哀れなりソマリア人

ソマリア周辺地図

わたしたちにとって国際情勢のニュースといえばTVか新聞報道によるわけですが、日本メディアの多くは政治・経済にせよ欧米の大国か中国関連に偏り、あるいは中東に多発する連続テロのニュースが紙面をにぎわすていどで、アフリカのことなどはめったに紙面に出ることはありません。 それが、8月半ば以降、二つの大きなニュースが報道されました。一つは、カダフィ大佐終焉かということでリビア情勢がさかんに伝えられています。もう一つはアフリカ北東部の小国ソマリアの深刻な食糧危機に対して、「ソマリア最悪の人道的危機」、「ソマリア緊急援助拡大を」、 あるいは「イスラム諸国、ソマリア支援に270億円」、といった記事が紙面をにぎわしました。そうした記事を読むにつけ、わたしがサウジアラビアでソマリア人にはじめて接したときですら、彼らは決して安寧だったわけではなく、それから30年以上経った現在でもなお、当時よりさらに深刻な事態に陥っていることに、わたしは心を痛めております。
サウジアラビアに滞在していたとき、同国は第二次開発五ヵ年計画の最中であり、猛烈な勢いで近代化を進めているときでした。当然、労働力は足りず、世界中から多くの人が集まっていました。驚くばかりの「人種のるつぼ」であり、取り交わされる言葉は優に十数ヵ国語におよび、まさにマルチ・ポリグロット(数ヵ国語以上の言葉が混交するさま)の状態でした。 イスラム(*1)の国ですから、近隣のアラブ諸国からが多いわけですが、わたしのいた職場は建設現場であったため、インテリ層の多いエジプト、レバノン、パレスチナ人たちは少なく、インド、パキスタンなどのアジア系に加えて、近隣の国としてはイエメン、ソマリア人が主力であり、それに、スーダン、エチオピア、エリトリア人などが加わっていました。 わたしの滞在は1970年代後半のことでしたが、その当時の北東アフリカの情勢は、遠く離れた日本人にとってはたいへんわかりにくく、複雑に入り組んでいました。エチオピア、エリトリア両国とも、第二次世界大戦前はイタリアの植民地であり(*2)、戦後は各々が独立し、国連の決議でいったんは連邦を形成したのですが、冒頭のマップでお分かりのように、 エリトリアによって紅海への出口をふさがれたエチオピアは、交易上の理由から武力によって強引にエリトリアを併合したのです。1962年のことで、エチオピアのハイレ・セラシェ1世がまだつよい指導性を発揮していたときでした。むろんエリトリアは解放戦線を結成し、両国の間では激しい分離独立の闘争がつづいていました。その最中、エチオピア国内では1974年に革命が起り、 あの伝統ある王政が終焉を迎えていたのです。他方、エチオピアの隣国ソマリア国内でも波乱がありました。同国は第二次世界大戦前から、北部のソマリランドはイギリス、南部はイタリアの保護領で、大戦終結後もしばらくの間、保護領のままでしたが、1960年に一本化してソマリア共和国として独立しました。しかし蜜月はつかの間、9年後には軍事クーデターにより軍部が政権を掌握し、 一党独裁体制の社会主義国家となりました。ソマリアにとっての不幸はここからはじまった、とわたしは思っています。ソマリアの軍事政権は、エチオピアが革命で混乱していることに乗じてエチオピア国内のソマリア族と呼応して国境沿いのオガデン州の分離独立闘争をはじめましたが、ハイレ・セラシェ王政を倒したエチオピアは社会主義体制となっており、 ソ連やキューバが支援したために、同じ社会主義国家のソマリアはこれに反発し、一転して親米路線をとるようになって、事は大国がからんで複雑化していったのです。当時のわたしにはよくわかりませんでしたが、3国間の状勢は血なまぐさい関係にあったのです。

現場事務所前にてオマル君と

祖国の複雑な関係はさておき、わたしの周りで働いていた人たちは、そのような事情はおくびにも出さず、互いに明るく、和やかに振る舞っていました。わたしの専任ドライバーだったゴリちゃん(ゴリラのような顔をしていたのでそう呼んでいた)や、オフィスのドライバーをしていたアブドル・カードル君などはエリトリアからの難民でした。 ゴリなどは銃を手にエチオピアと戦ったことがあるようです。しかし、解放戦線内でも熾烈な主導権争いがあり、人口の約半分を占めるキリスト教徒のセム系ティグレ族に対し、彼らはモスレムであり、少数民族のためにサウジアラビアへ逃れてきたのでしょう。厳密な意味での国の発行するパスポートはなく、解放戦線の発行した身分証明書だけを保持して逃れてきたようです。 カードル君の場合、ソ連の援助を受けたエチオピアが大攻勢をかけてきた際、両親・妹二人といったん陸路でスーダンのハルツームへ逃れ、そこから空路でジェッダへ入ったそうです。ほとんど着のみ着のままで逃れてきたわけで、生活のためには家族全員で働かねばならないのに、サウジでは女性が思うように働けない(*3)。そこで、二人の妹さんは、さらに西ドイツ(当時) へ移って行ったそうです。まさに一家離散の苛刻な運命だったのです。現場事務所でオフィスボーイ(ボーイというには年をくっていましたが)だった禿のオマルや、現場のレーバー・オフィスに勤めていたアリ君はソマリア人でした。ソマリア人というのは、「何といったって、俺たちはシバの女王(*4)の血を引いているのだ」、という選民意識がつよく、 そのプライドの高さはたいへんなものでした。アリ君など、よく首都モガディシュの壮麗な美しさを自慢していました。たしかにソマリアという国は、人種的には白アフリカと称される東部ハム系ソマリ族で、アフリカではめずらしく、主要6氏族から構成される単一民族・宗教(イスラム教スンニー派)から成り立っているのです。白アフリカ系とはいえ肌の色こそ黒いのですが、 端正な顔立ちで、スリムで長身の者が多いようです。それに底抜けに明るい性格のように思えます。最近では、骨格が他のアフリカ人と異なり、すらっとしたソマリア出身の女性が、スーパーモデルとして活躍しているのも納得できる気がします。アリ君もなかなかの好男子で、父親は教育者、彼自身、国では医学を学んでいたそうです。左翼革命が起ったとき、父親の身が危ないということで、 両親と2人の兄弟ともどもサウジへ逃れてきたのだそうです。「いずれは国へ帰り、医学の勉強をやり直したい」と言っていましたが、さて、その望みはかなえられたのでしょうか。彼がプレゼントしてくれた、きれいな刺しゅうで縁取りされたソマリアの伝統的な衣装を思い出し、どうしているのだろうかと気にしております。じつは、祖国の状勢がどうであれ、わたしの滞在当時は、 まだソマリア人の一時帰国は許されていたようで、オマルなども帰国の際「マイワイフはアルバ(4人)ね」、とちゃっかりと4人分の餞別をせしめたものでした。

ソマリア人(現地の雑誌から)

わたしがサウジアラビア滞在を終えたのが1980年、そして勤め先の関係で同国とは1990年以降に関係が切れてしまいましたので、必然的にエリトリアやソマリアの状勢は入手しにくくなっています。果してその後、どうなっているのでしょうか。入手できた資料によれば、まずエチオピア―エリトリア間の併合問題は、1993年に国連の監視下でエリトリア地域の分離・独立を問う住民投票がおこなわれ、 その結果、エリトリアの独立が認められました。しかし、国境をどのように画定するかで、5年後には再び武力紛争が起こり、いったんは和平合意したものの、現在でもなお緊張は続いているようです。ゴリも50代半ばになっており、国にもどったのか、今でもなおサウジで働いているのか、顔に似合わず優しい心の持ち主、どうしているか気にかけています。一方ソマリアですが、 こちらの方は時に応じて日本でも報じられていましたので、皆さまもある程度のことはご存じだと思います。正直なところ、わたし自身もそれ以上に定かなことはわからないのですが、いずれにしても、ソマリア―エチオピア間のオガデン州をめぐる国境紛争は発生から10年以上つづき、1988年に停戦合意が成立したようです。しかしその後、親米路線をとっていた政府に対し反政府勢力の武装組織が攻勢し、1991年に首都モガディシュを制圧したのですが、その混乱に乗じるように各氏族間の内部抗争が始まり、国内は大混乱の様相を呈しました。1992年には国連が介入し、アメリカ軍を中心とする多国籍軍が派遣されましたが、国内の治安回復どころか、アメリカ軍にとっては不名誉な敗戦の連続で、1995年に同国から完全撤退をしました。そのあたりのことは、日本でもけっこう大きく報道されていましたので、まだご記憶の方も多いかと思います。アメリカ軍撤退のあとは、国内はまさに群雄が割拠し、無政府状態になってしまいました。ソマリアの情勢は氏族間の権力闘争、軍閥の跋扈(ばっこ)、宗教上の問題、他国の介入、国連の介入・撤退などが複雑に絡んでいますので、とても小文では書き表すことはむずかしいのですが、すこし粗っぽくなりますが、わたしなりに要約しますと、こんな風にまとめられるのではないでしょうか。

・同国は、現在3ヶ国(勢力)に分かれています。北部のダロド族を中心にまとまったソマリランド、北東部のプントランド、そしてエチオピア軍が介入して樹立させた南部モガディシュのソマリア暫定政府です。この中では、単一の氏族で、長老が権限を握っているソマリランドのみはあるていど統制が取れているようですが、自治政府に過ぎないために国際的には国として認められていません。 他はほとんど無政府状態で、結局ソマリアという統一国は、現在、国際的には国家としては認められていないのが現状です。
・2000年頃から、アフガニスタンのタリバン的な存在であるイスラム法廷会議が力をつけてきており、その軍事部門アル・シャバーブ(厳格なイスラム法を奉じており、アルカイダにつながっている)が南部を拠点に勢力圏を広げており、暫定政府との間で激しく交戦中。
・アデン湾の出口をおさえ、良港を有するプントランドは、近海を航行する船舶に対する海賊行為の本拠地であり、同国の重要な資金源となっています。アル・ハシャーブは、海賊行為は不法だという声明を出す一方で、かげではバック・チャージを要求しているようです。
・現在、800万の人口のうち、320万が人道援助に依存、140万が国内避難民、ケニアの44万など59万が近隣諸国への難民となっており、国連(UNHCR)、 国境なき医師団(MSF)などのほか、イスラム諸国会議機構(OIC)などの人道活動だけが、同国内における国際的な活動となっています。
ざっと、こんなところがソマリアの現状ではないでしょうか。もうずいぶん前のこと、そう1980年代半ばだったと思いますが、アメリカからだという電話をアリ君から受けたことがありました。要は「わたしの勤める会社に勤め口はないか」という趣旨でした。当時、世界的にプラント建設が冷え込み始めていた時期で、あいにく彼の願いは聞き入れられませんでしたが、そのときの電話の様子から、 彼が祖国ソマリアへは戻っていないこと、念願だった医師になるための勉学もできないでいること、などがわかりました。あれから20数年、事態はますます悪化しているわけですから、とても願いは叶えられていないだろうな、と思っています。世界の「最貧国の一つ」、あるいは「破綻国家指数ナンバーワン」というような不名誉な名称で呼ばれるソマリア、まさに「哀れなりソマリア人」、 その思いをつよくしております。

(注記)
*1 最近はイスラームという表記がなされますが、わたしはイスラム表示を使っております
*2 エリトリアは世界大戦中に、イギリスがイタリア領へ侵攻し、自国の保護領としています
*3 湾岸戦争以降、サウジでもウーマンパワーの力がつよくなり、女性の職場がかなり広がっているようですが、当時は教育・医学分野を主に、一部の研究職、特殊事務職に限定されていました
*4 旧約聖書でソロモン王を訪ねたというシバ(サバともいう)王国の女王。王国がどこに存在したかについては、アラビア半島南部のイエメンのマーリブ高地付近だとする説など諸説あり、いずれも伝説の域を出ていません。エチオピアの伝説では、ソロモン王と女王との間の子が、エチオピア王室の始祖となっています。
なお、文中、サウジアラビア関連の記述は、拙書『サウジアラビアおもてうら』(JETRO刊)からの引用の多いこと、お断わりしておきます。(著書の紹介ページへゆく

(2011年 9月)

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