パスポートをさかのぼる(4)

アメリカ・レークサイド病院外観

24)1988年4月27日〜5月13日 アメリカ・病院見学ツアー
子会社に移ってすぐに神戸で病院の改築を計画していた顧客に出向することになりました。基本計画をし、それに基づく実施設計・建設工事の監理をするためでした。海外のプラント建設から病院の建設、まるで180度以上の転換でした。院内での打合せに備えるため神戸駅前のチサンホテルに陣取り、専門書を何冊か買い込み、連日連夜、遅くまで必死になって勉強しました。いま考えても、あれほど勉強したのは、海外担当になる前、生態学とくにペンシルヴァニア大IAN.L.McHARGの”DESIGN with NATURE”を必死になって勉強したとき以来だったと思います。大学受験時になぜ必死になれなかったのか、我ながらバカだったな、と思っています。生態学の勉強は、のちに建設環境分野で技術士の資格取得に役立ちました。病院に関しては鐘紡記念病院(現神戸百年記念病院)建設で、副院長先生をサポートして一貫した監理をする機会が得られたこと、そしてアメリカの病院事情を学ぶために、病院建築 の大家千葉大の伊藤誠先生(故人)を団長とする『アメリカの医療革命と病院経営戦略ミッション』というツアーで全米を回る機会を得られました。ラッキーだったの一言に尽きます。ツアー参加は初めての経験でしたが、添乗員がすべてをケアしてくれて、こんなにいいものかということを実感しました。業務、とくに海外現場へ行く場合などは、ときには20個ほどの荷物と一緒ですから、空港での通関時などは戦場のような騒ぎでした。その点ツアーではのんびり待っていればそのまま出られるのですから、ずいぶん楽な旅を楽しめるわけです。
これから先は紙面ばかり費やしますので、基本的には回った地名・病院名それに寸評を列記致します。
訪問病院:
・ロチェスター―Mayo Clinic 街の一角すべてが病院ともいうべき全米一の大病院
・シカゴ―郊外型病院のLutheran General HospitalとAmericanHospital Asso. (全米病院協会)訪問
・ボストン―(終日自由行動、大半はNYへ。わたしは市内の美術館へ)
・ボルチモア―Johns Hopkins Hospital 名門大学病院
・アトランタ―Northside Hospital 緑の中の落ち着いた病院
・ダラス―Lakeland Medical Centre ダラス北方100キロ、水を活かしたランドスケープがすばらしい、医療施設らしからぬ病院
―Presbyterian Medical Mall モール(遊歩道)の名そのままに緑に囲まれた病院、産科・小児科が有名
・ロサンゼルス―Western Medical Centers 第3次医療(ターミナルケア)を行っていた数少ない病院
・カラマズ―Upjohn(薬品会社)の本社表敬訪問
全米西海岸サンフランシスコに入り、北部ミネソタからシカゴ経由でボストンへ。そして東海岸沿いを下って南部のアトランタ・ダラスを経てロサンゼルスへもどり、ふたたびシカゴ近くのカラマズを往復するという全米ほとんどのエリアを回った2週間をこえる長旅でした。

ロスのボナベンチャ・ホテル

25)1990年5月18日〜26日 アメリカ・シルバービジネス視察ツアー
長寿社会を迎え、これからはシルバービジネスだということで、ロサンゼルスで開催される世界最大の「シニアEXPO」見学を主に、アメリカでのその方面の状況を視察するツアーに参加しました。主催はシルバーサービス研究会、団長は服部万里子さん(元城西国際大学・立教大学教授)でした。ロスの有名ホテルThe Westin Bonaventureに7泊し、各施設を見学しました。
訪問先:
・ランチョバーナード―軍港サンチアゴ手前に新しく開けたシニア向けの街
・タイム・オブ・ユア・ライフEXPO―ロス市内で開催、数年遅れで日本でも東京ビッグサイトなどで同種のものが催されるようになった
・サムソンクリニック―ロスの北、サンタバーバラにある病院。クリニック・研究所・保育園の複合施設
・市内の有料老人ホーム・老人アパート―市内リティジパークのアパートはクラブハウス・プール付204戸の賃貸アパート
・AARP(American Association of Retired Persons)ロス支部訪問

ジャカルタ国際空港

26)1996年10月6日〜12日 エース研究会東南アジア研修ツアー
在社中、異業種が組んで「快適空間」を創造しようという研究会を作りました。建築設計事務所や各種設備会社などが主たるメンバーでしたが、酸素会社、コーヒーメーカーから映像制作まで、多様性に富んだ業種の人たちと月1回ていど集まって研究会や見学会を開いたわけです。企業のやることですから、究極は仕事に結びつけたいということでしたが、世の中、異業種が組んだから仕事になるなんて甘いものではありません。それでも異業種の方たちとの語らいは、日常的な業務からは得られない貴重なものがありましたが、結局2年ていどで解散することになりました。解散に当って、せっかくの集まりだったのだから、最後は海外研修にしようと計画したのがこのツアーで、企画にあたっては友人、知人の力を最大限に生かさせてもらいました。
訪問国・訪問先:
・ベトナム・ホーチミン―?レチホンガム校(職業教育校)…日本の電工会社が出資した教室があった ?新順工業団地…新興の工業団地
・インドネシア・ジャカルタ―?ジェトロ・インドネシアセンター表敬訪問?カラワン工業団地…日本の大手商社が出資している大規模工業団地開発
・シンガポール―?神奈川県シンガポール事務所表敬訪問 ?エレクトロニクス展”GlobalTRONICS 96”見学
ベトナムへは初めての訪問でしたが、新興国としての若々しい息吹をつよく感じ、好感のもてる印象でした。ジャカルタは2度目で10年振りの訪問。前回開港したばかりだった国際空港は、2期工事が完成、木を基調に落ち着いた佇まいで好印象を持ちましたが、空港から市内への交通渋滞はいかに高度成長期とはいえバランスが取れておらず、道路に面した高層ビルの裏手は昔のままの状態。そのジャカルタからシンガポールに入ったせいか、同地へ初めての訪問者は、その落差の激しさにびっくりしたようでした。1週間の旅、日ごろ気安くお付き合いしていたメンバーということもあって、楽しい旅でした。

アルジェ遠望-右手の白い部分がカスバ

27) 1998年3月〜1999年12月 アルジェリア・大使館改修工事
1998年2月半ば、会社同期入社で、退社して人材派遣の会社をやっていた友人から思いもしなかった話が持ち込まれました。在アルジェリア日本大使館で改修の話がありその調査の出来る企業をさがしている、というのです。わたしの所属していた会社は官の工事を避けていたともいえる企業であり、むろんわたし自身その経験はありませんでした。しかも、大使館と言えば外務省、もっとも厳しそうな官庁です。はじめから無理な話と思っていたのですが、とまれ話ぐらい聞いてこいということになりました。気が重いままに出向きましたが、担当官は「いやいや助かりました。有難う」、と言わんばかりの態度なのです。正直に申して、どんな業務内容なのか、担当官自身まったく把握ができないので、とにかく行ってみてくれということでした。うかつにもその時点では、アルジェリアがテロの嵐に吹き荒んでいるのだ、という意識はまったくありませんでした。担当官が頭を下げたのはそのテロのためで、外務当局が「渡航禁止」に指定している国に、わざわざ飛び込んでいく「お人好し」はいなかったのでしょう。わたしも、長く海外業務から離れて いたので、ずいぶん海外情勢に疎くなっていたのです。そのときから1999年12月初旬に帰国するまでこの業務にべったりで、地下鉄虎の門駅を降りて霞が関の桜田通りを、何度思い足を引きずるようにして歩いたものか。官工事は独特な作業手順・仕方があり、それを知らぬ者にとっては本当につらく、途中で担当官の移動があったりして、みじめな思いばかりが頭をよぎります。一方で、出先機関であるアルジェリア大使館で受けた親切さは、その思いを帳消しするに余りあるものがありました。その点で、当時の大使夫妻及び館員の皆さまには感謝の気持ちでいっぱいです。会社員を卒業したのはその年の末、帰国して間もなくのことでした。
アルジェリアヘは都合4回行き来しました。以下に渡航目的・寸評等を合わせてまとめます。
 ・第1回(1998年3月8日〜3月26日)実状調査 同行者は設備・電気の専門家(余談となるが、当初予定していた電気技師は出発直前にテロを怖れた家族の反対で取りやめ、その対応がたいへんだった)。
 ・第2回(1998年8月19日〜9月7日)前回調査に基づく業務内容の確認、設計のための基礎調査・仕様の確認、工事遂行上の必要事項の確認等 同行者は協力会社責任者、電工、仏語通訳各1名(また余談になるが、通訳はテロの爆破音に驚いて、宿舎だった大使館から一歩も外へ出ず)。
・第3回(1999年5月26日〜6月9日)工事遂行上必要な業者の選定、事務所の確認・家具類の整備、宿舎の確認等 同行者は通訳を除き前回通り(このときの通訳は見るからに線が細く、帰国直前から口数が減ってしまい、帰国途上のフランクフルトでは姿を見失うほど歩みが遅くなっていた)。
・第4回(1999年7月22日〜12月3日)工事実施 同行者は第1陣電工、通訳各1名、第2陣は一月後で協力会社責任者ほか電工2名。このときの通 訳は、パリ在住で政府関連の通訳経験ありとの触れ込みで大いに期待したが、パリ仕込みの正調仏語はアルジェでは通じないことが多く、途中から在チュニジアの日本女性を新たに採用した。通訳を介しての業務は初めてであったが、通訳を通すということ、なかなか難しいことを実感した。
 アルジェリアでのこと、折にふれてトピックにも認めましたので、関連するテーマを下記します;
?2011年10月 ベルベル人(1)マグレブの獅子
?2011年11月 ベルベル人(2)カビリーの乙女
? 2012年11月 海賊赤ひげの館に住んだ
?2012年12月 ベンガナの館植物園
?2013年02月 悪夢ふたたび−アルジェリアのこと

サマルカンド・レギスタン広場

28)2005年8月〜2007年6月 ウズベキスタン・鉄骨の技術指導
会社から離れたということで、仕事で海外へということはもうなくなったと思っていました。ところが、2005年6月の末頃、会社で先輩だった人から電話で呼び出されました。一緒に仕事をしたことがなかったのに、いったい何の用だろうかといぶかしい思いで指定された場所へ出かけました。用向きは、欧州開発銀行の仕事で中央アジア・ウズベキスタンの鉄骨製作工場へ技術指導に行ってくれないか、ということでした。話の内容は興味を引きましたが、懸念は2点、わたしの錆びついてしまった鉄骨製作の知識で技術指導ができるだろうか、そしてわたしの語学力でした。とくに語学力では、ロシア語圏の国、そういう国で流暢な英語を使う人が相手では、それでなくても苦手な上に、もう10数年使ってないわたしの英語力では太刀打ちできまいと思いました。しかし中央アジアの青い空が思い浮かび、行ってみたいという誘惑に負け、つい引き受けてしまったわけです。最新の鉄骨製作状況を知るために友人・知人を介して2、3の鉄骨・橋梁会社を訪問し、技術資料を入手して付け焼き刃的に勉強し、役には立たないと思いつつも、会社の後輩に頼んでロシア規格を送ってもらうなど、自分なりに万全の準備をしてウズベキスタンに乗り込みました。渡航した回数は5回、途中で1度、先方の関係者を日本へ呼んでこちらの会社で研修させました。
・第1回(2005年8月23日〜8月31日) 訪問した工場は広大だったが 内部に設置された機械は古く、作業の手順もわたしが現役だったころと差異がなく、錆びついていると思っていたわたしの技術でも十分通用することが分かり、内心ほっとした。危惧していた英語は、工場内で英語のできる人が皆無、通訳は先方が準備する条件だったにもかかわらず用意されておらず、3日ほど徒労に終わった。その後、この仕事の依頼主である先輩の知人が通訳を引き受けてくれ、乏しいわたしの英語を十分に忖度し、それを相手に伝えてくれたようなので、もどってきた対応内容から、満足できるコミュニケーションがなされたと判断している。
・第2回(2006年4月28日〜5月6日) 工場の稼働は少なく効率よい指 導ができず、職員に対するヒアリングだけで終わった。せっかく来たのだからと、休日を利用して念願だったサマルカンド行きが実現した。
  ・第3回(2006年10月27日〜11月4日) 訪問して驚いたことに、電気 料金未払いのため工場内が停電で操業しておらず。10数年前までソ連邦の一員だった国だけに計画経済に慣れきっており、与えられた仕事をミスなくこなせばよいのだという体質を、積極的に受注に向けて努力するという自由化経済の方向に向けるよう、技術面以外に経営・営業の面など、およそ技術屋らしからぬことまでも指導した。
・第4回(2007年2月2日〜2月10日) 先方の工場を専門家の目で見てもらうためと、日―ウズベク間の技術交流の可能性を探る目的で、この回では日本から鉄骨工場経営者1名を同伴した。
・第5回(2007年6月8日〜6月16日) 最後の訪問になって、わたしの指導にしたがって作成された会社カタログ・実績表といったツール類を活用して自社を売り込むという自由主義経済では当たり前の営業活動をするようになり、その成果からか、隣国カザフスタンでの仕事も受注できようになっていた。わたしの指導も一応の成果を得られたものと自負している。
関連トピック;
?2010年06月 サマルカンド
? 2010年09月 熱中症
?2013年05月 わたしのシルクロード
           

(2014年9月)

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