江 戸 探 訪(2)大名小路をゆく

幕末期の江戸城日比谷堀

1.はじめに
江戸探訪(1)の中で、三田・綱町界隈は旧大名屋敷の区画が細切れにされることなく、その区画がそのまま現在に至るまで保存され、有効に活かされていると紹介しました。そうした稀有の例が、都内でもっと顕著に残されているのが江戸期から残る丸の内などの大名小路です。お城好きの方はご存じだとは思いますが、城の中は役割によっていくつかの区画に分けられます。その区画のことを、古くは曲輪(くるわ)と呼ばれ、近世以降は、本丸・二の丸というように、「丸」と称するのが一般的になっています。旧江戸城は日本一の城郭でしたから、城そのもののスケールが大きく、本城、西城(西の丸・紅葉山 現在の皇居にあたる)、北の丸(徳川三卿のうち清水・田安家の屋敷 現在武道館などがある)という三大区画で構成されています。このうち、本城だけでも他の城より大きく、本丸・二の丸・三の丸に加えて、日比谷入江を埋め立てた地に外堀を設けて武家地として、本丸警護のために信頼のおける大名家の上屋敷を整然と配しました。この武家地は内堀によって本丸のある御城(本城)とは一線を劃されていますが、本丸を護るための地域だという点では本丸に付属した区域で、事実上、本丸内と称してもよく、丸の内の地名はこのためであり、また大名屋敷の整然とした区画を指して大名小路と称したわけです。大名小路の名称は江戸時代から用いられており、具体的な路を指しているわけではなく、広義には「大名屋敷の街」と言った意味合いで使われたようです。例えば、西の丸東の地域(現皇居外苑)内にも、老中・若年寄といった幕府の要職につける譜代大名家の屋敷が配されており、そちらも西の丸下大名小路と俗称されていますし、丸の内から堀沿いに時計まわりで進みますと、日比谷・霞が関・永田町(丁)とつづきますが、すべて武家地で大名家の上屋敷が甍を連ねており、ここもそれぞれ大名小路だと言えるのです。

旧江戸城北の丸清水門

2.丸の内大名小路
旧江戸城大手門を出ますと、和田倉堀沿いにパレスホテルがあり、現在の地名では丸の内一丁目で、このあたりから南の有楽町駅界隈までを丸の内と称して、現在の丸の内仲通りを軸にして大名小路が広がっています。丸の内大名小路では、升目状に八つの区画に分けられ、一つの区画を大大名で1ないしは2家で分け合い、中クラスでは4家ていどで分け合って、幕府を支える錚々たる大名の屋敷(多くが上屋敷)が甍を並べております。現在でも、その升目がほぼ活かされていて、大名家に分けられた敷地をさらに二分割した大きさで丸の内のビル街が構成されていると言えます。有名な丸ビルを例にとりますと、大名小路の一区画を岡山藩池田家と老中用屋敷とで二分した敷地を、さらに二分割した大きさの敷地です。言い換えれば、池田家の上屋敷は、あの丸ビルの敷地の2倍の敷地だったということになります。ずいぶん大きかったですね。また、鳥取藩池田家の屋敷は一区画すべてを与えられ、丸の内ではもっとも大きな敷地でしたが、この敷地には現在、帝劇と国際ビルが建っています。この鳥取池田家の上屋敷表御門(黒門)は現在上野の国立博物館に移築されていますが、現存する武家屋敷の御門としては最も格調高く、かつ美しいことで知れており、国の重要文化財に指定されています。その他では、有楽町の東京国際フォーラムは高知藩山内家の屋敷跡、東京駅丸の内北口前に建っていた旧JRのどっしりとした本社ビル(現丸の内オアゾ)は隣接するビルを含めて熊本藩細川家の屋敷でした。なお、東京駅は路線を含めると丸の内の約20%を占める広大な敷地を有していますので、数家の大名家屋敷跡であり、中には岡山藩池田家の中屋敷も含まれていました。城主が住み、藩の江戸における政治・経済・外交活動の本拠地である上屋敷と、隠居後の藩主・先代の未亡人・当主の子女たちの住まいとなる中屋敷とが隣接して建てられたというのはめずらしい例だと申せます。
丸の内には、大名屋敷の他に幕府の施設である傳奏屋敷(幕府―朝廷間の連絡事務所)、評定所(最高裁判所)、南北町奉行所、定火消といった役所もあって、幕政の一翼を担っていたという点で、他の大名小路とは全く異なる性格を持たされていたことがよくわかります。そのせいもあって、明治政府軍によって江戸城が開城されたのちは、丸の内大名小路の性格は大きく変わりました。新政府にとっては眼のかたきだった幕府(賊軍),しかも幕府の要職につくことの多かった大名が住んでいたところだということで、丸の内の住民たちはその地から追い立てられ、大名屋敷は新政府軍の施設、兵舎・練兵場などに変貌しました。しかし、それも長くはつづきませんでした。明治2年(1869年)には遷都が決まり、天皇は京都から江戸城に移られたのです。そのため、軍の官衙ではなく、兵舎・練兵場などが天皇のお住まいのごく近くにあることは何よりも天朝に対して畏れ多く、かつ何かと支障の生じる恐れもあるであろう。それに、いずれ手狭にもなると考えられて、代替地の手当がつきしだい、軍はこの地からはなれ他へ移ってしまったのです。10万坪もある丸の内は草の生い茂る原野に変じてしまいました。しかし時代が変わろうと、丸の内が東京の中心であることには変わりません。明治23年(1890年)に破格の値でこの地を得た三菱は、「三菱ヶ原」と揶揄(やゆ)された野原の開発に着手しました。三菱一号館(のちに美術館として再建)が完成したのは明治27年(1894年)です。その後の丸の内の発展ぶりは、皆さんのよくご承知のとおりです。

鳥取藩池田家上屋敷表御門(黒門)

3.日比谷大名小路
日比谷は江戸城西の丸東下とは堀一つ隔て、丸の内からは日比谷見附(番所のこと)を入ってすぐの一角に当たります。日比谷の「ひび」は海中に設ける海苔養殖用の枝付きの竹であることから分かるように、日比谷入江の海だったところです。わたしは近年、鎌倉下道(古道)に関心を持ち、何回かに分けて鎌倉からその道を探りつつ北上し、昨年(2020年)12月までにようやく多摩川を渡り、品川の大井町までたどり着いております。江戸まではあと一日の行程です。高輪台・三田台を歩いて桜田通りを北上、赤羽橋から芝公園内を縦断してそのまま愛宕通りを進みますと、やがて右手に現在の日比谷公園が見えてきます。この先、道は桜田門の方向をめざして進み、皇居外苑にたどり着きます。古の鎌倉街道のルートの説明を現在の地名に重ねましたので奇異に感じられるかも知れませんが、江戸期に旧東海道が整備される以前は、西国から江戸へ入る海側の道はこのルート一本で、このほかには世田谷経由で入る鎌倉中道のルートがあるだけですから、日比谷は江戸への入り口にあたるわけです。また、日比谷入江の戸口だということで、江戸」の地名の由来がこれでわかります。それと、家康がはじめて江戸に入府した際、城下まで海水がひたひたと打ち寄せていたという情景まで描けるようです。日比谷の意味合いがわかったところで、江戸城としてみた場合、日比谷大名小路はどんな性格だったでしょうか。それは丸の内とは真逆に近いほど異なっていました。まず堀に面して長州藩毛利家と佐賀藩鍋島家といった外様雄藩、背後にも盛岡藩南部家、徳島藩蜂須賀家などの外様大大名の上屋敷が並び、それを譜代の小大名の屋敷で取り囲ませています。その意図は明白ですね。

旧井伊家屋敷跡から望んだ桜田門

4.霞が関大名小路
日比谷から西へ路一つ隔てたとなりが霞が関です。この名の由来となる関は、かなり昔から奥州に対する備えとして設けられていたようです。第二合同庁舎(国交省・総務省など)前に建つ「霞が関跡」碑には由来が書かれていますが、そこに記された室町期の『新拾遺和歌集』に採られた歌、「いたづらに名をのみとめて東路のかすみの関も春ぞくれぬる」に出てくる霞が関については、必ずしもここではないという説もあるようです。たとえば鎌倉上道で府中の手前となる関戸だという説もあるのです。それはともかく、鎌倉下道が日比谷・霞が関を通っていたことは間違いなく、下道がその先で奥州へ向かう鎌倉中道と合流することも確かですから、関が設けられていたことは否定のできない事実でしょう。江戸の武家地は町ではないので、名前がつかないのが通例ですが、江戸期の地図ではっきりと「霞ヶ関」と記され、広重の江戸百景では「霞かせき」と書かれおり、江戸の中では古くから由緒のある地名だったと言えるのでしょう。そのせいだとは言えませんが、ここの大名小路には錚々たる外様大名の上屋敷が立ち並んでおりました。米沢藩上杉家(のちに法務省)、広島藩浅野家(警察庁)、福岡藩黒田家(外務省)などで、そのまわりに、日比谷同様にどちらかといえば親幕府的な大名屋敷で囲まれていました。
霞が関大名小路が丸の内と大きく異なる点がほかにもありました。それは、既述したように、丸の内が江戸城の本丸に取り込まれた地で、幕府の親藩・譜代大名の屋敷が集められていたことに対し、霞が関は本丸の外でありながら、古くから関が設けられていたような由緒ある地域であった点です。加えて、明治の御代になってからは結果的に皇居に近くなって、それまで住んでいた住民も外様の大名だったという点でも、明治政府としてはこの地こそ国の行政府を集中させるにふさわしいと考えたに違いありません。隣接する日比谷も大名小路としての性格は似通っていますが、埋め立て地のため地盤としてはつよくない。それだけでも、霞が関に行政府を集中させる条件はそろっていました。丸の内は民間の手に任せておけば、ビジネス街として発展するに違いないし、地盤のわるい日比谷は公園として開発すればよかろう。こうして、霞が関への官衙の集中化は進められることになりました。その嚆矢(こうし)は福岡藩黒田家跡の外務省で、明治3年(1870年)のことでした。その後、諸官庁の集中が何度か行われ、明治の中頃に決められた最終計画により、今日見られるような中央官庁街に発展したわけです。

桜田門のうち渡櫓門

5.永田町(丁)から桜田門へ
霞が関の西どなり、ちょっとした小高い台地が永田町です。霞が関からは外務省横の潮見坂を上がったところで、広重の絵に描かれた「霞かせき」はこの坂のことです。台上には往時、彦根藩井伊家の上屋敷、広島藩浅野家中屋敷、その他江戸城西の要として旗本屋敷なども多数ありました。井伊家は明治新政府にとっては仇敵そのもの、維新後、屋敷は取り除かれ跡地は参謀本部・陸軍省といった陸軍の官衙、各種兵営・練兵場などによって占められました。しかし丸の内同様に軍施設が他へ移ったあとの大正期になって、国会議事堂建設地と定まり、広大な敷地は三分割され、旧浅野家屋敷跡に議事堂が建ちました。旧井伊家跡などは国会取り付け道路を挟んで、北と南とに二分割され、北側は参謀本部などを経て、現在は国会前庭洋式庭園となり、南側は有栖川宮家の邸宅、宮内庁霞が関離宮、東宮御所などを経て、現在は和式庭園として各々一般公開されています。
北側洋式庭園はTVドラマなどでよく使われますが、一般的にはあまり知られておりません。緑豊かで、閑静な庭園です。徳川家の代表的な譜代大名だった井伊家上屋敷跡といっても、庭内には江戸の名水の一つと言われた「桜の井」の他に、それをしのぶよすがはありません。ただ、かつてあったであろう表門である赤門を出て、右手の坂をゆっくりと内堀通りまで下る道すがらの左手に、手に取るように見える白壁の桜田門、いつ見ても様になる景色です。桜田門は、外側の高麗門、枡形に組まれた内側の渡櫓(わたりやぐら)門の二門から構成されていて、内曲輪の11ある門のうち、田安・清水門とともに国の重要文化財に指定されています。この門へも、あまり観光客は来ず、静かで、それが理由でわたしの大好きな門となっています。高麗門をくぐり、右手に折れ、導かれるかのように渡櫓門をくぐって皇居外苑(旧西の丸東下大名小路)に入りますと、人の少ないときなど、門外の喧騒を忘れさせてくれます。広々とした苑内のベンチにでも腰をかけ、北の方向を望みますと、不思議なことに、今は消えてしまった往時の大名小路が頭の中に描かれてくるのです。この小路は他とはことなり、老中・若年寄といった幕府の要人となる大名家のための小路ですから、屋敷の大きさはともかく、大名小路内のオープンスペースが広くとられ、伸びやかな縄張りとなっています。板倉周防守、奥平下総守、脇坂淡路守、田沼玄蕃頭等など、時代劇のドラマや読み物などでよく見かける大名の屋敷が並んでいたのです。
(注記)冒頭の日比谷堀の写真は公刊の書籍から引用しました。

  

(2021年1月)

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