横浜市内の旧東海道三宿・道を中心にして(1)

生麦事件碑

わたしの、会社同期入社の友人に、全国各地の街道をたんねんに歩き、宿場を訪ねている人がいます。わたしには、とてもそんな真似はできませんが、「宿場」ということばは大好きです。宿場は道と道とをつなぐ接点の役割だっただけでなく、往時そこを行き来した数多くの人たちの息づかいをいまに伝えているような、そんな気がするからです。
横浜市内には旧東海道の宿場が三宿あります。東京(江戸)側から神奈川・保土ヶ谷・戸塚で、さらに神奈川県下に拡げますと、川崎をはじめ藤沢・平塚・大磯・小田原・箱根と九宿となります。最近になってからですが、横浜の住人としてせめて三宿ぐらいは訪ねてみたいと思い、旧東海道をつなぐかたちで三宿すべてを歩いてみました。むろん、思いつきで歩きましたので、きちょうめんに神奈川から西に向かって順を追ったというわけではありません。わたしの生地は品川、説明するまでもなく、品川は京へ向かう東海道の第1番目の宿場町で、まさに江戸の玄関口です。また、戦時中に疎開していたのは、中山道の宿場町安中(碓氷峠の上州寄り)、それも間借りしていた寺を下ったところが、ちょうど安中宿の本陣でした。そんな縁が、わたしを宿場好きにしているのかも知れません。

 

武州橘樹郡市場村一里塚碑

ここで、品川の宿から横浜の神奈川宿までたどり着く道筋をかんたんに説明しておきましょう。品川宿を発って、ひたすら西へ向かうわけですが、旧東海道(以下ときに旧道と表記する)は江戸時代に刑場のあった鈴ヶ森で国道15号線(第一京浜国道)に吸収され、そのまま進んで多摩川を船で渡ることになります。六郷の渡しで船*1を降りれば、川崎宿の江戸口見附*2があり、東海道第2番目の川崎宿へはいったことになります。そこから旧道は国道からはなれ、京口(京都側)見附を経て、京急の八丁畷駅を過ぎて間もなく横浜・鶴見にはいります。国道から離れた旧道は、ひなびたとは言えないまでも古い市場村の一里塚があったりして、国道筋とくらべれば、はるかに人通りも少なく、閑静な感じとなります。旧道はやがて鶴見川を渡り、鶴見の中心部へはいりますが、鶴見川は多摩川と異なり、江戸の昔から架橋されており、今も関門碑が建てられています*3。

鶴見川関門碑

いままで国道の北側を走っていた旧道は、鶴見を過ぎてからいったん国道を横断して、その先は旧海岸線に沿って走ります。生麦の魚河岸通りです。わたしが会社員だったころはもっと活気があったのですが、いまはすたれた感じとなっており、その道を進んだところに、歴史上名高い「生麦事件」の発生場所があります。横浜を開港してから3年後の事件で、あまりにも有名ですが、薩摩へもどる島津藩の行列をイギリス人が妨げたので殺傷された、というていどの理解ではとても済まされない一大外交問題に発展し、国体にも大きく影響を及ぼしたと言えるでしょう。事件発生場所から少しはなれたところに「生麦事件」碑が建っていますが、道路工事の関係でその場所は二転、三転して、現在は旧道と国道とが合体したところ、それも旧道から海側へ少し離れた位置に移転しており、いろいろ理由はあったのでしょうが、なんとなく歴史がないがしろにされたような気がしております。国道と合体した旧道はそのまま進んで神奈川宿に入ります。

「生麦事件」碑

神奈川宿の江戸口の見附がどこにあったのか、区役所発行の案内図でははっきりしないのですが、江戸時代に作成された『東海道絵図』では宿の端に長延寺が描かれています。この寺は、いまは横浜・緑区へ移っていますが、戦時中までは神奈川通り東公園(京急の神奈川新町駅横)にありましたので、この辺りから神奈川宿になるのでしょう。公園内に、寺と江戸口見附であることを示す土居跡のあったことを記した説明書が建っています。神奈川宿は、市内三宿のうち、最大規模の宿場であると同時に、西国から江戸・千葉へ向かう船便の中継地として重要な湊にもなっていました。だからこそペリーは当初この地の開港にこだわったわけでしょう。一方、御殿や陣屋などをおいていたほど江戸幕府にとっては重要な拠点だったわけですから、当然のこと幕府はここの開港を許さず、対岸の横浜村に開港したわけです(2018年1月号 「よこはま道」参照)。神奈川宿へは江戸から海岸沿いに山に妨げられることなく来られるところに位置していますが、宿場西方を流れる滝の川を渡って間もなく、右手に権現山を見上げるようになり、そのすそ野を巻き込むように折れまがり、台町への急坂を上ることになります。広重の『東海道五十三次』(保永堂版)はリアリスティックだと称されていますが、いまもそこに描かれた急坂そのままで、左手下の海は埋め立てられる前の袖ケ浦、白帆が浮かび、遠く本牧の岬が望める風光明媚な往時の景色が彷彿とさせられます。

ヘボン博士施療院碑

神奈川宿は、この坂を上がった台町(「上の宿」と仮称)と坂を下った下の宿とに大きく分かれます。上の宿のほうは広重の絵にも描かれているように、そこからの眺望を「売り」にできる茶店や旅籠・料亭などが主だと思われます。下の宿は、御殿町の名が残っていたように、幕府の公的な施設や湊に付帯する廻船問屋・仲買人の店、湊関連の問屋、船に関した幅広い職人たちの作業場、その他宿場に付きものの本陣や旅籠、商家、民家など諸々の家が建て込んでいたのでしょう。そして何よりも顕著なのは寺の多いことで、それも開港にともない、列強の領事館や外国人宿舎などが併設されたことが他では見られぬ、神奈川宿の特徴だと言えます。ちなみに、その種の寺をいくつか紹介しておきましょう。先に述べた長延寺はオランダ領事館、「浦島伝説」に関する記念物が保管されている慶運寺(浦島寺)にはフランス領事館が充てられました。大森貝塚の発見者であり、「ヘボン式ローマ字」でよく知られているアメリカの宣教師・医師のヘボン博士の施療院は宗興寺に設けられ、イギリスの領事館は浄瀧寺におかれました。台町へ上る坂のとっつきにある本覚寺にはアメリカ領事館がおかれていました。いかにも開国を主導してきたことを誇示するかのように、神奈川宿内に置かれた他国の領事館、横浜港の居留地、そして横浜の海を睥睨(へいげい)しているかのようです。

本覚寺山門

旧東海道は江戸を出てから神奈川宿台町下までは国道15号線と付いたり離れたり仲良く併走してきましたが、15号線はここで国道1号線に吸収され、代わりに、台町を旧東海道、台下を県道環状1号線が上下並行して進むことになります。旧道のほうは、ほどなく立派な「神奈川台関門跡」碑にぶつかります。「袖ケ浦見晴所」と併記されているように、このあたり、おそらく街道筋でも指折りの眺望の利く場所だったのでしょう。いまでこそ海は埋め立てられ、往時を思い浮かべること不可能ですが、建物間で垣間見る風景は、「往時はかくや」と思わせるものがあります。道は関門跡から少しく坂を上ったあと、上台橋(現横浜駅西側奥)までの急坂を一気に下り、そこから浅間下までは緩やかに下って行きます。浅間下の少し手前で旧道はいったん環状1号線に吸収されますが、浅間下から保土ヶ谷へ向かう二つの道は完全に分離して進みます。なお、幕末に神奈川宿から横浜の港へのアクセスのために開設された「よこはま道」(前掲「よこはま道」参照)は浅間下で旧道から分岐されました。往時は保土ヶ谷・帷子川河口までつづいていた袖ケ浦の海は、この時期には浅間下まで干拓が進んでおり、ここが関内方面へむかう海岸線だったことになります。ここまで来れば、保土ヶ谷宿はすぐ近く、ほどなく江戸方見附跡へはいります。道筋も、並行する環状1号などとは異なり、どことなく古道めいて、土蔵造りの家もちらほら見受けられます。
*1(注記1)多摩川の六郷にも、江戸の初期には架橋されていたようです。しかし、大雨でたびたび流されてしまうことと、江戸の防備という点も勘案されて、渡しになったようです。
*2(注記2)見附とは、宿場の出入り口で、上方(京口)と江戸方の双方に置かれ、その間が宿場とされています。大名の通過時には見附で宿役人が出迎え、宿場内では行列も威儀を正して進みました。
*3(注記3)東海道には箱根の関所のような通行人を取り締まる警備所がありましたが、横浜開港にともない外国人の往来も発生するようになり、その警備のために横浜周辺の主要な場所に関門が設置されました。

    

(2018年10月)

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