幼児のつくった詩(うた)
別府港に着岸したこばると丸 会社員生活を振り返ってみますと、はじめの12年は国内勤務、13年目から海外へ出ることが多くなり、26年目に子会社へ移ったものの、3年間は神戸の病院に出向ということで、娘たちにとって大切だと思われる時期に一緒にいてあげられなかったな、と思っています。しかしいま、つらつら考えますと、長女が誕生して間もなく四国や山口と渡り歩き、次女が誕生するまでの3年間、そのうちの2年ちょっとは、まさに親子3人水いらずの生活ができた貴重な時期でした。東京生まれで東京育ちの家内にとっては、地方の生活は慣れないことが多く、なにかと苦労も多かったのだったと思いますが、わたしにとっては、その間は、子供の成長を目のあたりにすることのできた貴重な期間だったという気がしています。長女の誕生は1967年(昭和42年)2月、産後の肥立ちもよく、6月半ばに、わたしが赴任していた四国愛媛県の菊間町へ来ることになりました。家内・娘と一緒だった5か月間の田舎町での生活、何がつらかったって、やはり瀬戸内特有の凪(なぎ)で、むろんクーラーなどあるはずがなく、夜間の蒸し暑さにはほとほと閉口しました。しかし、総じて、四国での生活は楽しかったと言えるでしょう。瀬戸内での斬新な風景、目に入るものすべてがめずらしく、毎日見ていても見飽きないものでした。帰京直前には、一度は乗ってみたかった関西汽船のこばると丸で、今治から別府(温泉)への11時間の船旅も楽しいものでした。
歩行器を使って歩く長女 四国からもどったのは、その年の11月末。しかし、自宅で正月を過ごせただけで、1月に四国対岸の山口県小野田へ赴任し、家内と長女も追っかけるように、7月はじめに宇部市厚南の宿舎に落ち着きました。宇部の宿舎といっても隣の小野田との境界の山中、ボタ山がそのまま放置された炭鉱跡の荒れ地で、人家は周辺に数軒あるだけ。買い物も山を下って、バスで市中まで出なければならないのです。とくにひどかったのは、家の中にまでダンゴムシやムカデが侵入し、あろうことか一度なんか、数十センチほどの蛇までが入ってくる有様でした。さすがにこれには参りましたが、年が明けて小野田のアパートに移転できるまでの約7か月間、家内はよくがまんしてくれたな、の思いをつよくしています。
ボタ山の上に立つた長女
長女が幼児期にどのように成長してきたかを「ことば」の面からとらえてみますと、通常の幼児言葉のほかに、彼女独特の言葉(用語)を発するようになったのは、宇部の山中で暮らしていた、満1歳9か月前後の頃だったと思います。造語のうち、はっきりと記憶に残るのは、バジまたはバディちゃん(自分のこと)とリロリロ(うんちのこと)の二つです。その語源みたいなこと、むろん当人が説明できるはずはなく、家内にもわからなかったようです。そんな造語を口にするようになってから、そう、半年以上経った2歳5か月の頃、なんだかブツブツと楽しそうに口ずさんでいることを認識しました。当時、長女は幼児施設的なところへは通っておらず、家内も教えたわけでないようですから、ごく自然発生的に口にするようになったのです。わたしの拙い耳を通して聴きとった詩はこうです。
次女の娘(孫)
すっかり忘れていた『タンドケの詩』でしたが、それを思い出させてくれたのは、わたしの次女の娘で、その子が口にしていた訳の分からない詩が、かつて彼女の伯母さんが口にしていた詩を思い出させてくれたのです。2016年の春、在米の次女がその子を連れて一時帰国した折、あと数か月で3歳の誕生日を迎えるまでに成長していました。もうすっかり女の子でした。あいにく、わたしは体調をくずしていた時期で、孫の面倒をあまりみることができないでいたのですが、孫の方は、「ペンギンさんがなんとか、かんとか……」というような詩をかなりご機嫌で口ずさんでいました。そのときは、ふかく詮索もせず、また詩の意味を聞かないままに孫は帰国してしまいました。秋を迎え涼しくなるにつれて体調も戻りましたが、そうなると、孫が口すさんでいたペンギンさんの詩が気になってきたのです。わが家では家内が週に1回、Skypeを利用してアメリカにいる娘と顔を見ながら会話をしていますが、その機会を利用して、孫が口ずさんでいたペンギンさんの詩の歌詞を教えるように頼みました。返事は、年を越した2017年の2月になって、振りの入った孫の詩う姿の動画が家内のタブレットに入りました。こんな詩でした。
次女の娘(孫) 3歳にも満たない幼児が詩をつくる?そのようなことが有り得るのだろうか。疑問に思ったわたしは、懇意にしている畏友河口道朗さん(東京学芸大名誉教授 音楽教育学)に問い合わせてみました。彼によりますと、その歳ごろの幼児が、だれが教えたでもないのに自分が思いついた旋律を口ずさむこと、そう珍しいことではないようです。どうしてそのようなことができるのか、結局、育った家庭を含めてその子の周りのあらゆる環境から、無意識のうちに音・動き・言葉が連動して口ずさむ旋律をつくり出すある種の素質を、その子が持っているのではないでしょうかということでした。だからと言って、ふつうはその素質が活かされることはほとんどなく、特別な教育がほどこされることがないままにしぼんでしまうのが常だとも仰っていました。また、メロディーを口ずさんでいたからといって、教育によって音楽の分野ですばらしい才能を開花するとは限らず、まったく別の分野で思わぬ素質のあることが知れるというケースもあるようです。「ペンギンしゃん動画」を見てからすでに2年5か月も経っています。この間、孫は現地で日系の幼稚園に通い、音楽に合わせてお友だちと飛び回わったり、にぎやかに踊ったり、あるいは先生に教わったと思われる歌などの動画が送られてきました。自分の作った「ペンギンしゃんの詩」はとうに忘れたかのようです。この秋からカリフォルニアのフォーマルな制度による幼稚園に入り、これからはアメリカの子どもたちとも一緒になって歌ったり、踊ったりすることでしょう。さて、わたしの孫娘、どのような成長を見せるのか楽しみではありますが、そうなったとしてもそれを見ること、わたしの年齢から考えてかなわぬことでしょう。 (2019年07月) |
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