息抜きに(1)

4回にわたってわたしの渡航歴を振り返って見ました。今月も、性懲りもなく振り返ることになりますが、ほんの息抜きとして、「垣間見た各国の人たち」をアルバムの中から抜き出してご紹介することに致します。2回に分けますが、ちょっとした息抜きをしてみてください。
南米とフランス編:

コロラドインディアン

エクアドルの首都キトからアンデスを下ったところに位置するサントドミンゴ。この町はエクアドルの原住民の一族コロラドインディアンの居住地として知られている。頭を赤く染め、往時は首狩り族だったと聞いているが、現在はそのような凶暴性を感じさせず、町の住民の中にうまく溶け込んでいる。

少女たち

サントドミンゴからエスメへは、見渡す限り広がるバナナ畑の中を走る一筋の道をひたすら進むことになる。エスメラルダス州に入った辺りで一休みした部落で、可愛らしい少女たちが遊んでいた。2家族の子たちだったが、姉妹であっても肌の色に微妙な違いが感じとれる。

ラス・パルマス海岸にて

エスメラルダスの海岸の名はラス・パルマスと称されていた。ヤシの木という意味である。しかし、その名にふさわしくなくヤシは少ないし、市街地に近いため海水の汚染も進んでいて、この海岸での浴客は多くない。その代りに、夕どきなど写真のような光景にぶつかることもある。

アタカメ海岸に咲いた可憐な花

エスメから海岸沿いに西へ進めば、アタカメ、スアといった海岸があり、ヤシも多く、 沖に浮かぶ岩なども見えてくる。ヤシの木陰には色とりどりのテントが張られ、バンガローや屋台の数も多い。そんなアタカメ海岸のとあるバンガローでくつろぐ、一輪の可憐な花を見つけた。とてもエスメの住人とは思えないので、キトから来たか、エスメ近郊の大農場の令嬢であろうか。

(写真上)エスメ歌舞団ダンサーたちの踊り
(写真下)エスメ歌舞団専属楽団

アタカメ海岸が観光客で賑わう休日などは、地元エスメラルダスから歌舞団と専属楽団がサービスに出向き、砂浜をステージにして踊りを披露する。リズムはサンバか地元の音楽クンビア、踊りは寸劇を伴っていて観客を喜ばせる。観客の中でカメラを手にした人は地元観光誌の記者、月末には薄っぺらな観光誌に載せられる。

イデヨ・ノグチ小学校の生徒さんたち

エクアドルを去る前日、キト近郊グアイリャバンバのイデヨ・ノグチ小学校を訪問した。その存在が日本人に知られて間もなくのころで、日本人としては初めての訪問だった。はにかみつつも笑顔の子供たち、可愛らしかった。帰国後、博士の故郷、猪苗代の記念館にその小学校のことを手紙に書き、何枚かの写真を添えて送った。返事は来なかったが、ぐうぜん訪ねた義兄が「お前の手紙が陳列されていた」と教えてくれた。後日、家族と訪ねた際には、記念館は改造されていて、わたしの手紙は跡形もなかった。

線路にたむろする売り子たち

念願かなってマチュピチュ行きが実現した。エクアドルを出国してペルーに入り、リマとクスコにそれぞれ1泊し、汽車でマチュピチュへの日帰りを果たした。翌日にはリマへもどり、その日のうちに、家族と落ち合うためにロスへ飛ぶというきわどい日程だった。1977年当時は、列車はまだオンボロ、動き始めてからも、売り子たちは窓にしがみつかんばかりに客に食いついていた。いまはしょうしゃな特急も走っているようである。

マチュピチュにて何を想うか

わたし自身、世界遺産を訪ねた経験はさほどないが、マチュピチュ、そのご訪れたアメリカのグランドキャニオン、そして、まだ記憶のあたらしいウズベキスタンのサマルカンドなどで受けた感動は鮮烈な思いとして心に残っている。なかでもマチュピチュは、はじめての経験だったこともあって、今でも忘れがたい思いとして心に刻まれている。駅からの登山バスを降りて、少しく歩いて遺跡の全貌が一望できたときは、「われ来たり、われ見たり」、と心の中で叫び、小躍りした。写真の女性、ベネズエラ人で友人と二人での旅だとか。彼女、マチュピチュで何を想ったのであろうか。

(写真左)ポンピドーセンタ―近くのカフェにて
(写真右)モンマルトル近くのカフェにて

南米からもどってすぐ、パリへ出張することになった。はじめての花のパリ訪問、当時としては出張で行けるなんてこと考えてもみなかったので、心ワクワクした。すべてがすばらしかった中で、わたし自身は、地下鉄への入口がそれぞれにすばらしいデザインがなされていたこと、そして、エッフェル塔のリベット構造の鉄骨が、まさに授業で教えられたどおりであったことに妙に感心した。何よりも、内藤多仲先生(東京タワー設計者)より先立つこと31年前に完成させたエッフェルの凄さに脱帽したものだった。街角のカフェに一人静かに憩う女性、やはりパリであった。

パリのあと、サウジアラビアやアラブ首長国・アブダビなどへ出張したのですが、ここでご紹介するような写真は、アルバムからまったく見つけること出来ませんでした。イスラムの国は、基本的には肖像を否定するコーランの教えがあり、街中での撮影は憚れたためでした。

(2014年10月)

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