海賊赤ひげの館に住んだ

赤ひげの館外観

ひと頃、若い人の間で映画『カリブの海賊(Pirates of Caribbean)』が人気を博しました。海賊というと、なぜかカリブ海が舞台となります。そういえば、スチーブンソンの冒険小説『宝島』でも、主人公の一人、片足のジョン・シルバーもカリブ海を荒らしまわったフリント船長の手下でした。海賊のひいきをするわけではないのですが、海を舞台に活劇を演じる海賊に、ある種のロマンを感じるのはわたしだけでしょうか。金銀財宝の山をごっそりとかすめ、ついでに絶世の美女もいただいてしまう、男としてはこんな恰好のいい話はありません。そのせいか、ディズニーランドでの人気アトラクションも「カリブの海賊」ですね。そんなことで、海賊の本場はカリブ海ということになりそうですが、オッとどっこい、それでは他の海で活躍した海賊さんたちは黙っていないでしょう。歴史的に見ても、北欧のバイキングなどは古くから有名ですし、東シナ海を舞台にした倭寇も知られています。今回わたしが取り上げるテーマは、地中海、とくに北アフリカ沿岸を舞台に暴れまわった「海賊赤ひげ、そしてその館」についてです。
わたしのトピックの中でしばしば話題に上げたレコンキスタ(イベリア半島におけるキリスト教徒による国土回復運動)により、1492年に半島から追い出されたイスラム勢力は、執拗に迫りくるキリスト教勢力によって地中海・北アフリカ海岸沿いにじわじわと東へ追いやられました。16世紀中頃には両者の勢力争いはますます激化、キリスト教勢力を率いたのは神聖ローマ帝国のカール5世(またの称号はイスパニア王国カルロス1世)、対するイスラム勢力はエーゲ海を根城にしていた海賊バルバロス兄弟でした。オスマントルコ帝国のスレイマン大帝の援助を受けた兄弟はトルコ帝国海軍提督として国旗をなびかせ堂々と地中海に進出し、その裏の顔は海賊赤ひげとして跋扈(ばっこ)、巧みな戦術と自然をも味方にして神聖ローマ・イスパニア両国の強力な艦隊を相手に縦横無尽に活躍しました。兄ウルージは早くして亡くなりましたが、弟のハイルッディンは兄亡きあとも、スペイン艦隊を相手に地中海の要衝アルジェの攻防を繰り返しました。彼はときにアルジェの総督として帝国の執政官であると同時に、一方で海賊行為によって蓄財した財力で地中海の制海権を握りました。その後1616年にいたってアルジェはトルコ帝国の領土となりました。ご参考までに、バルバロス兄弟のような、キリスト教国の船の略奪をトルコ帝国から公に許された海賊はコルセアーズ(corsairs)と呼ばれ、他の海賊(pirates)と区別されています。

アルジェの古図

トルコ領になってから、アルジェはトルコ帝国皇帝の任命する太守(ベイまたはデイ)が統治しましたが、帝国に年貢こそ納めはしたものの、実質は自治領として大いに栄えました。上の図は、わたしがアルジェに滞在中に入手した本からコピーした18世紀後半の頃のアルジェの古図です。これによりますと、標高114メートルの丘の上にいく琉もの旗をなびかせた城があり、丘の中腹は城壁に囲まれた城下町が開かれ、湾内のペニョオン島には堅固な要塞が築かれていて、街から要塞へは一本の土手道(コーズウェイ)で結ばれています。一見して、湾内へは入りにくく、まことに防禦にすぐれた城砦造りになっていることがわかります。アルジェの争奪にあたって、イスラム・キリスト両軍がしのぎを削ったこと、よくわかります。また、図中、丘の中腹の城下の街が、位置的には現在のアルジェのカスバにあたっており、カスバが「城砦」を意味するアラビア語だということも、この図によってよくわかります。アルジェの太守たちはとうぜんそこに館を構えたことでしょう。信じる、信じないは、皆さまのご判断におまかせしますが、じつは、アルジェに滞在したその前半の何日間か、わたしはそんな館の一つ、「赤ひげの館」と称されている建物(現在はアルジェの大地主ベンガナ一族が所有する広大な敷地内にありますので、以下便宜的に「ベンガナの館」と仮称します)に住んだことがあるのです。むろん当初は、その館が海賊赤ひげの館だということ、まったく知りませんでした。知るにいたったのには、こんな経緯があったのです。

ベンガナの館内部

この館にはじめて訪問したのは1998年の3月のことでした。その館を借り上げている日本国外務省の依頼で、すでに古くなっていた館の現状、とくに設備面の改修のために何が必要なのかを調べる調査でした。およそ2週間をかけて館内くまなく調査したのですが、その過程で、この館のことについてよく知る現地人から、館内のどこかに市内のカスバへ通じる秘密の抜け道のあること、そして館の奥まった部屋に女性の幽霊が出没するのだという話が持ち出されたのです。むろん限られた時間内で、どこにあるかわからない抜け道をさがし出すことはむずかしく、ましてや幽霊の話しなんて、としばらくは忘れられていました。2度目の訪問は、同年の8月でした。そのときは、ふだんはマルセーユなどで生活している館の家主であるベンガナ氏がたまたま戻っていたので、これらの話しがむし返えされました。もしほんとうに抜け道が存在しているのなら、治安上ゆゆしき問題だからでした。ベンガナ氏の説明によれば、「赤ひげの館だという噂のことは知っており、抜け道に関しては以前にも問題になった。その際、実際に入口があるとされた竪穴を調べた結果、ほとんど埋まっているような状態で館内への侵入は不可能だという結論が出ていた」、とのことでした。幽霊については、「女性が独りで泊まったときにだけ出現するらしく、実際に見たという女性もいたらしいよ」と、にやりと片目をつぶっていました。わたしも直接その部屋を調べましたが、最上階に一部屋だけ独立した部屋で、タイル張りの階段を歩く足音が部屋にも響き、風がつよい夜など窓の隙間から不気味な音を発し、大きく揺れる木立の葉が影絵となって映りますので、独りそこに休む女性にとっては気味悪く感じたのでしょう。この問題、それで一件落着になりましたが、それだけで済ませたのでは面白くありません。わたしは、海賊赤ひげの館について、もう少し調べてみる気になりました。

アルジェ太守の館

上の写真は、アルジェ滞在中に市内の書店で購入した‘ALGERIE’という本に出ていた古い館の内部写真です。フランス語は読めませんし、訳してもらうのも煩わしいので、わたしのいい加減な意訳ですが、この館はカスバに現存しているもので、赤ひげが活動していた頃よりのちのアルジェ太守だったダル・アジィザ・ベンの館であり、それも太守の妃専用の館だったようです。イスラム建築特有のアーチと柱の形態、室内のアラベスク(壁面装飾)に使われている上質のタイル、噴水をともなったパティオ(中庭)など、この館は典型的なイスパノ・モレスク様式の建物(イスラム勢力が北アフリカからイベリア半島へ進出したころの様式で、スペイン・グラナダのアルハンブラ宮殿が著名 これに対してキリスト教と混交した建物はムデハル様式となる)です。アルジェには、この種の建物が幾棟か残っており、そのいずれもが国の重要建造物に指定されているようです。ベンガナの館も、だいぶ改修の手が入っておりますが、写真からも分かるように同じ様式の建物、しかも非常に格調の高い建物だといえるでしょう。アーチの美しい姿、室内に用いられたモロッコ産の青色(アラベスクの青は海を示す)を基調にしたタイル(一部建設当時の古いタイルも残っています)、そして写真には出していませんが、から草模様や幾何学的模様をモチーフにしたプラスター(漆喰)仕上げの白壁などが、そのことを物語っています。やや蛇足になるかもしれませんが、アラベスクのタイルに使われる色は青のほかに3色あります。ベンガナの館では青以外には黄金の象徴である黄色が使われているだけで、王の権力を示す赤、そして砂漠の民にとってあこがれである緑色は用いられていません。王ではない太守の館には赤は使えませんし、緑の豊富なアルジェには緑色も必要ないからです。そのように見てきますと、ベンガナの館に赤ひげが住んでいたという説、あながち否定すべきではないと思うのです。ましてや秘密の抜け道もあったというし、外観写真からもわかるように、城壁のような堅固な外壁に囲まれた館なのです。

ベンガナの館パティオ

とは申せ、異論もあるでしょう。まず何よりも、ベンガナの館はアルジェがトルコ領になったころ、17世紀初頭の建物だといわれています。もしその通りなら、16世紀半ばに活躍した赤ひげとは時代のずれが生じてしまいます。また、館が位置するのはベン・アクヌーンと称される丘陵地で、前掲のアルジェの古図でいえば丘の左手の奥、標高でいえば200メートルを超える高地です。アルジェ市内のカスバからは直線距離で4キロとかなりの遠方にあたります。これだけ離れると、敵艦の来襲という非常時を考 えれば、太守の館としては望ましい立地だとは思えません。しかし一方で、こんなことも考えられないでしょうか。実はバルバロサは固有の人名ではなくアラビア語で「赤ひげ」のことですから、「海賊赤ひげ」を名乗る者がウルージ・ハイルッディン兄弟以外にいてもなんら支障はない筈です。また、赤ひげはモスレムです。さなくとも、第4夫人まで持てるのですから、太守ともなれば、ハーレム的な館はいくつあってもあり過ぎることはなかったでしょうし、緑豊かなベン・アクヌーンの丘に建つ館は別荘にしていた、なんてことも十分考えられるでしょう。抜け道にしても、ベンガナの館の近隣には、同時代に建設されたと思われるいくつかの館も点在していますから、それらの館との相互連絡用(非常時の避難など)に秘密の通路があったと考えることも、かなり蓋然性に富んでいるのではないでしょうか。今さら16、7世紀の昔にさかのぼって、赤ひげの館だったとか、いやそんな筈はなかろう、などと論じてもまったく詮無きことで、どうせならば、往時名を成したオスマン帝国海軍提督バルバロス、またの名は「海賊赤ひげ」が住んだことのある館に、自分もしばし住んだことがあるのだ、と考える方が楽しいではありませんか。わたしはそんなロマンにひたっています。

(2012年11月)

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