;lp90io 石井正紀
 

談志 VS. 五代目円楽

昨年の年の瀬、12月29日に日テレのテレビドラマで『BS笑点ドラマスペシャル 5代目三遊亭円楽』が放映されました。円楽の没後10年に制作されたドラマの再放送で、前回は見のがしたので、今回はぜひにと放送前からテレビにしがみついていました。このドラマは民間放送連盟のドラマ部門最優秀作品賞を取っていただけに、なかなか見ごたえがあり、知らなかったことをいろいろと教えられました。
日テレの「笑点」といえば開始されたのが1966年(昭和41年)で、現在に至るまで放映されている稀有な番組です。その頃は、戦後に到来した落語の最盛期とも言える時期で、志ん生・円生・文楽・正蔵・小さんといった昭和期の名人、その弟子である錚々たる噺(はなし)家が都内にまだたくさん残っていた席亭をにぎわしていました。のちに平成の名人と言われるようになった談志や円楽もただ手をこまねいてはいませんでした。師匠である小さん、円生の下できびしい修行をしており、真打昇進も近いのではと思われていましたが、先に昇進したのは36人抜きで世間を驚かせた志ん生の息子、3代目志ん朝で1962年3月のことした。入門が3年早かったのに先を越された円楽は、昇進は同年でしたが半年遅れ、談志にいたっては5年も早い入門だったのに、志ん朝より1年遅れての真打昇進でした。真打になったものの、落語に関しては一言(げん)を持ち、おのれの才能に自信のあった談志にとっては、名跡(みょうせき)が幅を利かす落語界に対して、「今に見ていろ」という反骨精神がふつふつと湧き出していたのだと思います。真打になって2年目には『現代落語論』なる著作を書き下ろしており、その後の生涯で数冊もの著書を上梓しております。このことは彼の才覚を知るよき導(しるべ)となりますね。ところで、日テレの人気番組だった「金曜寄席」を引き継ぐ形で、「笑点」という番組を発案したのは談志だと言われています。彼のすごいところは、席亭を活動の中心にしていた落語界(落語協会)に嫌われることのないように、テレビ番組の中へ落語界を相方として引き込み、落語の人気を盛り立てようとしたことです。そして、いい意味でのライバルだった円楽と組んだ点です。彼の才覚、半端ではないですね。一方円楽のほうは、談志のような機転のきいた才覚はありません。師匠円生に対してはあくまでも忠実な弟子であり、自分を慕う後輩たちにとっては面倒見のよい先輩であり、またきびしい師匠でありたいと念じていたのでしょう。一時、「星の王子さま」ともてはやされはしましたが、心の中では独り苦悩していたに違いありません。
当時、春風亭柳好に笑いを誘われ、桂小南のしっとりとした語り口にはまっていたわたしは、談志・円楽には馴染めないままに、紅海の花嫁と称されていたサウジアラビア・ジェッダの現場に長期赴任していました。そこで、思いがけない話が持ち上がったのです。JALのジェッダ駐在員を通じて、談志の寄席をこの地で開催したいので協力してほしいという話でした。1979年10月半ばのことです。かの地では、たまに送られてくる「寅さんもの」の映写会がキャンプ内広場で行われるほかに、滞在する現場作業員・現地駐在員家族を慰めるこれといった娯楽がなく、この話は渡りに船とばかり大歓迎でした。話しはとんとん拍子に進み、師匠との折衝を含む興行関係以外のすべてをわたし共が行うことになりました。100名を超える各種の作業員をかかえていましたので、食堂内に席亭もどきを設(しつら)えること、さして難しくなく、日本から持ち込んだ紫色の座布団まで鳶の親方から借りる約束もできて、当日を待ち受けました。ところが、またまた思いがけない事件が発生したのです。外国人に対する集会禁止令が出され、日本国大使館からも行動の自粛を求められる一方、 JAL側からは師匠が日本を発ったという情報も入りました。もう猶予は許されません。寄席の中止を決断し、師匠の入国を止めるため、JALの担当者は急遽バーレン(ペルシャ湾上の島国・航空路の中継地)へ向かいました。楽しみにしていた「談志寄席」は幻に終わってしまったのです。
それから9か月後、わたしはタイ・バンコックから日本へ向かう JAL機中の「日航名人会」を楽しんでいました。演者は5代目円楽、イヤホーンを通して聴いた円楽の噺に、「えっ!」と驚かされました。帰国する喜びに浸っていたときとはいえ、円楽にすっかり魅了されました。さすが5代目円楽、落語界を背負える噺家だな、とわたしは認識を新にしました。

(追補)「談志寄席」を断念せざるを得なかった発端については、2012年1月号に詳述しておりますので、そちらに目を通していただければ幸いです。

  

(2023年01月)

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