;lp90io 石井正紀
 

江戸探訪(5)芭蕉の旧跡を訪ねて

深川芭蕉庵跡(芭蕉稲荷神社)

1.はじめに
松尾芭蕉といえば日本人ならだれしもがその名を知り、大方が好きだと言うに違いありません。わたしも大好きで、たしか中学2年の後半か、3年になってからの国語の教科書でその名を知りました。好きになった理由は、その教材に出ていた、「山路来て何やらゆかしすみれ草」という句の、「何やらゆかし」ということばに魅かれ、すっかり好きになってしまったのです。もう1句、有名な「閑かさや岩にしみいる蝉の聲」も、教室での先生の熱を込めた説明を聴いているうちに、「なるほど!俳句っておもしろいな」と感じ入ったものでした。そんなこともあって、芭蕉が蝉の句を吟じた山形の立石寺へ訪れることが、わたしの永年の夢になっていました。そうは言っても、それだけで山形まで旅行というのは難しく、実現はずいぶん経ってからのことでした。チャンスは2回ありました。1度は日本病院設備協会の総会が将棋で有名な天童市で催されたときで、この時はあいにく雪にぶつかり、山のふもとの山門が閉じられていて入山できず、谷一つ隔てたところの駐車場で、車の中から遠望しただけでした。2度目は、山形市内の会社でISO審査の機会があった際、終わってすぐに仙山線に乗り込んだのですが、最寄り駅まで行ったものの、入山時間に間に合わず、結局二度とも縁がなかったのです。山寺立石寺には縁がなかったとはいえ、江戸探訪を始めてからは、芭蕉の旧跡・句碑などにはよく出会うようになりました。以下に何か所か、江戸時代に遺された、芭蕉の旧跡を訪ねてみることにします。

関口芭蕉庵案内図

2.関口芭蕉庵
松尾芭蕉が故郷の伊賀上野を去り江戸へ出たのは、諸説ある中で、延宝4年(1676年 芭蕉33歳)7月というのが信憑性に富んでいるようです。江戸での住まいがどこであったのかについても諸説がありますが、日本橋小田原町の杉山杉風(さんぷう、のちに芭蕉の有力な弟子)宅ではなかったか、というのが有力な説のようです。いずれにしても、彼が伊賀上野で仕えていた藤堂主計良忠(藤堂家の侍大将・新一郎良精の嫡子で、蝉吟と号した貞門俳諧の俳人)が、寛文6年(1666年 芭蕉23歳のとき)に亡くなり、その機に申し入れた藤堂家への致仕(仕えることを辞する)が許されなかったために、いわば出奔の形で故郷を去り、京都などで作句に努め、俳諧師として自立する覚悟を決めた後のことです。ちなみに、そのころ彼は通称忠右衛門宗房と名乗り、詠った句に対して伊賀上野 松尾宗房、あるいは江戸松尾桃青といった号を使っていました。江戸に下って間もなくの間、彼は生活費を稼ぐため、藤堂家が幕府から命じられ担当した神田上水の改修工事に係わり、現場に近い関口に小さな庵を造って住んでいたようです。その頃の芭蕉は剃髪し、名乗っていた松尾宗房入道桃青の名は宗匠として知られるようになっており、伊賀上野の頃の諧謔的・遊戯的な貞門俳諧と決別、叙情性ゆたかな談林俳諧に傾倒していました。「桃青の園には一流ふかし」と謂われ、杉風、卜天、嵐蘭、揚水、嵐雪、其角といった錚々たる門弟を擁し、江戸俳壇で一流として認められるようになっていたようです。のちに深川に移りますが、弟子たちは芭蕉を偲び、この地によく集まるうちに、いつしか関口芭蕉庵と称されるようになったそうです。
都電荒川線の早稲田終点で下車し、併行して流れる神田川(旧江戸川)を少し下流に行くと駒塚橋にぶつかります。そこから、目白通りへ上がる胸突坂が始まりますが、その付け根の右側が関口芭蕉庵です。新江戸公園と椿山荘とにはさまれた場所で、庵は椿山荘のふもとになります。ふだんは訪れる人も少なく、現在は講談社の敷地内のようで、比較的保存状態はよく、知る人ぞ知る思わぬ穴場となっています。往時はこの辺り目白台の景勝地、多くの大名家の下屋敷が棟を連ねたところです。たとえば新江戸川公園は熊本細川家(現在はその地に細川家伝来の美術品を扱う永青文庫があり)、椿山荘は上総久留里藩黒田家などの下屋敷でした。

芭蕉庵史跡展望庭園

3.深川芭蕉庵跡
芭蕉は関口での滞在3年ほどで居を深川に移し、庵名を杜甫の詩にちなんで泊船堂と名付けました。その翌年の天和元年(1681年 芭蕉38歳)春、芭蕉の株を贈られたのを機に、庵を芭蕉庵と称するようになりましたが、この時点では、まだ芭蕉とは号していなかったようです。号として「芭蕉」を使用するようになったのは天和2年になってからのことで、書簡などで芭蕉を公に用いていることから、彼が「芭蕉」を号としたのだというのが定説となっています。ところで、芭蕉庵はどこであったのかについてですが、深川といえば、弟子の杉風が小名木川(家康が水運のため最初に掘った水路)が隅田川に流れ込む角地に蔵屋敷を所有していました。したがって、芭蕉が江戸に入ったときと同様に、その屋敷内に杉風が庵を提供したと考えるのがもっとも蓋然性に富んでいると思います。とにかく、芭蕉はみずから「江上の破屋」と称したこの庵(2年後に有名な八百屋お七の火事で焼失、天和3年後に再建された)をたいそう気に入り、のちに陸奥へ旅立つまでの8年の間は、ここの庵を作吟の基点として活発に動き、もっとも充実した時間を費やしました。『野ざらし紀行』、『笈の小文』といった名作もこの時期の作であり、名句「古池や蛙飛びこむ水の音」が生まれたのもこの時期でした。反面、芭蕉には一か所には落ち着けない漂泊願望のつよい面があり、火事で庵を追われ、甲斐での寓居生活の経験で、人生に思うところあり、漂泊願望が助長されたように、わたしには思えます。芭蕉庵が同じ場所に再建され、入庵したのちも、毎年のように庵を空け、元禄2年(1689年 芭蕉46歳)に陸奥への旅立ちをする前まで、ひんぱんに各地を漂泊していたのです。

奥の細道矢立初めの地・千住

4. 深川での別れ
ここで芭蕉の『おくのほそ道』(発端・書き出し部)の一部を引き出してみます。
「(前略)去年(こぞ)の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、(中略)住めるかたは人に譲り、杉風が別墅(べっしょ)に移るに、(後略)」
この部分を評釈しますとこうなります。*1「去年の秋、隅田川のほとりのもとのあばらやに帰って来て、蜘蛛の巣を払い久方ぶりにひとまず腰を落ち着けはしたものの、やがて年も暮れ、春も立ち返った初春の空に向かうと、今度は白河の関を越えてはるかな陸奥への旅に出ようと、(中略)今まで住んでいた芭蕉庵は人に譲り、杉風の下屋敷に移るに際して、(後略)」、ということです。要するに、「去年は何かと忙しく、久しぶりに庵にもどったところ、庵内は荒れ放題になっていた。そこを片付けなどしてホッとしたところで、もう年の瀬。年が明けたら、気持ちは陸奥(おくのほそ道)への旅のことで一杯、さっそくそのための準備にかかった」、となります。準備とは、芭蕉庵を他人に譲り、自分は、そこから直線距離にして南へ約5キロほど離れた仙台堀に面した、弟子杉風の下屋敷内の採荼庵(さいとあん)に移り住むという意味です。おくのほそ道への旅立ちは、3月もいよいよおしつまった27日(陽暦でいえば5月16日)、その朝の様子を、「明け方の空はおぼろにかすんで、有明の月は形が細く、光も薄れてはいるものの、遠く富士の姿もかすかに望め、上野・谷中の花の梢も今度はいつ見ることができるだろうか」と記し、不安な気持ちをのぞかせています。親しい人や、弟子などは前夜から集まっていて、千住への船の出る船泊(現在の清洲橋東詰辺りか)まで見送りに来てくれ、中にはこれから向かう千住まで芭蕉の船に同乗してくれた人もいたようです。

千住での別れの句碑

5.奥の細道矢立初めの地・千住
芭蕉が船で千住に上陸し、北に向けて奥州(日光)街道を進んだということは以前から知っていましたから、江戸探訪をしている際、何度か千住へ足をのばしてみようと思っていました。たとえば、三ノ輪の大関横丁へ2、3度ほど通った折など、少し足をのばすだけで北千住などへはすぐ行ける筈なのに、そのうちになんて思っているうちにコロナ禍で行けずじまいになってしまったのです。令和3年の初冬になって、コロナウイルスの影響が弱まった11月の中旬、ようやく千住橋周辺を回ることができ、芭蕉のおくのほそ道矢立初めの地を実際に見ることができたのです。
ここで芭蕉の船のことにもどりますが、船は隅田川をのぼり、千住で船を捨てました。ここからいよいよ陸奥(みちのく)・辺土の道を行くのです。旅することに慣れている芭蕉とはいえほとんど初めての道、「前途三千里の思ひに胸ふさがりて、幻の巷(千住の街)に離別の涙をそそいだ」ようです。そして矢立て(携帯用の筆記道具のことで、ここでは旅行記・道中日記を指す)に残す最初の句として、「行く春や鳥啼き魚の目は涙」という句を残したのです。ところで、千住で芭蕉の船がどちら側に接岸したのでしょうか。『おくのほそ道』の中では、ただ「千住という所にて船を上がれば」と記されているだけです。当時、すでに千住大橋が架橋されていましたので、船がどちらに接岸されていようが、船の利用者にはいずれでもいいような気がしますが、地元では、現在でも北だ南だと競い合っているようです。船泊などは船の接岸のし易さから、風向・水流・河川の地理的条件などを考えて決めるでしょうから、後世になって論じ合っても、さしたる意味はないでしょう。それよりか、実際に行ってみて気付いたのは、両岸にいくつかの旧跡らしきものが見受けられましたが、その多くが後世のものであり、見ることで受ける感動が、まったく湧いてこないのです。考えてみたら、千住にも多くの人が集まり、芭蕉との別れを惜しんだでしょうが、この地は、芭蕉にとっても見送る人たちにとっても、所詮はしばし立ち止まっただけの場所に過ぎず、ただひとり芭蕉にとってのみ、己が、この瞬間から「日々旅を栖(すみか)にし、旅に死せる思いに心を震わせた」、千住とはそんな場所なのです。いまは何の変哲もない街並みですが、千住は、「月日は百代(ひゃくたい)の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」に始まる『おくのほそ道』の序曲を生んだ大切な場所と言えるのでしょう。

芭蕉遺愛の石の蛙

6.深川芭蕉庵の奇跡
陸奥への旅に出立するまえに、芭蕉は自分の庵を余人に譲り、杉風が用意してくれた採荼庵に移ったことはすでに書きました。余人というのも弟子の一人で、人形を商いにしていた人のようでした。庵を去るにあたって、「草の戸も住み替はる代ぞ雛の家」という句を、庵の柱に掛け置くとわざわざ『おくのほそ道』の発端の最後に書き残したわけですから、たとえそれが当時の慣例・風習だったとしても、芭蕉が庵に込めた思いのつよかったことが察せられます。彼が陸奥への旅を終え、岐阜・大垣へ着いたのが旅立ちと同じ元禄2年の8月末でした。深川にはもう自分の芭蕉庵のないことと関係したのかどうかは知りませんが、半年近かった旅の疲れを癒す間もなく、9月はじめには大垣を発って伊勢の式年遷宮を見がてら伊勢・伊賀・奈良・京都と旅し、翌年、翌々年も関西のあちらこちらを歩き、江戸へもどったのはその年(元禄4年)の10月末のこと、懐かしの旧芭蕉庵の近くに、杉風らの好意で建てられた新な芭蕉庵に移り住んだのは元禄5年(1692年 芭蕉49歳)5月中旬のことでした。芭蕉にとって、自分の庵での生活は3年半ぶりのことで、さすがに気が休まったのでしょう。多忙ではありましたが、2年あまり庵を離れることがありませんでした。しかしその間、陸奥の旅を終えてから休むこともなく旅していた芭蕉の体はすっかり蝕まれていました。そのことは、芭蕉自身が一番察知していたに違いありません。元禄7年5月、芭蕉は意を決して最後の旅に出ました。千住での深い思いを果たす覚悟だったのでしょう。箱根・伊賀上野・大津・膳所・京都・奈良とまわり、9月9日夜に大阪に入りました。翌日から悪寒・頭痛に悩まされるようなったにもかかわらず、門人の会に姿を出すなどをしていたため、月末には病床に臥すようになり、床から離れることができなくなりました。月が改まり、去来ら目ぼしい門人が枕元へ駆けつけました。きちょうめんにも10月8日の深更に病中吟を示し、10日に遺書を認めたようです。亡くなったのは12日午後4時ごろ、14日に膳所の義仲寺境内に埋葬されました。
主を亡くした深川芭蕉庵のその後はどうなったでしょうか。芭蕉庵の建っていた場所は、そのご大名の下屋敷の中に取り込まれるようになり、しかも火災にもあって焼失し、維新後は大名屋敷そのものもなくなり、庵の存在については、どこにあったのかも不明となっていました。ところが、大正6年10月の関東地方を襲った台風による大津波で、深川をはじめ東京湾沿岸は壊滅状態になってしまった中で、芭蕉が大切にし、愛玩していた石造の蛙が発見されたのです。蛙だけでなく、句碑その他の遺物など、そこが深川芭蕉庵の跡地であることを如実に示す十分な遺跡でした。東京府もその点を認め、発見の地を大正10年に「芭蕉庵・古池の跡地」と認定しました。不明だった場所を、「忘れないでくれよ」とばかりに芭蕉遺愛の石造の蛙が教えてくれたのでしょう。これは奇跡と言ってもいいことですね。あるいは芭蕉の深川に対するつよく、ふかい思いが蛙に伝わってくれたのでしょうか。地元でも追従して、発見された江東区常磐町1丁目に芭蕉稲荷大明神を建立し、その周辺には江東区芭蕉記念館、芭蕉庵史跡展望庭園、隅田川河畔に俳句の散歩道といった施設を設けています。
(注記*1)本文評訳、年譜に関しては頴原退蔵・尾形仂著『新版おくのほそ道』(角川文庫)から引いた
(注記2) 写真のうち、「芭蕉遺愛の蛙」は江東区芭蕉記念館内展示の写真借用、「芭蕉庵史跡展望庭園」、「関口芭蕉庵案内図」は公開のものを使用

  

(2022年01月)

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