無用な買い物だったのか

「熟語本位英和大辭典」

私事になりますが、ここ数年、わたしの頭からどうしても拭い去ることのできない三つの悩み事がありました。そのうちの一つは自分の身内に関することで、これはここで言葉にするわけにいきません。残る二つのうちの一つは、富士北麓に有していた山荘のことで、これについてはすでに書きましたように昨年末に手放すことができましたので、残るは一つ、本棚にぎっしりと詰まっている種々雑多な書籍のことです。これをそのまま娘たちに処分をゆだねるのは酷というより、彼女たちにとってめいわくな話でしょう。頭を痛めるゆえんです。
わたしは、もともと本大好き人間でした。戦時中、群馬県・安中に疎開していたとき、物置として使われていた寺の2階、一間だけ畳が敷かれていた部屋に、母とまだ2歳にも満たない弟の3人、肩を寄せるようにしての生活をしていました。ご多分にもれず食糧難で、土曜日など学校から帰ったあと、母に連れられて近隣の村へ買い出しに出掛けました。それと炊飯に必要な薪を集めるために年かさの子について、近くの山へもよく入りました。そんな手伝いはさして苦になりませんでしたが、夜中に、下で生活している寺のご家族の睡眠を妨げぬように屋外の厠へ行くのだけはイヤでした。そんな寺での生活の中でも楽しみはありました。無造作に置かれていた本の山でした。むろん難解なものばかりでしたが、中には、もう成長はしていましたが、寺の3人のお子さまが幼少のころ読んだと思われる本も交じっていたのです。戦後、東京へもどってからの少年期、満を持していたかのように少年雑誌が創刊・再刊されました。わたしのお気に入りは、光文社から創刊された『少年』で、毎月、発行日を待ちきれない思いで書店へ求めに行ったものです。再刊された『譚海』もむさぼるように読みました。それだけでなく、当時よく開かれていた「縁日」では本・雑誌のたぐいを夢中になってあさりましたし、北品川から大井町に点在していた数件の古本屋は、中学生のころからわたしのホームグラウンドでした。浪人中(好きな言葉ではありませんが)も、受験勉強に集中できず、息抜きと称しては古本屋めぐりをやめませんでした。新渡戸稲造などが監修した『熟語本位英和大辭典』(大正13年三星社刊)を入手したのもその頃でした。坪内逍遥も監修者だったせいか、例えばkissの項では「挨拶・会釈の一つで尊敬または崇拝を表わす」というように、訳語がじつに含蓄に富んでいて面白いのです。でもそんなことは、受験には何の役にも立たないこと、分かり切ってはいましたが……。

平凡社「大辭典」

そのような習癖は結婚後も改められませんでした。ひとり者ならいざ知らず、家庭を持てばとうぜん家計に要す費用がかさみ、本代にはまわらなくなるのでしょうが、わたしは、なんだかんだ理屈をこねては本を購入して、家計をあずかる連れ合いに迷惑をかけていました。平凡社『大百科事典』(全24巻)は「この種の事典は一家に一つは必要なものだ」と説得、おなじ平凡社『世界名画全集』(全25巻・別巻4巻)は絵が好きで自分も油絵をやっていた連れ合いの琴線をくすぐることで成功しました。中でも最大の、そしていま思えば最も無用だった買い物は1975年(昭和50年)2月、わたしがエクアドルへの長期赴任直前に買い求めた平凡社『大辭典』(上・下巻)でした。これは、昭和9年〜11年に同社が刊行した全26巻16000ページにおよぶ語彙数72万語、当時最大の辞典の縮刷覆刻版として刊行されたものです。なぜそんな辞典を、といぶかしく思われるでしょうが、たまたま、わたしの大好きな作家司馬遼太郎さんの「手にしたとき震える思いだった」というような推薦文の書かれたチラシを見て、もう熱におかされたかのように、むしょうに欲しくなり、申し込んでしまったのです。購入申し込み制だったためか、辞典本体にも、また2巻を納めている立派なケースにも定価が表示されておらず、いまとなったら幾らしたのか記憶がありません。インターネットで調べたところ、現在の価格は57,282円となっていますから、当時でも相当な値段だったと思います。連れ合いには相当反対されましたが、「なあ〜に海外現場へ行けば、そんな金すぐ入るから」、と煙(けむ)に巻くように支払いを頼み、わたしは地球の裏側へ逃げ出しました。さあ、それからがたいへんだったようです。じつは、海外赴任となればある程度の支度金が用意されますが、海外で長期にわたって生活するとなれば、旅行用のラゲージ、身の回りの物、カメラ、電気製品などでほとんど消えてしまいます。とうぜん余計な辞典の代金などにまわるはずはありません。そこで、すぐに海外勤務手当などが留守宅へ送られるから、と安心させたのですが、そのような手当はすぐに入金するものではなく、条件次第では支給が2〜3か月遅れることもあったようです。辞典代金を払ってしまった連れ合いは、待てど暮らせど入金がなく、生活にも影響があったようで、だいぶ困ったようでした。いまでも折にふれてそのときの様子を聞かされますが、たしかに軽率な理由からとんでもない買い物をし、家族に苦しい思いをさせてしまったこと、後悔しています。と言うのも件の『大辭典』、国語関係の学者でも研究者でもない者にとって、とても扱えるレベルではなく、第一、重さは1冊で3.2キロもあって手軽には扱えず、そのわりに縮刷覆刻版ということで文字が小さく、拡大鏡付なのです。せいぜい年に数度使うかどうかで、ほとんど利用していないのです。まさに「無用だった買い物」としか言いようがありません。

「日本建築史基礎資料集成」

ほかにも無用と言われそうな買い物、ずいぶんしています。単行本ならまだあきらめがつくのですが、全集ものとなると、どうしても経済的に行き詰まってしまい、結果的に無用ということになってしまうのです。その端的な例が中央公論美術出版『日本建築史基礎資料集成』(全25巻)です。日本建築史の泰斗太田博太郎先生(東大教授)が編集責任者になられ、日本建築史研究の第一線で活躍されていた方々が編集・執筆にあたられた資料集成で、写真・図版・執筆内容のいずれをとってもすばらしい本で、海外へ赴任する前の一時期、まだ日本建築史の研究に多少は未練を残していましたので、やはりどうしてもほしくて、京都の寺の中でももっとも傾注していた紫野・大徳寺の大仙院本堂が出てくる書院(1)を購入しました。定価は8,000円、想定していた以上に充実した内容でしたが、図書館・建築史専門の研究室などに備えておくべき書籍であり、どう考えても個人で所有すべきものではないと判断し、その1冊で断念いたしました。同じ系統の全集ものとしては、ほかにも平凡社『日本の美術』(全25巻)、美術出版社『日本美術全史』(全6巻)にも手をだしてしまい、価格も手ごろだったのですが、結局、前者は5冊、後者は2冊で断念しました。双方ともなかなか良い本でしたが、価格が手ごろで内容もわるくないにもかかわらず途中でやめたこと、やはり、わたしにとっては無用な買い物だと判断したのです。

講談社「世界の博物館」

海外の現場勤務している間は、それなりの手当・日当などが支給されますので、経済的には多少のゆとりが生じます。そうなると、悪しき(?)習癖はますます頭を持ち上げてきますし、それに、滞在中、海外の著名博物館を訪問しますと、そのことによる啓発も大きいものがありました。わたしの場合、メキシコ・シテイでの「国立人類学博物館」には驚かされました。それ以前に、エクアドル・キトで同類の博物館に入ったことがあり、そのときは、内容のつまらなさにがっかりしたので、なおさらメキシコの博物館には深い感銘を受けたのです。ちょうどそのころ、講談社『世界の博物館』(全22巻 別巻事典)が刊行され、おっちょこちょいのわたしは,これにもすぐにとびつきましたが、これも7冊まで購入したところで、やめてしまいました。実際に入館したところはそれなりに興味を引きますが、それでも、書物からは臨場感は得られず、やはり物足りなさを感じます。ましてや行ったことのない博物館にいたっては、とても感動など得られないことがわかり、なんとなく買いつづける気が起らなくなったのです。無用だった買い物の一例だと思います。海外現場にいた同時期に手を出した刊行物に、敬愛する建築家だった吉阪先生の著作集(全17巻)がありました。わたしは、迷うことなく購入申し込みをしました。本は留守宅へ発送してくれましたので、著作集は着実に本棚の一角を占めていきました。わたしはいまでも、先生の遺稿となった『乾燥なめくじ(生ひ立ちの記)』(相模書房刊)の愛読者ですが、先生は日本を代表する建築家(世界遺産で知られるル・コルビジェの愛弟子)であると同時に著作家だと思っています。17巻に収められた作品は多岐にわたっており、読みやすい内容がある反面、高度な論文も含まれており、読了したのはほんの数パーセントにも満たなかったと思います。そのような著作集を娘たちに残したところで迷惑に思うだろうということで、自分のウェブサイト2011年5月号(『吉阪隆正著作集』)に書きましたが、わたしは心の中で先生に対しておわびしつつ、関東学院大学の建築学教室に贈呈しました。本来なら、まさにこれから愛読すべきなのだろうとも思いましたが、わたしが読まない分、先生の著作を少しでも多くの若い学徒たちの目にふれさせたいと願ったのです。

岩波書店「奈良の寺」

吉阪先生の著作集以外でも、全巻そろえた全集もので自宅にそのまま置いておいたのでは家族に迷惑をかけるだろうと思われるものは、熟慮の結果、然るべきところに引き取ってもらいました。とくに、文化人類学に関する名著『泉靖一著作集』(全7巻)を畏友西和夫君の紹介で神奈川大学常民文化研究所が引き取ってくれたことはたいへんうれしく、私淑していた歴史家・網野善彦先生(故人 同研究所を神奈川大学へ招いた)のお導きがあったのかと思ったほどでした。このことについてはウェブサイト2012年3月号(『書籍受難の時代』)に書きましたが、わたしの手もとをはなれたそうした書物、いまごろどのような扱いをされているものか知るよしもありません。わたしにしてみれば、少しでもお役に立っていてほしい、とあらまほしの気持ちでおります。手元をはなれた全集ものがある反面、いまなお本棚に並ぶものもあります。岩波書店『漱石全集』(新書版全21巻)、朝日新聞社『司馬遼太郎・街道をゆく』(全42巻 人名・地名録1巻)です。前者は浪人中に刊行と同時に乏しい小遣いをはたいて買求めていったもの、後者も刊行と同時に1冊ずつ購入し、次巻が出るまでに、だいたい読み終えていました。ともに読み物ですし、大好きな作家のものですから、とくに司馬遼の作品はほとんどすべて書棚に収まっています。読み物以外では岩波書店『奈良の寺』(全21巻)、『大和の古寺』(全7巻)があります。一度はそちらの道へ進みたいと思ったことのあるわたしとしては手放すわけにはいきません。これからゆっくりと目を通したいと思っています。

講談社「日本語大辞典」

全集ではないのですが、デスクの上の棚に、恨めしそうにわたしを見下ろしている書籍が2冊あります。1冊は講談社『カラー版日本語大辞典』です。神戸に赴任していた際、たまたま知人の事務所で見た辞典です。ページを開いてみますと、図版がすべてカラーで明るく、編集方針がワープロ時代(当時まだPCは一般的でなかった)そして国際化に即している点、なかでもわたしにとっては教育漢字に筆順がつけられている点がありがたく、7,300円と高額でしたが、つい購入してしまいました。しかし自宅には、わたしが全幅の信頼を寄せています広辞苑(第5版)があり、せっかくの大辞典も、ほとんど出番はないのです。もう1冊は講談社の『大図典』です。12,000円もしたのに、この図典に関しては、どのような理由からか、そしていつごろ購入したのか、まったく記憶がないのです。たぶん、書棚でかなりのスペースを占めていた平凡社『世界百科大事典』が扱いにくくなり、その代りに買ったのだと思います。そのあと、百科大事典はひもで括られてマンションの物置に捨て置かれ、出入りの業者のトラックで運び出されました。本大好き人間のわたしとしては、いまでも複雑な心境でいます。件の大図典、持ち出された大事典の代役が務まっているのかとなりますと、しょせんは図典で、検索がしにくく、ほとんどページを開くことがありません。2冊とも、わたしにとっては、無用の買い物だったようです。無用の買い物ということで最後につけ加えますと、じつは手放した富士北麓の山荘にもかなりの部数の本がありました。居抜きで手放したので本はそのまま、その中には連れ合いが結婚前に購入していた河出書房新社『世界文学全集』(第?部・第?部)、同社の『世界短編小説選集』合わせて50冊近くがありましたし、わたしがまさに衝動買いした日本各県の旅行案内の本20冊ほども含まれていました。いま考えてみると、ほんとうに無用な買い物をしたものだと思っています。少年時代、あるいは学生時代はまさに書籍の時代、古本屋へ本を持ち込めばそれなりの価値を評価してくれましたが、それがいつの間にか書籍受難時代となり、さらに現在はWikipedia(Wikiによる百科事典)によって書籍不要時代になりつつあります。そんなこと、想像もできませんでしたので、「無用だった買い物」、やむを得ない面もあったかも知れません。そうは言っても、本に対してはつい盲目になってしまう、わたしのわるい習癖を早い時期に直しておけばよかったのに、とつくづく思っています。

    

(2017年4月)

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