富士桜高原記(3)

まらうと(一)

山荘へのまらうど
昭和55年(1980年)の晩秋に購入した山荘は、翌年の夏に初めての来訪者を迎えました。8月半ばのことで、妻の妹親子、そして妻の姪(姉の子)が相次いで来荘してくれました。8月末には会社の若い同僚が3人来てくれて、近くの鳴沢林間ゴルフ場で遊びました。じつは購入したとき、いずれはいろいろの方をお招きしたいと思っていました。とは申せ、その時点では、来られた方の芳名・感想などを記してもらうといった心の余裕などまったくありませんでした。何人かの方を迎え入れるうちに、せっかくなら記録として残しておくのもわるくないなと気付き、「まらうど」(客人の古語)にちなんで名付けた芳名録を用意したのは初めての来荘者から3年も後のことでした。記入者第1号は社の同僚、いまは故人となった岡野さんで、昭和59年8月のことでした。3年も経ってから用意したということは、その間は記録が残されていなかったわけで、訪問者はわたしの頭の中に記録されているだけです。しかし、幸いなことと言えるかどうかですが、しがないサラリーマンが山荘を持つなんて身のほど知らずではないか、と思っていましたので、山荘購入のことはかぎられた身内、そして会社でもごく少数の同僚にしか話していませんでした。ということで、お招きしたのはごく一部の身内とほんの少数の同僚だけなので、だいたいのことは覚えているのです。

吉田の火祭りに招いた岡野さん一家

記録されないままでいる来荘者を順次思い出せば、昭和56年の紅葉期に、同期入社の友人が社に滞在していたサウジの若手エンジニア2名を山中湖から箱根方面へ案内するということを耳にし、わたしがドライバー役を買って出て、途中の経路だった山荘で休憩してもらいました。外国人はじめての来荘でした。そして、おなじ年の晩秋、サウジの現場で一緒だった若い同僚夫妻をドライブに誘い、奥多摩湖から紅葉の中を大月へ下って、山荘に寄ってもらいました。まさに錦秋の中のドライブ、印象深いものがありました。翌年以降も、夏には会社の若手同僚とテニスやマージャンに興じたものです。昭和58年の夏には妻の姉妹家族が再度来宅してくれましたが、このときは2号続けての台風の影響で、義姉は大月駅で半日缶詰状態となり、妹一家は帰京途上、東名の渋滞で渋谷の自宅まで15時間要したとボヤイテいたこと、まだ生々しく覚えております。あるいは1、2落ちがあるかもしれませんが、だいたいこんなところで、以後は「まらうと(一)〜(三)」に記録として残すことができました。

箱根から立ち寄った小川さん一家

吉田の火祭りに岡野さんを招いた経緯はまったく記憶がありません。「よかったらドライブがてら吉田の火祭りでも見に来ないか」ていどのことだったと思います。そのご間もなく、わたしは子会社へ移籍するようになったため、しばらくは社の人を招くということありませんでしたが、平成3年の夏に同僚の小川さん一家を招きました。わたしが神戸の病院建設のために出向していた間、本社側でサポートをしてくれたのが彼であり、病院見学ツアーで一緒にアメリカを旅行した仲間でもあったので声をかけたのです。岡野さん、小川さんとも奥さまがたいへん喜んでくれましたが、会社関係の方に声をおかけしたのは、いずれも若い仲間か、親しくしていた同世代の友人ぐらいで、先輩とか上司にあたる方には声をかけないようにしていました。唯一の例外は、妻が結婚前からよく知っており、わたしも尊敬していた先輩Oさんで、平成3年のGWに山荘をベースに御坂峠の中腹まで車で行き、そこから三つ峠に登るお誘いをしたのです。たいへん喜んで下さり、「まらうと」にこんな文章を書いてくれています。「思いもかけないお招きに悪乗りして(中略)、三つ峠登山、頂上でいただいた三つのオニギリの味とホノカナぬくもり、三つ葉つつじのあでやかさ、この三日間は新しい想い出となるでしょう」。機智に富んだ文章で、印象に残っております。

バルコニーにて二人の佳人なにをか語らむ……

会社関係者としてはそんなところですが、台風でこりたのか、その後は身内も来なくなり、一度だけわたしの姉と弟夫妻に来てもらっただけです。じつはその昔、姉の娘が子供を連れて来荘したことがあったのですが、あいにく「まらうと」への記載がもれてしまい、それがいつ頃だったかもう記憶にありません。それはそれとして、親の活用をしり目に、いつの間にかまろうどを招くのも娘たちが主役となっていきました。彼女たちも大学を卒業する年齢となり、車の免許なども取得するようになりましたので、成長するにつれて学友たちと一緒に、あるいは仕事仲間と、そして自分たちのフィアンセを連れてくるようにもなり、やがては家族同伴で山荘生活を楽しんでくれるようになりました。

「まらうと」に残されたイラスト

彼女たちの仲間が「まらうと」に残してくれたのは、むろん山荘へ招いてくれたことへの謝意、非日常的な山荘での休日の楽しさなどを書いてくれていますが、やはり若者たちにとってはイラストが付きものとなります。上掲のイラストなどずいぶんくわしく描かれており、「絵日記と間違えてすみません」と付記されていてほほえましいものがあります。「まらうと」には来荘した日付、写真に加えて、こうした画も加わるようになり、いまでもひもとくことによって、そのときの様子がよくわかり、たいへん楽しい読み物になっており、記録だとも言えるでしょう。あらためて目を通してみると、わたしが思っていた以上に娘たちがよく利用していたことがわかります。年齢差から考えて当然のことながら、上の娘はずいぶん利用していました。それだけに、山荘に対する思いも深かったにちがいありません。できれば山荘も残して「まらうと」も(三)、(四)……、と受け継いでほしかったのですが、それができなかったこと、いまさらながら自分の甲斐性のなさに、忸怩たるものがあります。

富士桜高原祭りで花火に見入るアジス一家

本稿冒頭で、昭和56年秋に2人のアラビアの若手エンジニアに山荘に寄ってもらったこと記しましたが、ささやかな山荘でしたが、それ以降も仕事の関係もあって何人かの外国人を招きました。以下に時期と名前ぐらいを列挙しておきましょう。昭和58年(1983年)9月に顧客であったサウジのPetrokemya社のマネージャーだったMajidさん、翌年10月には同じく土建担当だったKhanさんのご家族を招きました。富士の姿を楽しみにしていたようですが、2回ともあいにくの雨で周辺のドライブだけで終ってしまい残念そうでした。昭和61年6月の新緑がまばゆい中、インドネシアの化学会社Rekayasaのエンジニア2人が私の同僚に付き添われて来荘しました。そのごインドネシアで建設工事が始まりましたが、二人はそのときの感想をよく話していたそうです。昭和63年(1988年)7月、わたしがサウジに滞在していたときに親しくしていたペトロミンJORCのSaitさん一家5人を招きましたが、さいわい天気に恵まれ、自然を満喫して帰りました。一家はそれ以前にも横浜の拙宅に招いており、妻とも顔なじみでしたので奥さん共々、心おきなく滞在できたようでした。顧客ではありませんが、わたしの社で働いていた中国人の徐君一家を誘ったのは平成6年10月のこと、たぶん、日本人の中でひとり働く彼を励まそうという意図だったのでしょう。本栖湖からの富士の姿、帰途に立ち寄った白糸の滝に感銘していました。最後の外国人は平成19年(2007年)8月来荘のウズベキスタン人アジス一家です。同国にわたしが滞在中の通訳としてたいへんお世話になったDr.Mukhamedovの娘のグルルフさん、その子のムハッバトちゃん一家3人を3日間お世話いたしました。河口湖々上祭、富士桜高原祭の花火、風穴・氷穴見学、青木ヶ原内の散策などを楽しんでもらいました。今年の2月、ドクター・ムハメドフがJICA主催のセミナーに出席のため来日した際、日本企業に働くアジス一家も加わり、東京・幡ヶ谷で夕食を共にし、旧交をあたためることができました。びっくりしたのは、富士桜高原へ来たときにはまだストローラーに乗っていたムハッバトちゃんも11歳の少女に成長しており、一家には、当時ママのお腹にいた妹のディラちゃんも加わっていました。10年という歳月はやはり長かったこと、実感しました。

山路さんご夫妻

その他、来荘いただいた方々をざっとグループ分けしますと、拙宅のご近所さん、古くからの知り合いで家族ぐるみでお付き合いしている方、そしてわたしの学友・個人的にお世話になった方、ということになります。ご近所さんとなると、大方は妻が日ごろのお付き合いしている方ということになりますが、妻の書道の先生でもあった山路さんご夫妻は2度来荘してくれました。剣道は教士の実力者、カメラもプロ並みの腕前でしたが、霧時雨の中、山荘周辺の幽玄の世界を撮った何枚かの写真を残してくれて、「まろうと」を飾ってくれています。

マージャンに興じる

家族ぐるみで古くからお付き合いをしているグループは二組あります。一組は、まだ結婚前、世田谷芦花公園団地の単身寮で親しくしていた3人組で、そのころ同じ団地に住んでいた歴史家の網野善彦先生(故人)を囲む会で指導を受けており、3人の結婚後も家族ぐるみでお付き合いをしていました(仮称「芦花公園の会」)。そのご先生は名古屋大に移られ、一旦会えなくなりましたが、のち神奈川大へもどられて、また顔を合すようになりました。そのころ山荘へご一緒にいかがかとお誘いしたのですが、先生は奥能登時国家の調査(畏友西和夫君も参加)に没頭されていて実現せず、平成4年8月に2家族には来ていただきました。もう一つの組とのお付き合いも古く、わたしが南米からもどったときに同じマンションに居住していた方々で、子供たちの学校関係でつながりのできた、いわばママ友同士の会で、「鵜の会」と称して連携がつよく、そこに夫たちも連なっているという会です。年に1〜2回は持ち回りで食事会を開き、また一緒に海外へ旅したりしていた中です。そんなお付き合いなので山荘へも何度か来ていただいております。昭和63年から平成12年にまでわたっておりますので、その間の経年の差は顕著で、あらためて「まらうと」を開いてみると興味深いものがあります。

焚火を囲んで酒量も急ピッチ

学友というのはわたしの関係ですが、そんなには声をかけていません。じつは山荘に招いたわけではないのですが、北麓の高原でゆくりなくも、大学で机を並べた友人2人に会っています。山荘を購入して間もないころ、妻と上九一色村との境界に近い樹林帯を散策していた際、家族と山登り姿で登ってくるI君に出会ったのです。教室では学籍簿が近かったため、顔だけはたがいによく知っていました。京王の別荘地に父親が購入した山荘があり、山歩きがてらそこまで歩くのだと言っていました。もう一人は、設備事務所を主宰していた彦坂満州男君(故人)で、高原に山荘を構え、そこで富士鳴沢春秋会といった、多彩な建築集団間の意見交換会的なセミナーを開き、また、建築以外にも、音楽・舞台・工芸デザインなどの専門家を結集し、鳴沢村を舞台にステージ富士実験工房と称したイベントを開催していたようです。そこへは、わたしの知る学友も何人か参加していたことを耳にしていましたが、そばに住みながら参加できなかったこと、残念に思っています。一口に学友と言っても、一番気兼ねなくつき合えるのは、いわゆる「竹馬の友」ではないでしょうか。わたしはそう思っていますが、学友で山荘に招いたのは中学の友だけでした。なかでもAは、招くというより「一緒に出掛けよう」ということで、おっくうがってほったらかしたままの雑草や枯れ木の山を、来荘のたびにたんねんに片付け・整理をしてくれ、傾いたままのTVアンテナまで直してくれたものでした。3度来てくれたうちの2回は、拙宅に近いところに住む中学の恩師もご一緒で、二人はことのほか酒好き、一度なんか、10月の初めで夜になれば寒さを感じるというのに、焚火を囲んで、下戸のわたしをさしおき、夜が更けるまで飲みつづけたものでした。そのことを、先生は「まらうと」にこんなふうに書いています。「富士吉田の肉屋へ廻って馬刺しほか焼肉用の肉を仕入れる。ベル(河口湖町のスーパーの名)へもどって酒類・野菜などを買う。庭でバーベキュー。肉も酒も美味しくて、自分は飲みすぎた」。翌朝、先生は「昨夜はどのように寝たのか覚えていない」とおっしゃるのですが、体の大きな先生をどのように寝かしつけたのか、いまとなってはわたしも記憶は定かではありません。

総婦長さんとのツー・ショット

さいごに、わたしがたいへんお世話になった方のことを書いて締め括ります。以前書いたことがありますが、わたしは足かけ3年以上にわたって神戸で病院の基本計画から設計施工の管理(監理ではなく)をしました。プラント建設から病院という、まったく畑違いの分野で、正直なところ、ずいぶん戸惑いました。なんとか成し遂げられたのは、建設のPMであった松浦先生(故人 当時病院副院長)と総婦長さんのご指導があったればこそ、だと思っています。とくに総婦長さんは病院内の専門的な知識のみならず、わたしのために病院内の潤滑油的な役割を担っていただき、たいへん助けられた思いでいます。病院完成後も、なにかと連絡を取り合っていましたが、平成6年の晩秋にようやく山荘へお招きすることができました。関西育ちの方にとって、富士を間近に望むなんてこと、おそらくめったにないことで、総婦長さん、それは喜んでくださいました。妻ともわたしの神戸滞在中に一度お会いしたことがあったもので、すぐに打ち解けていただき、ある意味、別世界にいるようなお気持ちになられたようです。「窓を開ければ白樺の木が手に届くようなところにあるなんて、なんてロマンチックな光景でしょうか」、そんな言葉を「まらうと」に残してくれました。ささやかでしたが、多少はお礼の気持ちをお返しできたかな、そんな気持ちでいます。山荘を手放したあとの今年の正月、奈良県にお住いの、甥だと称される方から、昨年5月に総婦長さんがお亡くなりになったこと、寒中見舞いで連絡してくださいました。そこには「さいごまで凛として逝きました」、と書いてありました。「あの総婦長さんならさもありなん」、わたしはあらためて感謝の気持ちをこめてご冥福をいのりました。合掌

    

(2017年3月)

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