海外でお付き合いした建築家

アルジェで萩原氏が贈ってくれた本の跋

わたしが海外で、ということは仕事上でお付き合いした意味であり、建築家と称しても、そういう方と実際に建築の仕事をする機会はなかった、ということをはじめにお断わりしておきます。
はじめて外国の土を踏んだ南米コロンビアでは足が地につかず、カメラを出張先のホテルに置き忘れしたり、そのために予定していた航空機に搭乗しそこなうといったヘマの連続でした。そんなことで、ボゴタのホテル自室で落ち込んでいたときに一人の日本人男性の訪問を受けました。わたしの母校の吉阪先生の研究室にいたとかで、名前は定かではないのですが、たしか鈴木と名乗ったような気がしています。いかにも異国で活動している人らしく、骨格のしっかりした壮健な感じの人でした。どなたのご紹介だったのか、わたしが同学の建築の卒業生で、仕事で日本から来ているということを耳にしているようでした。とにかく、こちらもコロンビアの建設業界の状況を知りたかったので、誘われるままにボゴタの夜の町へ出ました。3、4年前に吉阪研をやめてこちらに来て、いまはボゴタ近郊の都市の市長さんに気に入られ、公開コンペにも入選していくつかの建物の設計をしているようなことを話していました。日本へいつか戻るのかという問いに対しては、とにかく仕事が順調なので、当分帰国することはなかろうということでした。彼とはもう一度だけ会って立ち話をしたていどで別れ、わたしはそのまま帰国しました。帰国して3か月ほど経ったころ、彼が突然会社へ訪ねて来ました。あいにく、同じ南米のエクアドルへの新たな出張準備(後述)に忙殺されていたわたしは、食事を共にする間もなく、社の食堂でお茶を飲む程度の素っ気なさで別れてしまったのですが、それからいくばくもなくして、その彼が自裁したという話を大学に残っていた友人から耳にしました。何ともミステリアス、しかも後味のわるい話で、いまでも心から離れないでいます。

吉阪隆正全集の月報から

コロンビアから帰国して半年後に、こんどは隣国エクアドルへ出張しました。成約した製油所の建設工事のための準備・調査業務で、滞在したのは建設予定地の同国最南端の太平洋に面したエスメラルダスではなく、首都キトでした。仕事場は顧客の建物の中で、部屋には一人のわかい建築家が、製油所従業員のための住宅設計をしている事務所の監理のために常駐していました。たいへん熱心な方で、日本の建築家にも興味を持っていてアルキテクト・タンゲ(丹下健三)とかアルキテクト・クロカワ(黒川紀章)といった日本の著名な建築家の名前を知っていました。地球の裏側でもその名は知られていたのですね。また、わたしがぺルーのマチュピチュに興味を持っていることを知って、自分が愛読していた20世紀初頭にマチュピチュを発見したアメリカの探検家ハイラム・ビンガムの著書” LOST CITY OF THE INCAS “のスペイン語訳の本をいただきました。むろんスペイン語の本を読めるわけはありませんでしたが、その優しい心根は嬉しかったものです。

ジェッダ市内に遺るローシャン様式の建物

サウジアラビアでは建築家と称する人との直接の出会いはありませんでした。わたしが長期滞在したのは古来「紅海の宝石」と称せられていた同国第一の都市ジェッダで、同国の第二次五ヵ年計画に基づく発展途上の中にあって、それにまい進する熱い思いをひしひしと感じたものでした*1。とくにジェッダの市長・ファリシーさんはまだ若く、エジプト・アレキサンドリア大学で建築・都市計画を学んだ方なので、「ジェッダはここへ来るすべての人たちに、心からのおもてなしをしたい」という信念で市内の近代化をめざしていました。その端的な成果は、市内のクリーン・プロジェクトの推進で、とくにフランスのリヴィエラを意識した海浜公園の整備と、それとの対象とも言える、市内にのこるローシャンと称される華麗な木彫りのバルコニーを持つ古い建物群の保存を図ったことです。そのほかにも植物生態学をベースにした市内の植生化、それに伴う彫刻の設置、ソディウム灯の敷設などなど、目を見張る思いでした。すべてわたしが同国に滞在し、かつ出張で訪れていた数年間での見聞ですが、もう30数年も前の古い話になります。

建築家ケンパー氏が自著に入れてくれたサイン

ジェッダでの長期滞在から帰国した1980年は、もどって間もなく日米仏の3社でコンソーシアム*2を組み、サウジアラビア東海岸の巨大な製油所の建設工事を受注するための業務が始まりました。そのために、秋になってから12日ほど、アメリカ・パサデナ、そして大西洋を渡ってフランス・パリと回ってきました。いわば3社間の顔合わせみたいなもので、その時にアメリカの建築家アルフレッド・ケンパーにお会いしました。日本のエンジニアリング企業と異なり、欧米などでは企業所属の土木・建築系の技術者に加えて、ふだんから純建築の設計のために外部の建築家とも提携をしているようでした。パサデナでの滞在は1週間ほどでパリに向かいましたが、別れ際にケンパーは、小冊でしたが彼のサイン入りの本*3をわたしに渡し、再会を約束しました。翌年の1月半ば、本格的な見積り作業のためにふたたびパサデナへ赴きました。その際、彼の自著をいただいたお礼にと、たぶん日本の建築に関する写真集的な本でも差し上げたのでしょう。その返礼になるのでしょうか、自分が編纂した” ARCHITECTURAL HANDBOOK “をいただきました。正直なところびっくりしました。そんな大家だとは、つゆ思っていなかったからです。建築を設計するうえで基礎となる自然・社会・植生といった諸環境の分析にはじまり、建築の基本条件、設計条件、施工にいたる大著で、日本でいう「便覧」みたいな本でした。この業務は幸いなことに受注できましたが、3社間の業務分担の結果、ケンパーとのコラボはなくなってしまいました。たいへん残念だった反面、建築設計面では非力なわたしのこと、それをさらさないで済んだことでホッとしたというのが本音でした。代わりにパリでお会いしたフランスの建築家(名前は記憶なし)とのコラボが生じることになって、その彼が、わたしが帰国してすぐに来日しました。もっとも、鉄骨製作関係が主で、建築関係はほとんどありませんでしたので、3日ほどの滞在中ほとんどが観光みたいなものでした。日帰りのドライブで富士北麓へ行きましたが、河口湖々畔から望んだ富士の姿には感嘆していましたが、どこから富士を望んでも電線が邪魔するのが惜しいと残念がっていました。わたし自身、日ごろ同じ思いでいましたので、わが意を得た思いでした。ついでながら、サウジの建設現場で、彼が担当したと思われる製油所内の変電所を見ましたが、記憶はもう薄れていますが、たしかドアが鮮やかなオレンジ色に塗られていて、日本人にはとても選べない色だと妙に感心したものでした。

萩原氏が贈ってくれた総革表紙の本

アルジェリアへ赴くようになるとは、まったく夢にも思っていないことでした。それも、テロの嵐が真っ盛りの中、しかもわたしにとってはじめての官の仕事、さすが度胸の座った家内も、心中、多少は不安だったかと思います。事実、出発間際になって、同行予定の方が家族の反対で行けないと言われたときにはたいへん慌てました。航空機の搭乗券は、いったんキャンセルするとリストから名前が削除され、代人に回すわけにはいかないし、なにせ官の仕事、許しを得るのもたいへんなことでした。深夜、アルジェの空港から数人の警備官に囲まれて大使館に到着した際、大使夫人がわざわざ出迎えてくださり、「こんな時に、よくアルジェまで来ていただきました」とお声をかけられ、ホッと安堵した反面、そんなすごいところへ来てしまったのか、と内心は悔いる気持ちもわいたものでした。その夜、迎賓館ではじめての夜を過ごしたわけですが、その払暁、大使館の外で起こった鈍い爆発音に目を覚まされました。はやくもテロの歓迎に見舞われたのです。
翌日、館内を案内され、いろいろな方に紹介されました。その中に、異色の方がお一人いました。館内の庶務を取り扱っていた荻原宏章さんです。アルジェリアに長期間滞在されている、フランス語の堪能な、いわば現地採用の事務員です。年齢はわたしより4、5歳ほど上、小柄でしたが、てきぱきとよく動かれ、わからないことの相談にものってくれて、わたしは救われたような気持ちになったものでした。話をしているうちに知ったのは、コロンビアで会った鈴木(?)さん同様、この方も吉阪先生にゆかりのある方のようでした。フランス政府招聘給費留学生としてフランスに渡り、パリの名門エコールデポザールで建築を学び、難関のL.P.L.G (フランス政府公認建築士)資格を取得してフランス国内で設計活動に従事。のちにアルジェリアの国土整備開発公社に入って地方都市の基本計画に従事する一方、コルビュジェが街の計画を進めていたアルジェ南部のサハラ砂漠北部・ムザブの谷などへもしばしば足を運んでいたようです。また、アルジェで着手されようとしていた都市計画に従事することになっていたそうですが、1990年代に入って国内情勢が悪化し、93年頃から外国人もテロの標的になったために、住んでいたカスバにおられず、大使館内に住み込みで働くようになったようです。

吉阪隆正著『乾燥なめくじ』

2度目の訪アの際、荻原さんへ贈るために吉阪先生の生い立ちの記『乾燥なめくじ』(昭和57年 相模書房刊)を持っていきました。荻原さんはたいへん喜んで下さり、そのことでわたしが帰朝の際に、同国の民芸品に関する総革表紙の立派な本をいただきました。また、同氏はわたしとほぼ同時期にアルジェを去ることになっていて、その前に10日ほどの休暇を取って、アルジェリアへ渡って以来長いこと念願していたタッシリ・ナジェール(サハラ砂漠南部の荒涼とした山地洞窟に遺された岩面画で著名 世界遺産)へ旅してきたそうです。その辺り、砂漠の民であるトゥアレグ族の支配下でテロの恐れはまったくなく安心して旅ができたようで、20年もアルジェリアにおられた荻原さんが、洞窟内の岩面画のすばらしさに興奮していました。と同時に、ちょっと用を足していただけで、もどる方角がまったくわからなくなり、元の場所へもどるのに1時間近くもかかったとのこと。砂漠の恐ろしさをしきりと力説していました。本稿を書いているのは、お別れしてからちょうど18年、タッシリ・ナジェールのお土産としていただいた豪華な写真集との2冊の貴重な本を手元に、荻原さんはどうされているか今でも思い出しています。仄聞するところでは、フランス人の奥さんとパリで生活、趣味の絵画に専念されているとか。画家でもある荻原さんの、うす暗くだだっ広い部屋で見せていただいた100号の大作『人民の怒り』。キャンバスに絵の具をたたきつけたかのように描かれたあの激しい怒りは、いったい何に向けられていたのでしょうか。いまとなったらもう聞くことはできません。荻原さん、いつまでもお健やかに……。
(注記1)このあたりのこと、拙著『サウジアラビアおもてうら』(昭和58年日本貿易振興会刊)にくわしい。
(注記2)コンソーシアムとは開発途上国への経済援助のための国際間の債権者連合 転じて国際間で協調してプロジェクトを遂行することも指す。
(注記3)ケンパーの著” LOVE COUCHES DESIGN CRITERIA “
(注記4)なお、ローシャン風の建物は公刊の写真集から引用した。

    

(2018年12月)

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