石井正紀


	手づくりのコンサートコンサートのポスター 1．はじめに令和2年（2020年）も12月になりましたが、この年は、誰にとっても生涯忘れがたい年となるのではないでしょうか。いつものように、安寧な年となることを念じつつ新年を迎えましたが、2月になると新型コロナウイルスの風評が出始め、3月になると、外出を自粛するような注意が発出され、友人・知人からの注意を促すメールも頻繁に入るようになりました。わたしの住むマンションはかなり高齢化が進んでおり、自粛要請の影響をつよく受けるようになりました。はじめのうちはさほど気にかからなかったのですが、そのうちに日中でも人の出入りの少ないことが気にかかるようになり、日の落ちた後など、館内はシーンとして気味のわるさすら感じるようになりました。そうこうするうちに、ふだんよく見かけ、話かけるような人などの姿すら何ヶ月かのオーダーで見掛けないようになったのです。近隣の自治会関連の活動も文字通り自粛し、当マンション内の自治会・役員会も4月、5月と休会となりました。コンサート演奏風景２．手づくりのコンサート役員会の再開は6月も後半になってからでした。年度が変わったばかりでメンバーの半分が入れ替わって2度目の会だったため、上程されていたテーマは多かったのですが、主たる討議は、それでなくても部屋に引きごもりがちになりやすい高齢者を、コロナ禍のもとでどう癒やせばよいのかに集中しました。昨年までは何回か「餅つき大会」を催しており、老若男女にひろく好評でした。当初は、今年のレクリエーションも同じ催しをと考えていましたが、さすが「密」を避けねばならない情勢下、それはまずかろうとやめることがすぐ決まりました。ではその代わりに何が考えられるのか。何もせずに済ますことは簡単ですが、それではあまりにも芸がない。会は沈黙し、座は白けそうになりました。座の空気を読んでいたのか、「クラシックのコンサートなんかどうでしょうか」、と声を出した方がいました。自治会の役員をされているKさんでした。瞬間、不気味な沈黙が流れました。「えつ！クラシック・コンサート？」、わたしはびっくりしました。「なんてとてつもないことを言い出すのだろう」、わたしはドギモを抜かれました。わたしもクラシックは大好きですが、頭の片隅のどこにもコンサートなどという発想は存在していませんでした。しかしつぎの瞬間、コロナ禍の中、イタリア北部のクレモナ（名器ストラディバリウスの発生地）の病院屋上で、医療従事者を癒すためにヴァイオリンを演奏した日本人女性音楽家の赤いドレス姿の感動的な映像が頭の中をよぎり、「クラシック・コンサート！いいじゃないですか」、思わず口走ってしまいました。そのようなことができるのかどうか、そんなこととは関係なく、口から出てしまったのです。出席されていた大方はわたしと同じ気持ちだったような気がします。コンサート・プログラム暗黙のうちにコンサートでいこうという線で会の意見は統一されたようでした。そうなると不思議なもので、出席していたメンバーからいろいろな意見がとびかうようになったのです。「マンション１階の洋装店のお嬢さんはヴァイオリニストじゃない」とだれかが言えば、「そうそう、以前、夏祭に来てくれたじゃない」と返す人もいます。別の若い方で、「わたしの行きつけの楽器店の店主ならジャズバンドの紹介をしてくれるかもしれない」、と言う人まで出てきました。自治会・役員会は手づくりのコンサートにベクトルが完全に向いたのです。その日のうちに、クラシックとジャズ双方のコンサートをすること、推進役は自治会行事推進役のOさんとする、という2点が即決したのです。ちなみに、まったく偶然ですがOさんの奥さまも、音楽関係の方と、すっかり因縁めいていました。それからというもの、コンサートの準備は懸河（けんが）の勢いで進みました。コロナ禍の中、音楽家の方々はコンサートなどがなくなっており、こちらの申し出を快く受け入れてくれたようです。出演して下さるのは、クラシックが当マンションと些少の縁のある藤平さんのアップルトリオ。ジャズは同じく当マンション住人の知り合い楽器店ご紹介のフルート奏者小川さんのグループと決まり、開催日は好天に恵まれることの多い11月3日（祝日）14時開演と定まりました。開演の時間などを決める上では、当然Oさんの奥さまの専門家としてのご意見を尊重しました。日取り、出演者が決まれば、つぎはポスター・プログラムづくりです。そこでわたしは、またまたドギモを抜かれました。プロがご出演のポスターづくり、まさか学園祭で生徒がつくるポスター並みというわけにはいかないでしょう。つい、やはりポスターもプロの手によるか？と安易に考えていました。場合によっては、在米中の娘（デジタルアーティスト）に泣きつこうかとも思いつつ、Oさんに相談したところ、「いや、Kさんに相談したところ、もう出来上がったようです」と、なんともきれいにカラー刷りされたポスターを見せてくれるではありませんか。びっくりしました。Kさんがパソコン関係の技術者だということまでは漠然と存じていましたが、ポスターのデザイン・色使いのすばらしさ、「おぬし何者？」、ついKさんにそれとなく聞いてみました。Kさん曰く、じつは若い頃は演劇青年だったそうで、演技だけではなく、舞台装置・美術・照明など多彩な活動をなさっていたとのことで、ポスターづくりなどにも造詣がふかかったようです。なるほどと、納得した次第。出来上がったポスターは、出演される方全員にお配りしましたが、彼らからもたいへん喜ばれたようでした。ポスターに記されたコンサートの名称は、Famille with「憩い」Concertでした。フランス語、英語、そして日本語の混じった奇抜な命名ですが、フランス語はマンションについた固有名詞なのでお許しいただくとして、そこに敢えて「憩い」という日本語を挿入したのには、コロナ禍で長期にわたって自粛している居住者に対しての慰め、また、コロナ禍で思うままに活動のできない状況におかれている演奏家の皆さんに対する心ばかりの慰めを、この「憩い」の文字に表したようです。むろん、しがないマンションへお出でいただき、楽しい音楽を聴かせてくださる演奏家の皆さんへのつよい感謝の気持ちも込めています。クラシックメンバーのヴァイオリンデュオ３．コンサート当日コンサートの当日、夜来の雨は9時には上がって、「文化の日は晴れる」と称されるとおり、時間の経過とともに青空が広がっていきました。さっそく会場づくりです。さほどの手間はかかるまいと、11時から始める予定でしたが、器材搬入を伴うPA（音響管理師）さんたちはそれ以前に到着していました。マンションは北側が市内の幹線道路の一つ、交通量の大きい環状2号線に接しており、変則的なコの字型をした建物です。コンサート会場は広さ400㎡ほどの3階のプレイロットを使い、想定した舞台位置は三方が建物に囲まれていますので、よく言えば、天井のない音楽堂のようです。しかし道路からの交通騒音はたいへんなもので、せっかくのコンサートもその騒音に妨げられないだろうか、という懸念がありました。その情報はPAさんへも伝わっていたでしょうから、早めに音の調整など準備しておきたかったのでしょう。結果から先に申しますと、演奏中、交通騒音は全く気になりませんでしたし、PAさんのお話しではへんな残響音もなく、なかなか良かったとのことでした。ジャズバンドの演奏さて当日ご出演の演奏家の皆さまを、プログラムの中から拾い出して、差し支えない範囲で簡単にご紹介しておきます。クラシック：「あっぷるトリオ」リーダー藤平公美（ヴァイオリン）、土屋昌子（ヴァイオリン＆ヴィオラ）、上荒磯佐和（ソプラノ）　　全員洗足学園音楽大学の関係者です。ジャズ：Erisa Ogawa Jazz Band リーダー小川恵理紗（フルート）、遠藤定（ウッドベース）、ヤマザキタケル（ピアノ）　　全員音楽大学在学中からプロ活動をしたり、アメリカで本場のジャズを学んできているメンバーです。当日演奏してくれた曲のうち、わたしが解説できるのはつぎの曲です。クラシック： ●モリコーネ作曲　ガブリエルのオーボエ曲を聴いたときには気付かなかったのですが、イタリア・クレモナで日本人によって演奏されたヴァイオリン曲の一つに、この曲が選ばれていたようです。あの感動的なシーン、特に赤十字を連想させる赤のドレス姿の日本人音楽家の姿、改めて思い出します。選曲は藤平さんのご配慮だったのでしょうか。 ●米津玄師作曲　パプリカ演奏前に、リーダーの藤平さんの「この曲知っていますか」、との聴衆に対する問いかけに対して、数人の若い方が挙手していましたが、この曲、NHKの2020応援ソングに選ばれた曲で、２年前のレコード大賞・優秀作品賞だったそうです。 ●その他ヴェルディの歌劇「椿姫」より「乾杯の歌」など、よく知られた曲など数曲。ジャズ： ●my favorite things　ミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』の中の1曲で、ジャズのスタンダード・ナンバーとして知られています。日本では、JR東海のコマーシャル「そうだ、京都へ行こう」のバック音楽に使用されており、このメロディを耳にしますと、わたしは新幹線に飛び乗りたい心境になります。 ●A Train「A列車で行こう」も代表的なジャズのスタンダード・ナンバーです。 ●その他、ディズニーアニメ映画のBeauty and the beast など。 4．おわりにイベントとしてコンサートをやろう、当マンション自治会としては、何もかもはじめての試みでした。いくらなんでも、マンションの自治会、それも120所帯にも満たない規模の小さな自治会が、手づくりでコンサートを企画するなんていくら何でも無謀だ、といまでもそう思っています。だがしかし、実現させたのです。これは紛れもなく事実で、そのことを自治会役員一同、自負しております。そんな奇跡みたいなことが、どうして成し得たのか……。コンサートから1か月近く経過したいま、冷静に判断してみると、それは奇跡でも何でもなく、ごく当たり前のことを、当たり前の手順を踏んで成就させただけなのではなかろうか、わたしはそう考えております。ただし、その当たり前のことは、ただ黙ってみていただけでは、とても成就など出来なかったでしょう。その陰には、コンサートを口にした発案者Kさんがひそかに描いていた「Kさんなりの計算」があって、それを現実に結びつけた人と人とのつよいつながりとがうまくかみ合い、まわりの人たちがベクトルを合わせてくれた。そんなところがうまくいった理由ではなかろうか、わたしはそんなふうに考えております。「想定外だったコロナ禍がとてつもない企画を生みだし、コロナ禍はその企画を具現化してくれた」　　（2020年12月）ホームに戻る前の履歴を読む次の履歴を読む