映画『サン・ジャックへの道』

たしか4年ほど前だったか、銀座のミニシアター「シネスイッチ銀座」で映画『サン・ジャックへの道』を観たことがあります。別にぜひ観たいという意識で行ったわけではなく、たまたま通りすがりで、ちょうど上映が始まったばかりだったので、何気なく入っただけのことでした。ところが、これが何とも言えず素晴らしい映画だったのです。
映画のストーリーは、フランス南東部の町ル・ピュイのノートル・ダム大聖堂前に集まった、いかにもわけありの8人の男女が、ベテラン案内人に引き連れられて、スペイン北西部の聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラまでの1500キロにも及ぶ巡礼路を2か月かけて旅するという話です。巡礼に参加した8人の取り合わせが、なんとも言えず滑稽でした。中心に置かれたのが、この巡礼路を三人そろって最後まで歩くことが遺産相続の条件になったという理由でしぶしぶ参加した、ふだんは口も利かないような仲のわるい3人の兄姉弟。巡礼の旅とは知らず、楽しいウォーキングだと思って参加した二人の楽天的な仲良しギャル。巡礼の最終目的地がメッカだと思い込んでいる、とぼけたアラブ系の若者二人。そして残る一人が、過酷な運命の中で心の葛藤をつづけ、自分自身を見つめるために巡礼に出た物静かな女教師です。いやもう一人、案内人ギイの存在も無視できません。彼も病身の子をかかえるがゆえに、モスレムでありながらキリスト教の聖地への案内人としての仕事を放棄できない苦悩を抱えているのです。しかも、とんでもない組み合わせの8人を、2か月にわたり、引率していかなければならないのです。

  フランスから聖地サンティアゴ(キリスト教の使徒・聖ヤコブのこと フランス語だとサン・ジャックとなる)へ向かう巡礼路はパリを起点とするコースをはじめ4コースあるといわれています。この中で、ル・ピュイからの路が最短ルートであり、かつ最もポピュラーだとされています。最短とはいえ、そしてフランスの美しい大地を歩くにせよ、スペイン国境まで約1ヶ月間、ただひたすら歩くのです。しかも途中からはフランス中央高地山中の歩きです。実際に歩いた方の話では、いくら美しい景色だとはいえ、そんなものは目に入らず、目にするのは自分の足元だけになるそうです。映画ではその間、登場人物たちの背負ってきた人生、そして、それまでの生き様から生ずる感情の赤裸々なぶつかり合いを丹念に描き出しています。人間の持つあまりにも身勝手な感情・行為には、本来冷静であるべき案内人までが、「誰も彼も、自分のことしか考えちゃいねえ!俺はもうこんな巡礼投げ出して、子供の許へ帰りたい」と怒り出します。そのあたり、映画としてたいへん面白いのですが、わたしがとくに興味を持ったのは、巡礼者たちが一日の疲れを癒す宿でした。何しろ2ヶ月間の旅です。その間に宿泊する宿の数たるやたいへんなものですが、その宿は、自分たちで探さなければならないのです。彼らもいろいろな場所に宿を求めました。道中に点在する修道院や聖堂、それに巡礼宿、そのほかにも集会場など様々でした。時には、宿にあぶれて、教室の床に板を1枚敷いて、掛ける毛布もなしに背中越しに男女が並んで寝ることも余儀なくされていました。それでも、巡礼者を心からいたわるホスピタリティ(病院の語源)が道中満ちていました。しかし、こんなシーンもありました。そこが、この映画の一つの見せ場でもあるのですが、宿を乞うた巡礼教会で聖教者から、キリスト教徒には宿を提供するけれど、3人の異教徒(モスレム)を泊めるわけにいかない、と言われたのです。この宗教上の偏狭さにキリスト教徒のピエール(例の3人兄姉弟の長兄)が「キリスト教徒だけで泊まるわけにはいかない。俺たち皆は家族なのだ!」、と怒り出します。結局、義侠心を出した彼のポケットマネーで近くのホテルに泊まるわけです。久しぶりに、たっぷりとお湯の使えるシャワーでした。いがみ合いつつも長いこと一緒に旅している間に、いつしか人間としての連帯感が芽生え始めていたのです。
サンティアゴへ向かう巡礼路は、スペインとの国境でようやく道半ばとなります。国境には屹立するピレネー山脈の山並みが待ち受けています。険しい岩山の路が巡礼者を苦しめ、カスティーリャ山地の、つよい日差しをさえぎるもの何一つない赤茶けた道を、ただひたすら西へ向かって歩くのです。しかし、ここまで来れば、いつまでもいがみ合っているわけにはいきません。サンティアゴ大聖堂がこの先で自分たちを待っているという意識も高まり、互いに助け合う気持ちがつよくなってきます。かつてのカスティーリャ王国の都ブルゴス、古都レオンなどを過ぎれば、いよいよ最後の州ガリシアへ入ります。路はいかにも巡礼路らしく整備され、ロマネスク様式の教会、修道院、巡礼宿の数が増えてきます。 モンテ・ド・ゴソ(歓喜の丘)からは、サンティアゴ大聖堂の壮大な伽藍が視界に入ってきます。文字通り歓喜の瞬間でした。一人の観客に過ぎないわたし自身、映画に引き込まれ、9人の同行者と一緒に巡礼路を歩いてきた気分になり、サンティアゴ旧市街の狭い石畳の道を抜けて、突然大聖堂の姿を目にしたその瞬間の感動に、思わずホロリとしました。彼らの輪の中に入って一緒にハグしたい気持ちでした。

わたしはサウジアラビア・ジェッダに2年以上滞在していたことがありますから、巡礼というと、どうしてもメッカへの巡礼(アラビア語でハッジ)を思い浮かべます。ジェッダはメッカへの玄関口に当たりますから、巡礼のシーズンともなれば市内は巡礼者で白一色に染まります。その印象がつよいので、キリスト教徒にとっても巡礼があるなんてことは、正直なところ、映画『サン・ジャックへの道』を観るまで思いもつきませんでした。おまえが無知なだけ、と言われるかもしれませんが、やはりこれには、びっくりしました。さらに驚かされたことは、映画を見たその翌年の正月に、「旧年中キリスト教の聖都サンティアゴ・デ・コンポステーラへ行ってきました」という年賀状を受け取ったことです。かつて南米で一緒に仕事をした会社の同僚からでした。「えっ!日本人も」、まさに驚きでした。その方の奥様は二人のまだ幼かったお嬢さんを連れて南米エクアドル・エスメラルダスの現場へ来られており、その関係でスペイン語に興味を持ち、帰国後本格的に習っていたようですから、おそらく奥様の発案で行ってみようということになったのではないでしょうか。インターネットで調べましたら、観光ツアーとして参加する日本人のほかに、導師に導かれる本格的な巡礼に参加する方も結構いるようです。聞けば、ガリシア州に入ってからは140キロ程度、6日の旅で、その間、教会や修道院におかれた巡礼事務所で「巡礼手形(グレデンシャル」を受け取り、途中の事務所に寄ってはスタンプを押してもらい、最終的に大聖堂内の巡礼事務所でスタンプの確認を受け、最後のスタンプを押してもらえば、それがラテン語で書かれた「巡礼証明書」となるのだそうです。日本でも西国八十八箇所を巡ったあと、高野山で証明してもらうと聞いたことがありますが、同じようなことなのでしょう。

また映画にもどります。サンティアゴで大聖堂の荘厳な姿が映し出される感動的なシーンのあったことを記しましたが、その時わたしは、むかし訪ねたことのある南米エクアドル・キトの旧市街地に建つサン・フランシスコ寺院の姿と重なり、ハッとしました。そうか、巡礼は何もスペインのサンティアゴだけではなく、南米にもアンデス山中の険しいインカ道を歩く巡礼路があるのだ、と気づいたのです。それには、ちょっとした経緯があります。南米から帰国する際、エクアドルの特産品である木彫りの像を求めて生産地のイバラ(首都キトの北100キロ)へ行き、Lvis Potosiという彫物師名入りの老人像を購入し、いまでも部屋に飾っています。空港やキトの町中でも、どの店でも同じ形であり、その像が何をモデルにしているのか、実はよくわからなかったのですが、まさに何日にもわたって山中を歩く老人の巡礼姿だったのですね。キリスト教の場合、聖地といえば殉教者の墓地や遺物等が信仰の対象となりますが聖地で礼拝することもさることながら、聖地に至るまでの旅の過程も重視されており、旅が苦しければ苦しいだけ神との繋がり、言い換えれば信仰がつよくなるものと考えられているようです。巡礼というのは、苦しければ苦しむほど神との距離が近くなるものなのでしょうか。同様なことはイスラムのハッジも同様です。メッカへの巡礼路は、道程もジェッダからは山中にかかり厳しいのですが、むしろ過酷な自然条件にあるといえます。例年多数の死者が出るほどで、それだけにメッカへの巡礼は、それを果たした者に対してハッジという称号が与えられほど崇められることになりますが、サウジアラビアにとっては国の威信をかける一大行事でもあるのです。そのため、不祥事の発生を防ぐ目的で例年受け 入れ人数が限定されています。したがって、外国人にとっては単に経済的な負担だけではなく、巡礼すること自体が容易ではないのです。その代わりなのでしょうか、例えば中央アジア・ウズベキスタンでは、サマルカンド滞在中に異教徒に襲われて亡くなったムハンマド(マホメット)の従兄クサムの墓、クサム・イブン・アッバース廟へ3回詣でるとメッカへ巡礼したと認められるようです。また、同じく中央アジアに住むモスレムにとってはメッカに次ぐ聖地とされるバハウッディン廟がブハラ近郊にあり、そこへの巡礼者も多く、わたしがブハラへ訪れた際も(ニュースレター2010年9月号参照)、パキスタンからの2、30名の巡礼団の姿を見たものです。
いずこの国、あるいはいずれの宗教でも、敬虔な巡礼者の姿は美しいもので、その姿を見るだけでも清々しい気持ちにさせられます。

(注記1)キリスト教12使徒のひとり聖ヤコブはスペインのガリシアに葬られたと伝えられ、その遺骸が9世紀に発見された。その地に建てられたのがサンティアゴ大聖堂である。サンティアゴ・デ・コンポステーラはエルサレム、バチカンとともにキリスト教の三大聖地とされている。中世からすでに巡礼路が整備され、最盛期には年間の巡礼者が50万人に達したといわれ、現在でも 年間8万人の巡礼者が訪れている。ロマネスク建築様式の大聖堂を含む旧市街、および巡礼路は世界遺産に登録されており、日本の熊野古道とは姉妹路の関係を結んでいる。

(注記2)西洋建築史でいうロマネスク様式は、「救いを求める巡礼者たちのための建築」といわれており、厚い石の壁に小さな窓、内部の暗さが特徴。ゴシック様式が尖塔形のアーチであるのに対しロマネスク様式は半円形のアーチで、両様式の顕著な違いとなっている。

(2011年 2月)

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