江 戸 探 訪(3)今に残る大名屋敷庭園

小石川後楽園のしだれ桜

1.はじめに
わたしの住む横浜市は都市としての歴史は浅く、幕末の黒船来航以降、開国する上で必要な港づくりのために旧東海道から分岐した「よこはま道」を敷設したことがその嚆矢(こうし)だと言えます(2018年1月号 「よこはま道」参照)。それから考えれば東京は、家康の幕府開設以来400年の歴史をもつ江戸という都市(街)、しかも最盛期には100万人という同時代の世界中の都市の中でも最大級の人口を誇った大都市の基盤・伝統・文化などをそのまま引き継いだ都市だけに、その違いは大きいものがあります。まったく比較のできない「都市としての格の違い」を感じさせます。
そのもっとも大きな違いは、東京の都市基盤である江戸は武士の街、別の表現に変えれば、大名屋敷の街だったという点です。広さだけでも比較にはなりませんが、その広い面積を東京の場合、広大な江戸城を中心に280諸侯の複数から成る屋敷が甍(いらか)を並べていたのに対し、横浜には金沢八景という風光明媚な郊外に、禄高1万石そこそこの米倉家(2011年7月号「横浜でただ一人のお殿様」参照)の陣屋しかなかったのですから……。江戸が大名屋敷で埋まっていたということは、のちに地震や火災、そして戦災で姿を変えたとはいえ、江戸の風情をそこかしこに遺しているわけです。とくにそれが色濃く遺されているのは大名屋敷内の庭園だと言えるでしょう。江戸探訪(3)では「今に残る大名屋敷庭園」と題して、庭園の紹介をすることにします。

浜離宮潮入の池と御茶屋

2.都立文化財9庭園
都立の公園というのは数えたことがありませんが、結構あるのでは、と思います。公園とは別に庭園となると、その差はよくわかりませんが、都が特別に指定した都立庭園として「都立文化財9庭園」があります。いずれもが、江戸の昔からつづく歴史・文化・自然を兼ね備えており、国や都の文化財に指定されているという意味合いから上記のような名称がつけられているのでしょう。なかでも9庭園のうち、浜離宮恩賜庭園と小石川後楽園は、文化財保護法による国の「特別史跡」・「特別名勝」の重複指定を受けています。こうあっさり書いてしまえば、「そうなの?」と簡単に受け流されてしまいそうですが、じつは二つの指定を重複して受けているのは、全国でも奈良の平城京内二坊宮殿、京都府の金閣寺・銀閣寺・醍醐寺の三宝院と、古都にある5施設の他では広島の厳島と、東京の2園のわずか7か所に限られた貴重な庭園だけなのです。これはたいへんなことで、正直なところ、わたしも信じられない思いなのです。さて、その9庭園を書き並べてみます。

名 称 旧大名家名 指 定
浜離宮恩賜庭園 徳川将軍家別邸 特別名勝・史跡
旧芝離宮恩賜庭園
小田原藩大久保家上屋敷・紀州徳川家
国指定名勝
小石川後楽園
水戸徳川家中
(のち同家上)屋敷
特別名勝・史跡
六義園
大和郡山藩柳沢家下屋敷(のち岩崎家)
特別名勝
旧岩崎邸庭園
越後高田藩榊原家中屋敷(のち岩崎家)
重要文化財
向島百花園 江戸期花園 国指定名勝・史跡
清澄庭園
関宿藩久世家下屋敷
(のち岩崎家)
国指定名勝
旧古河庭園
維新元勲旧陸奥伯邸宅(のち古河家)
国指定名勝
殿ヶ谷戸庭園
元満鉄江口副総裁邸
(のち岩崎家)
国指定名勝

六義園吹上浜

このように、9庭園のうち6庭園が将軍家を含む大名家の屋敷の庭園ということになります。将軍家と言っても、浜離宮というのは、元々は将軍家の広大な鷹狩り場だったところです。4代将軍家綱の弟綱重(その弟が5代将軍となる綱吉)が甲府宰相と称されて権勢を誇っていた頃、この地に浜御殿を建立し別邸としたことに始まります。このまま甲府藩の別邸となるところでしたが、綱重の子・綱豊が叔父綱吉のあとの6代将軍家宣となったので、自動的に将軍家の別邸「浜御殿」となったわけです。そんなわけですから、歴代将軍の手厚い保護があり、江戸湊の水辺に面した広大な敷地には、海水を引き込んだ潮入の池、鴨場の池などの水場、起伏に富んだ樹林帯ありで、その中に点在した御茶屋と、11代将軍家斉の頃に完成した庭園の姿が復元されて今に残っているのです。家斉お手植えと伝わる「三百年の松」も、大手門入口そばに元気な姿を見せています。明治維新後は皇室の離宮となり、名称が浜離宮と変わりました。大震災、戦災で、御茶屋類は焼失し、往時の姿がなくなりましたが、昭和20年に東京都に下賜され、その後の復元工事を経て、「浜離宮恩賜庭園」として一般公開されています。同じ恩賜公園の、旧芝離宮は生い立ち・変遷が浜離宮と異なります。江戸初期の頃、小田原藩大久保家上屋敷の潮入式回遊泉水庭園がはじまりで、2,3の大名家を経て紀州徳川家の別邸「芝御屋敷」となり、維新後いったん有栖川宮家となり、皇室が買い上げて大正13年、昭和天皇ご成婚記念に東京市に下賜、「旧芝離宮庭園」として一般公開されました。恩賜と称されても、いわば江戸初期の典型的な大名屋敷だと言えます。恩賜の公園は維新後に皇室のものとなった関係で管理がよく行き届き、それが理由で今日みられるような立派な庭園として存在しているのでしょう。その他の庭園では小石川後楽園は、明治維新時まで水戸徳川家上屋敷内にあり、屋敷は明治政府に没収されましたが、東半分は陸軍の施設になり、庭園のあった西半分はそのまま庭園として使われることになったわけです。いまに残る約5万坪の小石川後楽園で、築山泉水円遊式の典型的な大名庭園で、ドラマでおなじみの水戸のご老公光圀(黄門さま)も作庭に深くかかわり、明からの遺臣の考えを随所に取り入れた庭園だと言えます。因みに、東半分の施設というのは旧陸軍砲兵工廠で、拙著でご紹介の『陸軍燃料廠』の発祥の地です。
この他に挙げる3庭園は、維新後すべて岩崎彌太郎が手に入れたものです。岩崎はさすがに剛毅な財閥、自分が手に入れた庭園に金をかけ、それをそのままお上に献上ということで、結果として、今日に至るもよく管理された庭園となっています。3庭園のうち六義園は、浜離宮・後楽園とともに特別名勝に指定されている東京にある三つの庭園の一つです。いわば都立文化財庭園の三大人気庭園と言えるのだと思います。説明の必要もないでしょうが、綱吉寵臣の側用人柳沢吉保の下屋敷の庭園です。広さは後楽園の半分ほどですが、作庭の思想が物語的に語られているようで、それでいてバランスのよくとれた庭だと思います。清澄庭園となると、雰囲気が大名庭園らしからぬ開放感にあふれ、しかも全国の名石を集めてきたという、わるく言えば成金趣味的な面も感じさせます。そもそもが、場所が下町で、元禄期の豪商紀伊国屋文左衛門の屋敷から始まったせいもあるのでしょうか。結局、贅沢三昧の生活は長く続かなかったのか、20年ほどで手放し、下総・関宿藩久世家の下屋敷となり、維新後は岩崎家が購入し、作庭したようです。さいごの1庭園は旧岩崎邸庭園です。場所は上野池之端ですが、ここは越後高田藩榊原家の中屋敷のあったところ。したがって、大名庭園でもあったのでしょうが、むしろ岩崎家購入後は自邸として建物に注力し、コンドル設計の本邸などが国の重文に指定されていますので、庭園としての記述は差し控えます。

新江戸川公園

3.江戸の大名屋敷を求めて
すでに書きましたが、江戸の街の70%は武家屋敷、そのうちの半分が大名屋敷と言われていますから、ちょっと想像ができないほどの広さです。江戸探訪(2)で大名小路のことにふれましたので、江戸城近傍の大名屋敷が現在どのようなものに変わっているかについてはご想像いただけるかと思います。もっとも、大名屋敷が現在どのような施設になっているかを知ったところでそこに庭園が残ったいるわけではなく、さして意味のあることでないことをあらかじめお断わりしておきます。そのことを承知の上で、大名屋敷がどんな現況になっているのかについて項目に分けて説明してみます。
1)国家施設(省庁など):主として永田町・霞が関に集中。その他では、新宿市ヶ谷に防衛省(尾張徳川家上屋敷)、国立劇場(明石藩越前松平家)、迎賓館・大宮御所(紀州徳川家)など。
2)諸外国大使館:麻布、番町、三田など、都心で比較的閑静なところに多いのですが、あいにく内部には入れません。三田・綱町を歩いた際、かつて松山藩久松家中屋敷のあったイタリア大使館の門前は、現地人館員によって厳しく警備されており、内部をうかがうことすらできませんでした。たしか以前、TVで内部の様子が放映されたことがありましたが、庭園はよく手入れが行き届いていて、赤穂浪士の大石主税の碑(切腹場所)もちゃんと保存されているようでした。
3)都の施設:都庁(館林藩秋元家下屋敷ほか)、東京国際フォーラム(高知藩山内家上屋敷)、中央区役所(高知藩山内家下屋敷)など。
4)公園・庭園:既述の都立文化財9庭園をのぞく主な公園・庭園は有栖川記念公園(盛岡藩南部家下屋敷)、新宿御苑(高遠藩内藤家下屋敷)、日比谷公園(日比谷大名小路の諸大名約10家)。このほか目黒の自然教育園(高松藩松平家下屋敷)もありますが、ここは自然の研究のための特殊な庭になっており、往時の大名屋敷の面影は皆無となっています。
5)民間建物類・鉄道・教育関係など:政治の永田町、官庁街の霞が関とくればビル街は丸の内ということになりますが、都内の目ぼしいビルと言えば、多くは大名屋敷と結びつき、それを挙げていたら枚挙にいとまがありません。よって端折(はしょ)るとして、丸の内の東京駅はさすがに広大な敷地であり、岡山藩池田家や松本藩戸田家の上屋敷など8家の屋敷が絡んできます。そのほか目立つ建物として、東京ドームは先に述べた小石川後楽園の東隣りですから水戸徳川家上屋敷、神宮球場は飫肥(おび)藩伊藤家下屋敷、新国立美術館は宇和島藩伊達家上屋敷ということになります。都心の大学キャンパスなどは、まさに大名屋敷などうってつけの敷地で、よく知られた東大本郷キャンパスは、赤門でおなじみの加賀藩前田家の上・中屋敷、上智大は尾張徳川家中屋敷で、防衛省と言い、尾張家といえば目立つ場所を占めていたのですね。ついでながら箱根駅伝で名を売った青山学院は西条藩紀州松平家上屋敷です。

池田山公園

4.散歩気分で入れる大名屋敷
ざっと大名屋敷をさらってみましたが、一部の公立の公園以外は簡単には入れそうもありませんし、先に述べたように、大名屋敷だったという名前だけで、大半はそこに庭園などは残っていないのです。そんな中で、自分の足で探し求め、自分の目で確かめた庭園についてフォローしてみましょう。思いついたところを書きあげてみます。甘泉園公園(徳川清水家下屋敷)、安田庭園(丹後宮津藩本荘家下屋敷)、新江戸川公園(熊本藩細川家下屋敷)、清泉女子大(仙台藩伊達家下屋敷)、池田山公園(岡山藩池田家下屋敷)、そして、ご府内(いわば城下町を指す)から外れますが、品川の戸越公園(細川家別邸)などです。ざっと数えて7〜800はあったはずの大名屋敷の中から、たった6庭園にたどり着いただけでした。それだけに貴重ですので、各々の庭園について写真を載せ、紹介をすべきでしょうが、簡単な説明で済ますことお許し下さい。
甘泉園は堀部安兵衛の仇討ちの場・高田馬場の近くです。わたしも学生時代に数回訪れましたが、小さいながら奥のふかいな庭園です。いまNHKで放映中の渋沢栄一が家臣だった徳川家三卿の一つ清水家の下屋敷でした。安田庭園は両国国技館のすぐ北側で、こんなにぎやかな街に、と思わせるほど静寂さを感じさせます。新江戸川公園は神田川(旧江戸川)の、右岸は平坦ですが、左岸は目白台へ上がる急な崖地のその一番川沿いの一角を占めています。この地には熊本・細川家の下屋敷をはじめ大名屋敷の多いところで、近くには椿山荘、関口芭蕉庵、細川家の永青文庫などが隣接しています。訪れる人も少なく、都会とは思えぬほど静かな公園です。
ところでウェブサイトに何度も書いていますが、わたしの生地は品川、品川宿に近いせいか、少年のころは宿場女の嬌声が聞こえてくるかのような感じのする街でした。ところが、通りをはなれ一歩山手へ入ると、御殿山から高輪へ、あるいは西にふれると島津山・池田山といった都内でも有数な御屋敷町になるといった、ちょっとちぐはぐな感じの環境下で育ったものです。御殿山というのは幕府の御殿があったところです。島津山は伊達家の下屋敷だったところですが、維新後に島津公爵の屋敷になったため、このように呼ばれていました。現在は聖泉大学のキャンパスになっており、当時の公爵邸が現存しています。大学ではこの公爵邸、そして庭に残る伊達藩屋敷以来つづく樹齢200年をこえる楓(ふう)の木の紅葉期に見学ツアーを催しています。池田山はその名の通り岡山・池田家の下屋敷で、小さいながら高低差をうまく利用した回遊式林泉庭園で、大名の下屋敷奥御殿庭園の雰囲気が色濃く遺された貴重な遺構だと言えるでしょう。最後の戸越公園ですが、JR五反田からの池上線・戸越公園駅に近く、都心からは離れたところで、下屋敷と称していますが、細川家の別邸みたいなものだったのでしょう。敷地10万坪と、とにかく広大で、維新後は三井の所有となり、昭和になってから荏原郡(現品川区)に寄贈され、いまの戸越公園は庭園のごく一部を利用したものですが、大名庭園の面影をつよく残しているいい庭園です。

  

(2021年4月)

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