はじめて家族そろって海外へ

ペルー・マチュピチュにて

もう古い話になりますが、あしかけ3年以上滞在した南米エクアドルから帰国することになったとき、せっかくの機会なので家族にアメリカまで来てもらうことにしました。1977年(昭和52年)2月のことで、それが家族そろってのはじめての海外旅行でした。その後、下の娘がハワイで挙式した際、家族はそろったものの、別々の行動が多かったので、はじめての旅行は、同時に最後の旅行ともなった印象深い旅でもありました。旅の概要はこんなものでした。わたしの方は、帰国の際は、何がなんでもペルーのマチュピチュへは行きたい。それも、出来れば国際列車でぺルーの隣国ボリビアへ入り、チチカカ湖を見て、世界一高いところに位置するラパスの国際空港からメキシコ経由でロサンゼルスへ行って家族を迎える、という計画でした。当初は、さほど無謀とは思わなかったのですが、何ヶ国かを経由してロスへたどり着くのと、一方は羽田からロスへ直接入る家族を空港で迎えるということ、簡単なようで結構むずかしく、結果的にぶじに会えたからいいようなものの、いま考えれば、冷汗の思いでした。空港でぶじに家族を迎えることはできたのですが、じつは、その間、いたるところでトラブルが発生し、それをなんとか乗り切れたということ、ほんとうにラッキーなことでした。

機中からアンデス山脈を望む

この計画、やはりどこかに無理があったのかも知れません。はじめからトラブル続きでした。わたしは十分余裕をもって現場を離れるスケジュールを組んだつもりでしたが、当初予定した出発日が近づいても、とても現場を離れられそうもなかったのです。ロスで家族を迎える日は決まっており、その前夜までにロスへ必着するために定めた出発日は2月2日で、計画実施前にボリビア行きはあきらめざるを得ませんでした。時間は飛ぶように過ぎて当日になってしまいました。信頼できる仲間に後事を託し、2年も住んだ町なのに、なんの感傷もないままに半ば逃げ出すかのように、午後も遅い時間になってキャンプを出発しました。時間から考えて、首都キトへ入る前のアンデス越えが夜にかかる恐れがありましたが、そんなことは言ってはおれない切迫した思いでした。そんな余裕のない旅は得てしてうまくはかどらないもの。このあとも、いろいろとトラブルの連続でした。

イデヨ・ノグチ学校の生徒さんたち

翌日、キトからリマへ向かう便は、午後のエア・フランスでした。他の便も運航されていましたが、もっとも確かな便だろうとヨーロッパの航空会社にしたのです。出発まで時間がありましたので、翌朝タクシーを雇い、帰国までに行っておきたいと思っていた、キト近郊の村グワイリャバンバにある「イデヨ・ノグチ(野口英世)学校」(2009年9月号 『イデヨ・ノグチ学校』参照)へ足を運びました。じつは前年の11月、野口英世博士生誕100年祭を祝して日・エクアドル両国で華やかな催しがあり、新聞に掲載されたことで、その村に野口英世博士の名からとられた小学校のあることがわかったのです。それから3か月後に訪れたわたしは、日本人としてはじめての訪問者*1で、エクアドル最後の日を気分よく離れられると思っていました。しかし、空港カウンターで、搭乗予定機はオーバーブッキングのため隣国コロンビア・ボゴタですでに満席、そのままリマへ直行するため搭乗できなかったのです。ロスへ向かう旅は、スタートでつまずきかかりました。しかし、ラッキーなことに、たまたまリマから出張していてこれから帰国するという日系ペルー人の弁護士が声をかけてくれ、地元エクアトリアーナ便に切り替え、太平洋岸の大都市グワヤキル経由で無事に出国、その日の夜にリマへ到着できました。おかげで翌日からのぺルーでの旅は順調に推移しました。アンデスを横断してクスコで1泊、翌日早朝の列車で夢にまで見たマチュピチュを往復し、その日のうちにリマへもどり、空港で翌日午後のメキシコシティ行きアルゼンチン航空便を押えることができました。おかげで、午前はリマ市内の天野美術館で、天野芳太郎館長自らの案内でゆっくりと鑑賞できたこと、望外の喜びでした。機内では、ブエノスアイレスからの帰りだという中老の2人の日本人婦人とご一緒で、話に花が咲いてメキシコシティまで楽しい空の旅でした。着いてすぐに空港内のJALのカウンターへ行き、自分のロスまでの便、そしてロスからの家族4人の便を確認したのですが、ここでもまたつまずきが起こりました。カウンター嬢曰く、ロスからホノルル、さらに羽田へ便は3人の分は予約されているが、わたしの分は、メキシコシティからロスまでのカナディアン航空は予約されているものの、ロスからのJAL便については名前が見当たらないと言い、さらに、南米で日本の航空会社を予約した場合、まま手続きが遅れることがあり、たぶん大丈夫だと思うので明日、ロス便搭乗前にもう一度確認してくれと言うのです。家族の分だけで、わたしのチケットが取れていなければたいへんなことですが、まあ南米のこと、処理が遅れているだけだろうと高をくくって、エスメの現場への赴任者用に常宿としていたホテル・ブリストルに投宿しました。チケットのこと気にしつつも、JALが言うのだからなんとかかなるだろうと、南米最後の夜、安らかな眠りにつきました。

北米LAディズニーランド

翌日、ロス便に搭乗する前、JALのカウンターで再度聞いてみたところ、テレックスで予約の名前が確認できたので、JALのロス支店へ行けば発券してくれるということでした。これで一安心、あとはカナディアン航空でロスへ向かうだけ。機内では、明日は家族に会えるかと思うと、なんとなく気持が高揚してきました。ロスでの宿泊は、以前1度泊まったことのあるメイフラワー、古い造りですがそれなりに風格のあるホテルで、なんとかたどり着けたという安堵感、と同時に言い知れぬ脱力感を感じたものでした。じつはもうほとんど記憶があいまいなのですが、羽田からの便の到着は、昼頃だったと思います。JALの支店に寄ってから空港へ行き、到着便出口最前列に陣取り、ワクワクしながら姿を見せるのを待ちました。ここで、また予期しないトラブルが起きました。なんと、最初に姿を現したのはわが家族、それもぐったりしたような下の娘を抱いた家内を先頭に、それに従うようについて歩く上の娘の姿、それにもう一人、ラゲージを押す空港係員の女性が目に入ったのです。びっくりしました。聞けば、下の娘は、出発前から風邪気味で、機内で体調をくずしたそうです。空港で入国手続きのあと、そのまま手荷物検査なしで出してもらったようでした。何はともあれ、そのまま待たせてあったハイヤーで市の中心部のホテルへ直行し、娘を休ませました。泊まったホテルは家族サービスを考えて、ロスでも一、二を争うホテルにしました。3泊の予定で、半日ゆっくり休んで体調が少しはよくなったのを見はからって、翌日、娘たちが楽しみにしているディズニーランドへ出かけました。しかしあいにく、まだからだは万全ではなかったのでしょう。園内に入り、比較的空いていそうな「カリブの海賊」を家族そろって楽しんだのですが、下の娘の体調はやはり思わしくなく、園内の救護所へ連れて行きました。中年の優しそうな看護婦さんがいて、すぐにベッドに寝かせ、容体を聞かれ、脈拍・体温など一通り調べたのち、電話でドクターの指示を受けていたようでした。たぶん鎮静剤を処方指示してくれたのでしょう、眠りにつきましたが、上の娘をそのままにしておくわけにいきませんので、救護所では家内と交互に付き添うことにしました。ただし、結果としては、それまでの旅の疲れがたまっていたわたしが、ほとんど付き添ったのですが、実態は空いていた隣のベッドで寝ていただけのことでした。クスリの効用からか、元気を取り戻したのは午後もだいぶ過ぎてからでしょうか。その間、上の娘はいろいろな乗り物・アトラクション、そしてレストランでの食事も楽しんだようでした。下の娘も、メリーゴーランドなど軽い乗り物で1時間ほど楽しみ、ディズニーを後にしました。

ディズニーランドの年間入場パス

当時のロサンゼルスは、ディズニーをのぞけば子供たちにとってはさほど楽しいところではなく、せいぜいチャイニーズシアター前の、有名スターの手形・足型に興味を示したていどでした。それでも、市内を一緒に散策し、ショッピングを楽しんで、4日目の10時過ぎのJL便でホノルルへ向かいました。ここでの空港でも、また一つの出来事がありました。と言っても、トラブルではなく、反対にびっくりするようなビッグ・プレゼントでした。空港で荷物のピックアップを済ませ出口に向かうとき、わたしの名をコールする放送があったのです。「えつ!なに」と思う間もなく、一人の紳士が近づき、日航・ホノルル空港長だと名乗ってから、メキシコシティでの不手際を丁重に謝罪し、お詫びにホテルまで送らせていただくと言うのです。むろんメキシコでのトラブルは先刻知っていることですが、それがこのような形で返ってくるとは思ってもみないことでした。しかも、用意された車はリンカーンのリムジン(例の黒塗り、車内向かい合わせシートの高級車)でした。娘たちは車内で「映画みたい」と大はしゃぎ、下の娘の「パパってえらくなったのね」には苦笑いでした。送ってもらった先のホテルは、ザ・モアナ・ホテル(現モアナ・サーフライダー)。ホノルルでの宿泊がはじめてのわたしは、マホガニー造りの優雅な室内から、結構いいホテルだとは思いましたが、まさか「ワイキキのファーストレディ」と称され、ロイヤルハワイアン、ハレクラニと並ぶホノルルの三大ホテルだなんてこと、まったく知りませんでした。もっとも、ここは1泊だけで、翌日からの3泊は近くのシェラトン・ワイキキへ移動させられましたが、子供たちにとってはオーシャンビューのこちらの方が楽しかったかも知れません。下の娘の体調も回復し、ワイキキの浜での水遊び、島内一巡の観光、夜のショーそしてショッピングと、いつものはつらつとした元気さを取りもどしていました。家族に喜ばれたこと、素直に嬉しく思ったものです。

ハワイ ワイキキの浜にて

この旅行、もうずいぶん昔のことで、それから42年も経っています。せっかく楽しみにしていたディズニーランドではほとんど救護室のベッドで寝る羽目になって、悔しい思いをしたであろう下の娘も五十路に近い歳になり、二児の母になっております。大手自動車会社のインテリア・デザイナーとして、わたし流に表現すれば恵まれた職に就いていたと思っていました。しかし、それは親の甘い感傷みたいなもので、本人としては何か思うところがあったのでしょう。10数年前に突然社を辞して渡米し、3次元のCGを勉強するためにサンフランシスコの美術系大学へ入学しました。その後同級生と結婚し、いまはロスの南郊・アナハイム(大谷選手の所属するエンゼルスの本拠地)近くの都市に住んでおり、ディズニーランドの「パスポート」(年間パス)を購入して、娘を連れて、よく遊びに行っているようです。ディズニーランド近くに住むようになったことは、なにも意識してそうしたわけではなく、たまたまそうなったことなのでしょう。ただわたしには、せっかく連れて行って悔しい思いにさせた娘が、40年近く経ったいまになってディズニーランドのすぐそばに住むようになったことには、何かしらの縁(えにし)によって結ばれているのではないか、と思うのです。娘に言わせれば、その時のこと、けっこうよく覚えていて、太った看護婦さんがすごく親切だったこと、目を覚ましたときにはアニメを見せてくれたこと、それに、いまは立派な2階建てのFirst Aidに建て替えられているが、自分が世話になった頃は粗末な造りだったし、場所も違うなんて言っております。親が気にするほど、子供の方はさほど気にしていなかったようです。それにしても、自分がディズニーランドでそんなことを経験した同じ歳頃に成長した己の娘に、「ママはむかしディズニーランドでこんなことがあったのよ」、なんて話かけることぐらいはあってもいいのではないか、と老いた父は、二人が語り合う情景を心の中で思い浮かべ、往時を懐かしむ今日この頃なのです。
*1(注記1)イデヨ・ノグチ学校のことは、帰国後に博士の故郷猪苗代町の野口英世記念館へ写真を添えて手紙で知らせ、拙い字で書かれたその手紙が展示されていること、同館を訪ねた義兄が教えてくれた。その後家族と同館を訪れた際は、すっかり改装されており、手紙は展示されていなかった。同校のことを書いた本としては、わたしの訪問時から7年半後に尋ねた山本厚子さんが山手書房から出版した『野口英世知らぜざる軌跡』(1992年刊)がある。

    

(2019年11月)

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