフボールの打ち放しをしたものでした。そんな状態がつづいたのはほんのわずかな期間で、高原は別荘地として見る間に変貌し、いつの間にか宅地化の様相を呈すようになってしまったのです。

冬の富士桜高原・別荘地のゲート付近にて

富士桜高原へのアクセス
ところで首都圏からその高原へ行く道路としては、中央高速を利用して大月から分岐して河口湖ICへ行くか、東名御殿場で下りてから篭坂峠越えということになります。東名コースの場合、現在では須走から東富士道路を利用して富士吉田ICで下りることになります。両インターとも、下りてからは本栖湖方面へ向かいますが、高原へ上がるにはいくつかのルートがあります。河口湖ICの場合は、船津口登山道が近くて便利ですが、その道と並行してもう1本の道が開発されており、途中で合流しますので条件はほとんど同じです。ほかの2本の道のうちの1本は、船津口登山道から4キロほど西側にあり、名門ゴルフ場として著名な「富士桜カントリークラブ」へ上がる道で、おそらくそのために開発された道なのでしょう。この3本はわたしの山荘がある丸紅別荘地の管理事務所前で合流する関係で、よく利用する道でした。富士スバルラインについては、富士五合目へ上る自動車専用道として、車をお持ちの方、あるいはバスで行かれた方も多いかと思います。そのスバルラインを利用する場合は、ゲートの手前で一般道へ分岐する道があり船津登山口に接続されています。富士吉田ICで下りるとすぐにスバルラインにつながりますので、東富士道路が開通して御殿場コースを選ぶことが多くなったわたしなどは、ほとんどこの道を使うようになりました。

国道246号沿い・山北の洒水の滝

いまでこそ高原へのアクセスはおどろくほど便利になりましたが、はじめのうちは中央高速大月・河口湖間は片側1車線で、御殿場からの道も篭坂越えの難所があり、難儀したものでした。道路条件の悪さは慢性的な渋滞に結びがつき、道路状況次第では一般道へバイパスする必要性から、そんなことでもなければ使いそうもない道をずいぶん覚えました。中央高速方面の場合は、山梨・都留から道志村へ、あるいは山中湖の北から山伏峠越えで道志へ抜ける道。東名方面では、山中湖沿いを走る国道138号線と並行する裏道で篭坂峠へ抜ける道、そして須走からは富士国際CC横を抜けて国道246号を小山町へ出て、さらに大井松田へ出る道などです。そのお蔭で、それまで耳にしたこともないような洒水ノ滝なども見る機会がありました。滝といえば、東名御殿場が渋滞のときなど、その先の富士ICで下りて本栖湖経由で高原に入ったこともありました。その途中に白糸の滝があり、それまで知らなかったみごとな滝の存在を知ることができました。高原へ通うようになって数年ぐらい経ったころに、大月・河口湖間も2車線になって道路事情が大きくかわり、東名ルートの方も、篭坂トンネルの開通と同時に須走から河口湖とを結ぶ東富士道路が出来、大幅に時間短縮が図れるようになったのです。ごく最近では、東名海老名と中央高速相模湖とが結ばれた圏央道も開通していますし、御殿場・須走間の工事も始まり、いずれは東名御殿場と東富士道路もつながることでしょう。そんなわけで、はじめのころは、いくら急いでも2時間半(渋滞時は数時間から最大10時間)かかったものが、その後は2時間を切れるようになっています。わずか2時間で、環境がまるで異なる別の世界での生活を味わうことができる、これはリフレッシュという点で得難いものがあり、金銭には換えられないことでしょう。こういった点は収支を考える上でとうぜん加味すべきなのでしょうが、比較するに足る計算根拠が難しいので考えないようにしたこと、ご容赦願います。

   

(2017年1月)

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