南米の水かけ祭り

「黒いオルフェ」ジャケット

学生時代に観た映画『黒いオルフェ』はいまでも鮮烈な印象が残っています。とはいっても、出演した俳優さん、ストーリー、その他もろもろ、ほとんど覚えていません。ただ、ギリシャ神話のオルフェとユーリデスとの愛の物語を現代化した話しであり、その現代化されたストーリーをブラジルのリオ・デ・ジャネイロのカーニバルを舞台に展開していたことだけは覚えています。ギリシャ神話ということだけで、話しの背景は分りませんでしたが、リオのカーニバルを舞台にした鮮烈な色彩と、 映画化される頃にリオの白人層の間で広まり始めたというボサ・ノヴァが、すでに黒人層の間で人気だったサンバのリズムの中に取り入れられたサウンド・トラック「カーニバルの朝(黒いオルフェ)」の躍動感、そして爽快感がつよく心に残っています。
クリスチャンでないわたしには、カーニバル(謝肉祭)の定かな意味合いはよくわかりません。十字架にかけられたイエス・キリストが死後3日目に復活したことを記念する祭典が復活祭(イースター)で、その前日までの40日間を四旬節と称 し、断食や懺悔(ざんげ)など禁欲的な生活を送らなければいけないのだそうです。そこで、四旬節に入る前(2月中旬から下旬頃)の1週間ほど、春の到来を祝い、豊穣・多産を祈るためのお祭りをカーニバルというのではないでしょうか。カーニバルでは、人前で顔を隠したり、道化、滑稽な振る舞い、派手な衣装で踊りまくるなど、「どんちゃん騒ぎ」が許されるようで、中でも有名なのが、イタリア・ヴェネツィアの仮面舞踏会とリオのカーニバルなのでしょう。根が単純なわたしは、南米へ行きさえすれば、リオほどではないにせよ、大なり小なりにぎやかなお祭りを見られるものと思っていました。その南米に長期滞在することになったときには、これで南米のカーニバルが見られると、心ワクワクさせたものでした。

ピエトロ・ロンギ「ヴェネツィア仮面舞踏会」

南米で長期滞在したのは赤道直下のエクアドル、いかにもカーニバルふさわしい国だと思いました。最初に訪れたのは1974年8月、首都のキトでした。そこから北西330キロ、アンデスを下った太平洋岸の港町エスメラルダスに製油所を建設するための準備作業のためで、キトに滞在中、地元の人にカーニバルのことを聞いて回りました。その結果、がっかりしたのは、カーニバルと言っても、リオは例外で、南米の場合、多くは「水かけ祭り」で、集まった群衆の間で、無礼講的に水を掛け合うだけのことのようでした。「な〜んだ」の思いがしましたが、それでも、一度は見なければの思いはなくしてはいませんでした。その年の年末に、いったん帰国し、カーニバルの季節に合わせて2月に改めて現場へ赴任しました。自分では合わせたつもりでしたが、その当時、日本からエスメラルダスまでは、そう簡単には行けませんでした。当時の手帳には羽田を出てからペルー・リマ経由でエスメに到着まで60時間だったと記録されています。荷物の数も多く、キトでチャーターしたオンボロ・トラックでのわずか330キロのアンデス下りだけでも9時間40分もかかりました。山中の崖道では、はるか下を流れるエスメ河を望みながら胆を冷やし、到着したときにはもうぐったりで、それでも到着してすぐに「水かけ祭り」のことを聞いてみましたが、もう済んでしまったとのことでした。イースターの日取りは、「春分のあとの満月直後の日曜日」だそうで、年によっての変動が生じるようです。イスラム圏での断食期(ラマダン)と同じですね。そんなわけで、「水かけ祭り」との遭遇は1986年2月になってしまいました。その「水かけ祭り」、聞いていたとおり、ただ水をかけ合うだけの何の変哲もないつまらないものでした。つまらないどころか、様子が分からないよそ者にとっては、全身ずぶ濡れにされてしまう迷惑そのものの祭りだったと言えるでしょう。前にも書きましたが、カーニバルとは「どんちゃん騒ぎ」、いわば無礼講が許される祭りです。相手かまわず水をかけ合うというのは、時と場合によっては迷惑この上ない行為です。日本でも阿波踊りなどで「踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿呆なら踊らな損々」と唄われていますが、だからといって、迷惑ならその場へ行かなければいい、と言ってしまえばそれまでのことで、祭りを見るだけの楽しみもあってもいいのではないでしょうか。わたしは、南米の水かけ祭り、好きではありません。幻滅を感じたと言いたいぐらいです。

エスメラルダスでの宿舎外観

じつは、「水かけ祭り」に関しては、わたしは一つの逸話を残しています。ずいぶん昔の話で、わたし自身忘れていたのですが、何年か前に、エスメラルダスの現場で長く勤務した仲間数人との顔合わせがあり、たまたま水かけ祭りが話題にあがり、その中の1人の男がその逸話を持ち出したのです。耳にしたわたしは、「ああ、そんなこともあったけ!」と思い出し、つまらない話だと軽く流すつもりでいたところ、まわりにいた仲間の大方が、「そうだ、あった!あった!」と言い出し、「あの時の石井の形相はすごかった!」、と妙に場を盛り上げてしまったのです。事の経緯はこうでした。祭りの当日エスメの街中で、地元民だけがはしゃいでいた水かけ祭りをしばらくの間見ていたのですが、面白くもないし、それにきれいでもない水をかなりかけられて、赤道直下とはいえ陽の沈んだ後は寒気も感じるようになったため、早々に宿舎へ引き揚げ、マージャンの卓を囲み始めたのです。それが佳境にさしかかった頃、ひとりの男が卓に近づき、「カルナバルおめでとう」とでも言ったのでしょうか、いきなり洗面器の水をかけて逃げ出したのです。一瞬何が起こったのかわかりませんでしたが、気付けば卓上は水浸しで、並んでいたパイはめちゃめちゃの状態になっていました。頭にきたわたしは、投げ出されていた洗面器を手にとるや、逃げた男のあとを追いました。定かには、というよりはほとんど覚えていませんが、「誰だ水を撒いたのは!」とでも叫んでいたのでしょう。しばらく追いかけたあげく、水をかけた張本人を追い詰め、洗面器に水を張って思いきりぶちまけていました。さきほど述べたように、このこと、わたし自身はほとんど忘れていたのですが、他人がよく覚えていたということは、やはり強烈な印象を与えてしまったのでしょう。すでに30歳台後半になっていた者としては、若気の至りでは済まされないでしょう。恥ずかしい思いでいます。べつに言い訳をする気はありませんが、わたしがそのような行動をとったことには、いくつかの深層心理が働いていました。第1には、期待していたカーニバルが、ただ水をかけ合って楽しむだけの祭りに過ぎなかったという不満。そして、いくら無礼講とはいえ、日本人までが同調して同じ行為に走ったことへの怒りでした。第2は、じつは祭り見物には、まだ乳飲み子に近かった赤ちゃんを抱いた社の同僚夫妻と同行していたのですが、その赤ちゃんにまで、地元男の子たちが水をかけたことへの怒りです。最後の心理は、書くのも恥ずかしいのですが、その騒ぎのとき、マージャンのわたしの手は、すごく高い手を「テンパって」(ビンゴ遊びのリーチのこと)いたのでした。「なんだ、それだから頭に来たんじゃないか!」と言われそうですが、それはそれとしても、わたしは南米の「水かけ祭り」、どうしても好きになれないでいます。

リオのカーニバル

皆さんよくご存知のリオと並んで、南米ではボリビア・オルロ(首都ラパスの南約150キロ)のカーニバルも有名で、ペル−・クスコのインティ・ライミ(太陽の祭り)とともに南米の3大祭りと称されているようです。オルロの場合、先住民族の信仰とキリスト教の聖母マリア信仰とが結びつき、スペイン人を悪魔に見立てての祭りですから、まさにカーニバルと言えるでしょう。その華やかさは、リオに匹敵するとまではいかないようですが、準ずると言えるのでしょう。ただし、リオの場合は水かけを伴わないようですが、オルロの方は給水車までが出動する盛大な水かけが伴うようです。カーニバルと水がどう係わるのか、わたしには定かなことはわかりませんが、聖(?)なる水は受胎に伴いますし、水は身を清めてくれるものです。それにコスト面でもさほどかからず、南米の貧困な民衆がどんちゃん騒ぎするには打ってつけの祭りの資源だと言えるでしょう。また一方で、祭りに興奮する民衆を水で冷やす意味もあるのかも知れません。そう考えますと、地元の人がそれで喜べるのなら、外国人のわたしが好きになれなくても、それはそれでいいじゃないか、と思うべきなのでしょう。しかし、しつこいようですが、それにしてもつまらない祭りだな、の思いはいまなおつよくしています。
(注記1)ピエトロ・ロンギは18世紀・ヴェネツィアの画家
(注記2)建設工事中に使用したエスメラルダスでの宿舎。建設工事完了後に客先に引き渡された。

   

(2016年02月)

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