わたしの文章修業

いまでこそ毎月のようにウエブサイトに文章を書くぐらいですから、書くことは決して嫌いではないのですが、じつは高校生の頃までは、文章を書くことが大の苦手でした。文集などに自分の文章が載ったことなどありませんし、第一、投稿したことすらありません。それでも、作文に関してたった一度だけ、忘れられない思い出があります。中学2年のとき提出した作文に対して、「すばらしい!」と、大きく朱記されて返却されたのです。学制が新制に変わってまだ日が浅く、教員不足のため校長先生が代理で国語を教えてくれていた時のことです。そんなことは初めての経験でしたから、あまりの嬉しさに興奮したことを鮮明に覚えています。教科書に載っていた、何か絵に関する文章に対して感想文を書かされたのですが、自分が評論家にでもなった気分で大上段に構え、滔々(とうとう)と論陣をはった(?)のです。むろん幼稚なことを書き連ねたのでしょうが、あいにく手元には何も残っておらず、かんじんな内容のほうは、まったく覚えていないのです。いま思えば、たいへん残念な気がしています。もっともこのことが、わたしが作文に目覚めるきっかけになったというわけではありません。
目覚めるきっかけは、その後に2度ありました。1度は大学での授業で、そして、わたしが最初の本『サウジアラビアおもてうら』をジェトロから出版することになったきっかけそのことが、まさに2度目のきっかけでした。大学での一般教養の人文科学系列では、大学の名物授業だった中谷博教授の「文学論」と、もう1科目は「論理学」を選択しました。理工系に進む人間にとって、論理構築に欠かせない学問だと考えたからです。しかし期末試験では、開始のベルが鳴り終わって間もなく、名前だけを記入して白紙答案を提出し、そのまま退出しました。2、3題あった設問にまったく対応ができなかったのです。授業に出席はしたものの、講義内容があまりにも無味乾燥だったため、担当教授の話をろくに聴かずに、当時「ニへロク」の名で著名だった仁戸田六三郎教授の著書『論理学入門』(弘文堂アテネ文庫)ばかりを読んでいたのです。ニへロクさんは当時としては珍しくTVにも登場する名物教授でしたが、この書は論理学をほんとうに面白く説いた好著でした。試験にはこのような論理的(?)な出題がなされるに違いない、と自分なりに勝手に決め付けていたのですが、試験での出題は、どちらかといえば数理あるいは記号論理学的な問題ばかりで、まったく手が付けられなかったのです。白紙の答案では単位はもらえず、翌年もう一度受講しなければならなかったのですが、それほどのショックはありませんでした。何といっても、ニへロクさんの書を読む機会が得られ、それに結果論ですが、翌年、改めて選択した辻村敏樹講師の「日本語表現法」の講義を受けられたことが、わたしにとってはめっけ物だったからです。このときの講義受講が、わたしの日本語表現の目を最初に開いてくれた、と言ってもよいでしょう。
辻村先生(故人)は当時40歳に届くかどうかの少壮の国語学者、早稲田高等学院の教諭のかたわら、理工学部で「日本語表現法」の講座を持っていました。のちに文学部教授として日本語教育の第一人者となられましたが、まだお若かった先生は、理工学部の学生相手の一般教育だからおざなりにする、といった姿勢はまったく見られず、講義の内容は真剣そのものでした。あいにく先生の講義ノートは手元に残っていないのですが、いまでも鮮明に覚えているのは、「日本語の特徴は、他国語と異なり、主語、述語をはっきりさせないことが多いことだ。話し言葉なら、相手の表情、あるいは話題の内容などによってカバーすることが可能であるが、文章上は、主語、述語の関係をはっきりさせないと、文意が通らず、場合によっては文意を逆にとられることすらある」、という教えです。何気ないことですが、いまでも文章を書く場合、この点にはじゅうぶん注意するようにしています。他の記憶はあまり定かではありませんが、1年を通しての先生の講義で、「日本語表現法」という講座名そのままに、日本語を上手に表現する方法(そんなうまい方法はないでしょう)こそ教えられませんでしたが、日本語を表現することが嫌いではなくなったことは事実であり、大きな収穫を得たと思っています。

桑原武夫『文章作法』

そのことがきっかけで、文章を書くことが苦でなくなり、むしろ文章に興味を抱くようになりました。ずいぶん多くのハウツーものの書物を購入し、目を通しました。いま手元にあるその種の本を発行年代順に書き上げてみます;
・清水幾太郎『論文の書き方』岩波新書刊 1959
・奥山 益朗『原稿作法』東京堂出版刊 1960
・扇谷 正造『現代文の書き方』講談社現代新書刊 1965
・樺島 忠夫『文章工学』三省堂刊 1967
・桑原 武夫『文章作法』潮出版社刊 1980
・本多 勝一『日本語の作文技術』朝日新聞社刊 1982
・信濃 和男『文章の書き方』岩波新書刊 1994
・大野 晋 『日本語練習帳』岩波新書刊 1999
いずれも、その道の識者の書であり、有意義なことが書いてあったに違いありませんが、奥山と桑原の書を除いて、正直なところ、ほとんど頭には残っていません。お二人の書については、たいへん勉強になった記憶があります。奥山は本の奥付によれば、出版当時は朝日の出版校閲部長、まさにプロ中のプロですから、原稿を書く上での作法が分かり易く書かれた好著です。たぶん現在は絶版になっているかも知れませんが、入手可能なら興味のある方にはおすすめです。文中とくに興味を引いたのは、原稿(文章)の構成を音楽でいう4楽章の「ソナタ形式」になぞらえ、それと文章の「起承転結」とを関連付け、文章の基本だとしている点です。わたしは、いまでもこのことを頭において文章を書く上での基本姿勢にしています。桑原武夫先生については、あらためて紹介するまでもないと思いますが、フランス文学者で、いわゆる「京都学派」の中心的な方であり、1987年の文化勲章受章者でもあります。先生に対して、かつて司馬遼太郎は「日本一の文章家」だと評していましたから、日本一かどうかはともかく、たいへんな文章家なのだと思います。『文章作法』は、先生が主宰していた文章教室の参加者の作文を添削・講評した内容を刊行したものです。わたしは、この本から、句読点、とくに読み点(、)の打ち方ひとつにしても疎(おろそ)かにできないことを学びました。と同時に、「文章はできるだけ簡潔明瞭に、達意の文章を、そして可能なかぎり論理的に」、という先生の教えが、それこそ簡潔明瞭に書かれています。この本も絶対におすすめです。

社会人になり、海外の現場に出張するようになったとき、わたしはこんなことを考えました。「出張が2年という長期におよぶとき、ただ海外へ行き、そして帰ってきたというだけでは、あまりにも失うものが大きいのではないか。せめて、その国の歴史、社会情勢や国民のことを学んでおき、それに自分の実経験を加えることで、いつか文章にまとめ、出版のチャンスをつかみたい」と。とはいえ、現場での生活はあわただしいものがあり、生活環境もきびしいので、自由時間がそうあるものではありません。たとえ時間ができたとしても、家族への手紙すら思うように書けなかったのですから、文章を書きためるなんてことは出来ようはずもありませんでした。せいぜい、資料を集めておくのが精一杯でした。それでも南米エクアドルから帰ってからいくつかの文章をまとめはしましたが、残念ながら日の目を見ることなく、いまだに書棚にねています(*1)。サウジアラビアについては、南米と異なり英字の新聞・雑誌が入手可能であり、それに書籍類を含めれば、2年の間に結構資料が集まっていましたので、1980年の夏に帰国してすぐに執筆に取りかかりました。むろん会社での勤務は平常通りであり、この時期、とくに海外への出張の多いときでしたので、二束のわらじを履くということはつらい面がありましたが、なんとか1年ぐらいでまとめることができました。そこまではよかったのですが、さて、それをどこへ持ち込むかが難儀なことでした。取りあえず日経の編集担当者に1週間ほど預けたのですが、結果はノーでした。その理由は、「内容がおとなしすぎる。もっと読者を沸き立たせるような、たとえばサウジの王室がゆらいでいるというような内容にならないか」、ということでした。サウジに主要な顧客を持つ企業に勤める立場からいえば、そのようなことはできませんし、したとしても社内審査には通らないでしょう。とは申せ、せっかく書いた原稿を、みすみすお蔵入りにはさせたくありませんでした。窮地を救ってくれたのは、畏友石井一生君、そして社内的には、再度の申請に対して発足した審査委員会のメンバーでした。審査の結果は、多少のコメント付ではありましたが、出版O.K.、それも、むしろ出版すべきだという積極的な意見でした。わたしは、今でもメンバーの方たちには感謝しております。石井一生君(以下、敬愛の念を込めて「兄」と略称する)とは中学時代から親しくしており、高校こそ異なりましたが、同じ大学の第一政経済学部を一緒に卒業し、いまなお江戸探訪の仲間です。卒業と同時にジェトロに入り、2年後には、先輩との共著でしたが『共産圏貿易入門』(ぺりかん新書)を出版した俊才でした。中学の仲間で出していた同人誌『棕櫚』(20号まで発刊、還暦記念号をもって廃刊)の中でも、彼の文章は際立っており、その文才はわたしのあこがれでした。窮地を救ってくれたというのは、わたしの原稿がボツになりそうだった時期に、彼はジェトロの出版部長をしており、「俺に預けろ。目を通してみて、良ければ俺のところから出してやる」、と言ってくれたのです。「渡りに船」とは、このようなことを指すのでしょう。わたしは、「救われた!」の思いで原稿を彼に預けました。それから約1年、ほとんど梨(なし)の礫、たまに会った時でも、原稿のことについては口にしないのです。わたしは、焦る心がつのりました。

彼から、「読んでおいたよ」と訂正された原稿がもどされたのは1982年の夏ごろでした。彼はくわしくは話しませんでしたが、わたしの原稿はそのままでは出版できるレベルではなく、活字に耐えうる文章にするために丁寧に読み込んで、訂正してくれたのだと思います。そのことは、一読しただけでわかりました。したがって、その通りに原稿を直すことは容易なことでしたが、わたしはそれだけで満足するわけにいかず、自分でもう一度精読し(あるいは推敲し、というべきか)、訂正された理由がどこにあるのかを自分なりに理解し、その点を書き出していきました。その結果、手前味噌かもしれませんが、本にできる文章とできない文章との差が、はっきりとわかるようになったのです。その差とは、むろんいろいろあったのですが、一例をあげますと、彼に渡す前の原稿は、くどくどとした「重ね表現」が多く見られた点、そして長い文章が多かった点だと申せます。重ね表現が多いと、必然的に文章がくどくなり、論旨が通りにくくなってしまいます。場合によっては、相反する表現が出てしまうこともあります。そうしたことを避けるためには、文章はできるだけ短文で達意の文章がのぞましい、ということになるのでしょう。いずれにしても、兄の訂正原稿(いまでも製本して大切に保存している)は、わたしにとっていわば文章作成上のバイブルともいえるものです。辻村先生によって日本語の文章にめざめ、兄によって文章作成のコツを仕込まれたわけで、二人は、いわば、わたしの文章修業上の恩師だと思っています。
いまでも、月々のニュースレター、トピック、江戸探訪の資料・実施記録づくりなど、文章づくりはつづいております。とうぜんのこと、二人の恩師の教えは活かされていますが、文章づくりは難しく、いまだに思うに任せないことを痛感しております。最近、わたしなりに特に心がけている点がいくつかありますので、ご参考までにその点を書き上げてみます;
1)達意の(できるかぎり分かりやすい)文章を心がける。
2)漢字・ひら仮名表記に迷ったときは、可能なかぎり平仮名表記とし、漢字は、固有名詞や漢字でなければ意味が通じにくい場合などにとどめる。
3)読みやすく、リズミカルな文章にするために、接続詞を効果的に使用する。
4)文法、とくに品詞の活用形にじゅうぶん注意する。
5)推敲に推敲をかさねる。
だいたいこんなところですが、2)については、「白い文(平がな表記の多い文)」、「黒い文(漢字の多い文で全体が黒く見える)」に偏らぬようにも配慮しています。その結果、同じ文中で同じ用語でも、漢字とひら仮名表記とを混在させることもあります。また、4)についてですが、ひとたび活字になった場合、文法上の誤りを指摘されることは恥ずかしいことであり、国語の専門家でないわたしにとっては、この点がもっとも腐心するところです。石井兄同様、中学以来の畏友であり、棕櫚の同人でもあった故長尾高明君(国語学 宇都宮大学名誉教授)も、いわばわたしの師であり、疑問点などよく電話で教えてもらったものです。そして、新しい著作が出る都度、教師に作文を提出する生徒のように、おそるおそる謹呈したものでした。温和な彼は、わたしの文章に対して特段のコメントをしませんでしたが、わたしとしては、むしろもっといろいろ指摘を受けたかったな、の思いでいます。今となってはそれも空しく、彼の著、たとえば『敬語の常識』(渓水社刊)などを折りにふれてひもとき、自省していている次第です。

(注記)*1:南米エクアドルから帰国して間もなく、『アスタ・マニャーナ気質』と『エスメラルダス滞在記』という2文をまとめたが、出版の機会がなく本棚にねている。それでも、(財)海外職業訓練協会から『海外事情―海外での業務体験を通じてー』(シリーズ1 エクアドル編)の執筆を依頼された際には、役立てたものである。

(2012年2月)

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