書籍受難の時代

泉靖一著作集

1月末日の寒い日、わたしは横浜六角橋の神奈川大学へ大学時代の畏友西和夫さん(同学名誉教授)を訪ねました。彼の紹介で、同学内の「日本常民文化研究所」へ寄贈することになった『泉靖一著作集』(全7巻)を届けるためでした。この本の整理で、昨年来考えていた整理のうち、第一段階はおわり、せまい部屋の書棚にも多少のスペースができました。気持ちの上でも、何かスッキリしたような気分になり、大学から横浜駅へもどるバスの中ではルンルン気分でした。気分がよくなったついでだ、わたしの足は、「スクリーンで観る高座『落語研究会 昭和の名人』」が上映されていた桜木町駅前のシネコン「横浜ブルグ13」へ向かいました。
わたしが、じぶんの蔵書の整理を具体的に考え始めたのは、昨年の春先からでした。蔵書の中で、読みもしないくせに最も大切に思い、これだけはどなたか必要に思ってくださる方に引き取っていただきたかったのは『吉阪隆正集』(全17巻)で、これは関東学院大学へ寄贈したことはすでに書きました(2011年5月号 参考)。その他にも、残しておいては家族の負担になると思われる全集類がありました。当初、わたしは「これだけの本だ。古本屋へ持ち込めば、多少なりと小遣いぐらいにはなるだろう」という軽い思いでいました。その考えの甘かったことは、すぐに思い知らされました。秋に入ってから、処分予定の書籍のリストを作成し、横浜伊勢佐木町界隈の3、4軒の古本屋をまわってみました。すべての本とは言わないまでも、「これと、これは見せてくれませんか」ぐらいの声はかかると思っていましたが、まるで同じ脚本の中のセリフを読んでいるかのように、答えはおもしろいほど一致していました。「なまじ全巻そろったような全集は買い手がつかないし、ここに出ているような本は、書棚に並べても売れないのですよ。なにしろ活字離れの時代ですから。むしろ、1冊単位のほうがいいし、表に出てきそうもない稀覯本的なもの、あるいは昔の絵葉書やパンフなどの方がおもしろいですね」。だいたいこんな内容でした。それでも古本屋などは商売柄、書物の価値を知っています。あるていど尊重する気持ちのあることは感じられ、彼らも商売をしているのだからと、こちらとしても引き下がらざるを得ない面があります。ところが最近はやっているTUTAYAとか BOOKOFFといった店では、引き取り担当の窓口へ行っても、担当者はたいてい若い女性、リストを見ても、本の題名からはその本の価値まで理解することはできず、ただ機械的に店で定めたマニュアルにしたがっての対応がなされるだけでした。
「当店で引き取るのは、汚れや傷みのない、中に書き込みのない本だけです。持って来ていただければ、1冊最高で100円で引き取らせていただきます」
「冗談じゃない、この本1冊3700円もする本だよ」
「店の定めですから。それに、そのような高額の本は、店頭に置いても売れないでしょうから、たぶん、引き取れないと思います」
だいたいこのような調子で、それ以上の問答をしても、詮無いことでした。さらに付け加えるなら、引き取るか否かの査定のために本を送る場合は、梱包費・送料とも自己負担、いちおう査定額が決まり、発送者が同意すれば金額が振り込まれ、査定の結果、引き取れないということになれば、本の処分は店側が行うか、希望すれば送料着払いで送り返す、といった条件のようです。他人から聞いたところでは、30冊以上まとまれば、店側が引き取りにくるそうですが、むろん、買い取ると決まったわけではないようです。そんな話を聞きますと、まるで店側の一方的な市場で、これでは、まさに「書籍受難の時代」だ、と言わざるを得ないようです。横浜市内の数店にあたっただけで、古本のメッカ、東京の神保町(2011年4月号 参考)へ出かけて交渉したわけではありませんが、たぶん大きな差はないと判断し、わたしは、古本屋に引き取らせることは断念しました。さて、どうするか。クリアロープで括ったいくつかの本の束は、せまい部屋の片隅で、「はやく何とかしてよ!」と呻吟していました。

大東文化大学寄贈本一覧

昨年末から今年にかけて、結局、本の束は何回かに分けられ、姿を消していきました。もともと処分を考えていたわけではないのですが、わたしの手にあまる書物だった南都大安寺関連の史料は、同寺が刊行した図書の縁で知った大東文化大学の藏中しのぶ先生が引き取ってくださいました(トピック 2011年12月号 参考)。学術関係ではない全集、『高松宮日記』(全7巻)、『同時代ノンフィクション選集』(柳田邦男編12巻 文藝春秋社刊)は、大学・研究機関といったアカデミックな施設でない方がよいだろうということで、地元の磯子図書館へ寄贈しました。図書館の女性司書の方は、「こんなきれいな本を」と恐縮していましたが、わたしにしてみれば、「せっかくの本をお読みなさらなかったのですね」、と皮肉られたようで、内心はずかしい思いでした。宮の日記は野毛にある横浜中央図書館、ノンフィクション選集は、たぶん、磯子に置かれるのだと思います。その他では、執筆の関係で必要だった企業の社史が何冊かあったのですが、こちらは躊躇することなしに、神奈川県立川崎図書館へ持っていきました。この図書館は「科学と産業の情報ライブラリー」と名乗るっているほどですから、社史専門のコーナ−、それも1フロア全部の書棚にその関係の本がぎっしりと並べられていたことを知っていたからです。わたしが持っていたような社史は、すでに書棚に納まっているようでしたが、図書館側は、丁重に引き取ってくれました。本が傷んだ際のスペア用、あるいは他の図書館から希望の寄せられることもあるので、ということでした。総じて、公立の図書館は、さすがに本の価値を知っており、丁重に取り扱ってくれた点はうれしいことでした。

『泉靖一著作集』を日本常民文化研究所(以下、常民研と略称す)が引き取ってくれることになった、という連絡を西さんから受けたとき、わたしはびっくりもし、嬉しくもありました。以前トピックに書いたことのある網野善彦先生(トピック 2009年10月号 参照 )のお導きか、と思いました。なぜなら、常民研は網野先生と深い関わりがあったからです。同研究所は大正10年(1921年)に渋澤敬三らによって発足した、民衆の生活・文化・歴史を調査分析する研究センター(のち昭和17年に正式に常民研と改称)ですが、昭和25年に東大の国史学科を卒業された先生の最初の勤め先が常民研月島分室だったのです。その後、常民研を神奈川大学へ招致するという構想を具体化するために、先生は昭和55年(1980年)に名古屋大学の職を辞して神奈川大学に移られ、以来、一貫して常民研に活動の根を下ろしました。常民研は、「網野史学」を打ち立てられた先生にとって、学問形成の軌跡の場だった、といえるのだと思います。また、紹介してくれた西さんも、常民研との関係は深いのです。彼は、日本建築史の専攻ですが、歴史・民俗学・美術史などの専門家との学際的な交流を続け、日本建築学会賞や小泉八雲賞などを受賞した泰斗です。神奈川大学が常民研を招致する際の招致委員の一人で、招致に必ずしも賛成でなかった工学部の代表として、教授会を招致賛成の意見にまとめた功労者だったのです。その後、常民研所員を兼務し、奥能登時国家や瀬戸内海二神島などの調査研究では網野先生と行動を共にしており、両氏を知るわたしとしては、この点でも因縁の深さを感じています。いずれにしても、文化人類学者泉靖一先生の著作集が常民研に引き取られ、そこの書棚に並べられることになったこと、泉下の泉先生も、「ふがいないお前さんの手元に置いておかれるよりはいいな」、とお許しくださると思っています。

(注記)網野先生、西さんとも著作は多いのですが、その中で現在書店で入手でき、内容が分かり易く、読んでおもしろい本を それぞれ1冊だけ紹介しておきます;
網野善彦著『日本の歴史をよみなおす』
(ちくま学芸文庫)
本年1月から2月にかけて書店に平積みされ、「いま、いちばんホットな日本史」とか、「若者を中心に爆発的なベスト セラー」などと書店に掲示されていました。
西 和夫著『二畳で豊かに住む』(集英社新書)
むかし「狭いながらも楽しい我が家」、という浅草オペレッタの歌がありましたが、西さんも、家で大切なのは「心の豊かさ」と訴えています。とにかく面白い本です。

(2012年3月)

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