江 戸 探 訪(1)三田・綱町界隈

幕末期の綱坂を望む (原画F.ベアト)

1.はじめに
わたしの海外での最後の仕事は、中央アジア・ウズベキスタン(旧ソ連領)でのコンサル業務で、数回におよぶ同国への訪問を終え帰国したのが2007年6月でした。これで自分の海外での仕事はおしまいかと思うと、当然一抹の淋しさを感じましたが、反面、もう十分やりつくしたという思いもつよく、これからは、やりたいことをやれるのだという喜びの方がつよかったような気がします。書き残していた著述作業、それまでに思うように行けなかった国内旅行、体力維持のための太極拳・トレーニングなど、いろいろ検討しましたが、中でも最もつよく望んだのが、同好者を募って江戸探訪をしようという試みでした。その頃、いわゆる「歴女」と称される、歴史の大好きな、そして、そのよすがを求めて歩きたいという女性が巷にあふれるようになっていました。横須賀市や隣接する横浜市金沢区の「シテイガイドの会」、神奈川区の「いまむかしガイドの会」などが主催する歴史散歩などに参加しますと、そうした歴女が多数参加しており、それも結構熱心にガイドの説明に耳を傾けるだけでなく、すごく健脚ぞろいなのです。他方、歴史家の中でも「江戸学」を専門とする方々が注目を浴びるようになっており、わたしも数冊の書物を購入して勉強し、元来歴史好きなこともあって江戸に興味を持ちました。そうこうするうちに、高校時代の友人に紹介されていた女性から、自分は歴女で歴史散歩を企画するならぜひ参加したいと言われ、おりから在米中の娘に開設を持ちかけられていたホームページに、江戸探訪をトピックとして毎月載せるといいのではないか、とそそのかされたこともあって、よし自分が主宰・企画しての江戸探訪をしようと決めた次第です。ホームページを作成し、それにリンクさせてニュースレターを配信し始めたのが2008年8月、江戸探訪第1回「三田・綱町界隈」を実施したのが、2009年10月のことでした。それから11年間、訪れた場所として約20か所、定期的に探訪する会としては高校と中学の仲間の2グループ、そのほか単発で行う会としてかつての会社の同僚、むかし住んでいた芦花公園団地の仲間(歴史家網野善彦先生を囲む会)、そして最近になって地元太極拳教室の5人の仲間とも東京(江戸)方面へ足をのばすようになっています。そうしたグループの人と一緒に歩くのとはべつに、下調べの目的で自分だけで歩くこともありますので、延べにすれば数十回は歩いたでしょうか。もっとも、歳とともに体力の衰えもあって、2年ほど前にほとんどの会は解散しており、いまでは5人の仲間とたまに東京(江戸)の方へ足を踏み入れるだけとなっています。以下、何回かにわたって、江戸の探訪記を認めることと致します。

現代の綱坂(左手樹木は松山藩屋敷 手前は島原藩屋敷)

2.江戸の街について
江戸探訪をするにあたって、その手はじめとして江戸の街の概要について説明しておきましょう。家康が秀吉の命により江戸に入ったのは天正8年(1590年)、関ヶ原の戦いの10年前のことでした。当時の江戸は、太田道灌が築城した江戸城が存在はしていましたが、石垣もない粗末なつくりで、しかも荒れ放題でした。100戸ほどの茅葺の民家があるだけの城下の足元へは日比谷入江が迫り、入江の対岸は江戸前島と称された、アシの生い茂る湿地帯が江戸湊に面して広がるだけのさびしいところでした。秀吉が数年にわたって朝鮮出兵にうつつを抜かしていたときに、家康は秀吉亡きあとを見すえて江戸を西方(豊臣方)に対する強固な政治・軍事拠点にすべく着々と布石を打っていました。当時の江戸は台地と湿地が多くて平地が少ないこと、また海に近いために飲み水の確保がむずかしいという難点から、江戸城の整備にさきがけて、まずは江戸の大改造を図り、大規模な土木工事に着手したのです。一つは平地確保のために神田山を削って日比谷入江を埋め立てたことです。埋め立てに先立ち、あらかじめ崩した台地の水はけのために、入江と江戸湊とを結ぶ道三堀を開削し、その堀は城への重要な水上交通路としたのです。同時に、神田山の削除に当たっては、いずれ必要になる江戸城下への水道の確保をあらかじめ見越して、深い切通しにした神田川を開削していたのです。また、日比谷入江の埋め立てに合わせて江戸前島の整備も図り、開削した運河を江戸城防備のための外堀として活用できるように計画されていました。家康が江戸城・城下の整備に着手したのは関ケ原の戦いの3年後、幕府が開設されて徳川の力が盤石だということを天下に布告したのちのことでした。ちなみに江戸城天守(初代)の完成は慶長12年(1607年)、大坂夏の陣はそれから8年後、家康の逝去は豊臣家滅亡の翌年のことでした。
さてその江戸の街ですが、家康が亡くなってから100年ほどのちの享保年間、8代将軍吉宗のころのデータによりますと、江戸府内の城下町面積は1740万坪(東京ドーム1240個分に相当)だったと伝えられています。そのうち、武家地は1200万坪で約70%を占めており、まさに江戸が武家の街だったことがわかります。残りの540万坪を寺社、町人でほぼ半分ずつ分けあっていたようです。なお、武家地のうちその半分を280家ほど(幕末での計算)の大名が幕府から拝領していたようです。単純計算しますと1大名当たり2万坪あまりを拝領し、各大名それぞれに上・中・下屋敷に分けて、敷地内の屋敷・長屋などの造作は自らが行っていました。武家地の残りは、5200家ほどの旗本、16000家の御家人から成る幕府直臣に分けられ、直臣は屋敷も併せて拝領していました。いわば官舎に当たるのでしょうが、平均すると、旗本は300坪ほどの屋敷、御家人は100坪の屋敷を拝領していたようで、今も昔も、官舎は贅沢だったのです。
ところで江戸の人口はどれほどだったでしょうか。家康入府当時はどの程度の人数だったのか見当たりませんでしたが、城下に100戸ていどの民家ということから考えれば、ほんの微々たる数だったでしょう。しかし、入府してすぐに大規模な土木工事を始めていることから急激に増え、20年ほど経った頃には町人の数は15万人になり、面積データと同じく吉宗の時代、享保6年ごろには町人は50万に達し、武士の人数と合わせて100万都市になっていたと言われています。その当時、ヨーロッパの大都市でも人口は数十万ていどと伝わっており、いまから300年前に江戸は世界一の大都市だったのです。

三井倶楽部(旧会津藩下屋敷)綱坂沿いの塀

3.三田・綱町界隈の探訪
探訪を企画する上でわたしは、平井聖監修『図説城下町江戸』(学習研究社)を参考にしました。既述が平易で、図版・写真が豊富だったためでした。何よりも役立ったのは、探訪先の古地図*1と現代地図とが並列されていたことで、訪れるところを地図の上であらかじめつかみ易かったのです。なぜ三田・綱町を選んだのか、それは、幕末に来日したイギリス人写真家フェリックス・ベアトが残した、この地を撮影した写真にいたく惹かれたためです。写真には綱坂と5人の武士の姿、そして坂の右側には手前島原藩・その上手に松山藩、左手に会津藩の屋敷がはっきりと写し出されており、その光景が今どうなっているのかに興味をひかれたからです。探訪実施にあたっては、上述の本を参考に丹念に散策路を調べ、かねて読み込んでいた数冊の江戸に関する書物を参考にして作成した計画書を、参加者にあらかじめ読んでおいていただき、実施後には当日の写真・散策中に気付いた事項等を盛り込んだ報告書を送ることにしました。歩く都度それらはたまっていき、何冊かのファイルになったと喜ばれたものでした。また、探訪にあたっての自分の特長を出すため、至文堂が発刊していた雑誌『國文學 解釋と鑑賞』(昭和44年11月号臨時増刊号・川柳江戸名所図会)から、関係する場所の江戸川柳をずいぶん引用したもので、機知とユーモアに富んだ江戸川柳には自分自身が大いに楽しんだものでした。
三田・綱町探訪の参加者は高校関係の6名の仲間でした。中には初めて会ったような人や、口をきいたというような人が半分もおり、皆さん興味と不安とが入り交じったことでしょうが、案内するわたしが何より緊張していたのだと思っています。10月半ば、朝のうち曇っていた空は探訪中には青空が広がり、絶好の探訪日和となっていました。都営大江戸線赤羽橋駅に集合し、新堀川(古川)沿いに高速道路下を中の橋まで進みそこで左折、神明坂を上り切ったところをまた左折して桜田通り(旧鎌倉下道)方面へ下って行きます。綱の手引坂まで来たところ(慶応大学北門近く)でいったん戻り、先刻上ってきた神明坂手前を左折したところが綱坂となります。ここまででも、ずいぶん多くの旧大名屋敷を通り過ぎて来ましたので、その屋敷名を書き上げてみると次のようになります。
・新堀川沿い中の橋まで:筑前秋月藩黒田家上屋敷(国際医療福祉大三田病院) 筑後久留米藩有馬家上屋敷(済生会中央病院・ほか学校2)
・神明坂沿い:坂右手秋月藩 左手久留米藩
・桜田通り方面綱の手引坂まで:佐土原藩島津家上屋敷(オーストラリア大使館・綱町三井倶楽部) 伊予松山藩久松家中屋敷(イタリア大使館)
・綱坂右手手前から:肥前島原藩松平家中屋敷(慶応大学) 伊予松山藩久松家中屋敷
・綱坂左手:陸奥会津藩松平家下屋敷(綱町三井倶楽部庭園)

佐土原島津家の公孫樹の大木(写真左)
松山久松家のけやきの大木(写真右)

ことかように三田・綱町界隈というのは大名屋敷が目白押しになっていただけではなく、屋敷としての広大な区画が細切れにされることなく、その区画が大学のキャンパス、大病院、大使館といった大きな施設に利用されたため、ほとんどそのままの区画で現在に至るまで使われているところだと言えます。とくに綱坂などは、ベアトの写真と現代の写真とを比較してみても、右手の近代的な建築・石積みの擁壁の代わりに黒色の板塀に囲まれた和風のお屋敷でも残っていたら、舗装をのぞけばほとんど江戸の昔と変わらぬ風景が残っていると言えるのではないでしょうか。稀有の例だと申せます。ただ惜しむらくは、久松家中屋敷の大名庭園が遺されたイタリア大使館内庭園、そして会津松平家下屋敷内の大名庭園が三井倶楽部庭園として残されていながら、現在それが一般の人の目に触れることなく閉ざされている点、たいへん残念なことです。わたくしは仕事の関係で一度だけ三井倶楽部に入る機会があり、庭園の一隅を垣間見ましたが、ゆっくりと庭園が鑑賞できたならさぞ素晴らしかろう、とつくづく思ったものでした。それにしても、佐土原島津家上屋敷跡に遺る公孫樹の大木、イタリア大使館通用門横に残るけやきの大木、あるいは綱坂沿いの綱町三井倶楽部の長い塀沿いから窺える会津藩下屋敷の屋敷林の鬱蒼とした樹林帯、時代を超えてなお、いま見るだけで心が癒されるものがありました。
(注記*1)分間江戸大絵図(早稲田大学図書館蔵)

   

(2020年10月)

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