パスポートをさかのぼる(3)

アル・ジュベール開発計画図

12)1982年1月23日〜28日 サウジアラビア・アルジュベール ロイヤル・ コミッションとの打合せ他
日米仏3社連合によるアルジュベール工業団地に建設する製油所の受注が決まり、業務に入る前に工業団地を管理するロイヤル・コミッションへの挨拶と下打合せのために、はじめてサウジアラビアの東海岸へ出張しました。
訪問地:
・アルジュベール―サウジアラビアの東海岸へは、シンガポール航空を利用。成田からいったん関空へ寄り、シンガポールを中継してアラビア半島東海岸のダハーランに着く。その日は空港近くのホテルに一泊し、翌日車でジュベール入りした。ジュベールまでは100キロ余、途中、同国一の石油輸出港ラス・タヌーラが右手に見えるが、この辺り、同国の石油産業発祥の地であり、現在でもなお石油生産の中心地である。ジュベールは開発の緒についたばかり。それでも西海岸のヤンブよりは一歩先んじた感じで、すでに何か所かのプラント建設・居住区の建設が始まっていた。
13)1982年6月1日〜6日 シンガポール出張 現地調達可能資材の調査
サウジアラビア国内での建設ブームに対応すべく、地域性から考えて資材を日本から持ち込むよりはるかに有利であるシンガポールでの調達の可能性の調査に、約1週間出張しました。幸い同国内には会社の事務所もあり、また日本の建設会社も進出しており、情報の入手・業者訪問など、効果的に調査ができました。
訪問地:
・シンガポール―幾度となく滞在した都市で、ヒルトンホテルを拠点に活動した。同市には大学時代の友人も活動をしており、彼の設計した施設の見学、奥さんを交えての会食をするなど、楽しい出張であった。

ヤンブ製油所事務所コンプレックス

14)1982年9月15日〜25日 サウジアラビア・ジェッダ及びヤンブ打合せ
サウジ西海岸のジェッダにはわたしが2年間滞在した現場がまだ活動をして おり、ヤンブでは2つの製油所建設が同時進行しておりました。それぞれに いろいろな問題点をかかえており、その対応のための出張でした。
訪問地:
・ジェッダ―ジェッダのむっとくる暑さと、つよい日差しに変わりはなかったが、わたしの滞在中に着工していた国際空港は完成し、海浜公園の整備も進んでいて、40キロにわたる海沿いの道路は目映いばかりのソディウム灯に照らし出され、汀に打ち寄せる水しぶきはその灯りの中で白く輝いていた。現場事務所では皆が笑顔で迎えてくれ、顧客関係者も数人が集まって、歓迎の食事会を開いてくれた。2年経って、市内は一様にきれいになり、街のあちらこちらに「ジェッダへようこそ」という歓迎の文字が躍っていた。サウジもここまで変わったのか、という驚きで一杯だった。
・ヤンブ―すでに着工していた二つの製油所建設が佳境に入っており、各々の 現場では数多くの顔見知りの仲間たちが忙しげに立ち働いていた。日中は顧客のもとでの打合せ、現場視察、とくに前年顧客と一緒に選んだ製品の現場での出来栄えには顧客も満足してくれて、内心ほっとした。「御園」という名の日本料理店、そのほかにもレストランが開かれていて、発展途上の賑わいが感じられた。

リヤド・ハイアットホテル

15)1983年5月26日〜6月9日サウジアラビア・リヤド 顧客との契約交渉
アルジュベールに新たに建設が予定されていた石油化学プラント受注に向けての交渉のため、JALでバンコク経由、顧客本社のあった同国首都リヤドへ入りました。メンバーは10人近かったでしょうか、石油依存の同国の経済に陰りが見えてきたせいか、従来には考えられなかったほど顧客の要求事項はきびしくなっていました。その対応のためか、当時の手帳には6月はじめの3日間は、「深夜まで残業、睡眠3時間、睡眠1.5時間」とメモられ、4日目には「頭にキノコ」と走り書きがされています。結局、先行きが見通せないままリヤドを離れ、その足でアルジュベールを訪問した後、ダハ―ランからタイ航空機でサウジを離れました。
訪問地:
・リヤド―リヤドはアラビア半島のほぼ中央に位置した同国の首都で、はじめての訪問だった。ホテルHyatt Regency Riyadh、顧客事務所、夕食のためのレストランの間を行き来しただけで、町の様子はまるで分らず、印象は全く残っていない。食事は日本食の「清水荘」、中華の「漢宮大餐店」、韓国料理の「新羅園」の3店を利用した。命名の由来は忘れたが、「ウラメシヤ」と名付けた中華料理が妙に「跡を引く」味だったことを覚えている。
・アルジュベール―1年4ヶ月振り2度目の訪問であったが、各種プラント、居住区の建設なども着手されていた。所属を同じくしていた仲間が7、8名おり、「国際館」と称する店で、歓迎・送会を開いてくれた。皆元気そうで何よりであった。

ジュベール石油化学モニュメント

16)1984年5月19日〜6月1日サウジアラビア・アルジュベール出張
ちょうど1年前、リヤドで受注に難儀していたプロジェクトが、その年の秋に受注でき、すでに現地ではモニュメントが建ち、工事が始まっていました。JALを利用してバンコクとニューデリーを中継してペルシャ湾の島国バーレーンへ入国し、そこからガルフ航空でダンマン空港へ入るというルートでした。出張の主たる目的は受注した顧客トップに対して本社事務所に用いる内装材のプレゼンでしたが、前年の受注交渉時同様、ハードなお客さんで容易には決まらず、結論は持ち越されるという厳しいものがありました。この出張も連日くたくたになるほどでしたが、同地に駐在していた奥様方の心づくしのもてなしで、ずいぶん救われました。
訪問地:
・アルジュベール―1年ぶりのアルジュベールは見違えるほど変貌していた。とくに充実していたのは居住施設で、家族帯同者は建設中の各種プロジェクト従業員用の住宅があてがわれており、たいへん立派な施設に住んでいた。住宅以外でも、工業地帯全体の管理をしているロイヤル・コミッションのビジターセンターも完成、各社のゲストハウスなども競い合って建設されており、工業地帯完成のあかつきにはさぞかし素晴らしいものになるであろうことが予想された(この稿を書いている現在、すでに第2アルジュベール工業地帯が着工されているとのこと)。前号で書いた日米仏3社コンソーシアムによる製油所建設は佳境に入っており、着工したばかりの石油化学プラントのほかにもいくつかのプロジェクトが進行中で、顔見知りの仲間たちの数も多かった。
中継地:
・バンコク―帰国時、ダハーラン発のTG504便が1時間遅れであったが、その程度の遅れでバンコク発のTG600便に乗れなくなり、結果的にIndra Regentという高級ホテルに泊まれ、バンコクに滞在していた、ジェッダの現場で一緒だった知人とも会えるという幸運に恵まれた。
17)1984年11月20日〜12月6日UAE・アブダビ首長国 ルワイスの既設プラントのメンテナンス業務打合せ
18)1985年1月20日〜2月8日   仝上
19)1985年4月17日〜29日    仝上
1984年11月から翌年の4月までの約6ヶ月の間に3回、アラブ首長国連邦アブダビ・ルワイスへ出張しました。首長国連邦は7ヶ国の首長国で構成されている連邦で、最近では観光地としてとみに有名なドバイもその1首長国であることで知られています。同国へははじめての出張で、二つの意味で心が重くなるものでした。一つは、直数年前にルワイスに尿素プラントを建設しており、そのプラントで発生していたトラブルの解決が求められていたこと、そしてもう一つは、ルワイスでの生活が、フェンスに囲まれ、厳重に警備されたキャンプ(というより収容所みたいなもの)内だったためです。1982年までは楽しい出張がつづいたせいか、1983年以降の出張は、もどってくるとガクッと来るようなつらい出張で、とくに4月後半の数日は、プラントをシャットした数日間内に終わらせる補修工事で、もうくたくたに疲れました。

アブダビ・ラマダホテル

訪問地:
・アブダビ―アブダビは連邦の中での首座で、同時に首長国の首都である。この当時から隣国サウジアラビアと比較すれば解放度が高く、たとえば空港の通関に女性係員が勤務していたり、市内のレストランでアルコールを飲むことなどもでき、サウジに慣れたわたしには驚きであった。
・ルワイス―ルワイスはアブダビから西へ200キロ、ほとんど真一文字の舗装路で結ばれ、むろん途中に信号などはなく、車を飛ばしに飛ばして2時間半のところである。数年前に同業のJGCが衝突事故に巻き込まれたのはこの道である。そのことは(2010年10月 替え歌『ホルムズ海峡夏景色』)に書いたので参照願いたい。キャンプ内への出入りにはパスの提示が求められ、食事はキャンプ内の食堂、それもプラント建設が終了し、メンテナンス要員のみとなったために縮小され、売店なども小さなものがあるだけであった。同国では外国人居住者には定められた本数のアルコールの配給があり、休日ともなればそれを求めてアブダビの食品店へ向かうのが唯一と言ってもよい楽しみだった。それでも、アブダビに向かって東へ向かうときはいいのだが、いざルワイスへもどるために西へ向かうときの心境はつらいものがあった。上記替え歌の歌詞「西へ向かう人の群れは誰も無口で、砂鳴りだけをきいている」、心境をよくとらえた名歌詞だといまでも思っている。
・ダフラ―ルワイスからさらに西へ車で20分ほどのところ。きれいな入江があり、古城を思わせるRamadaホテルがある。キャンプ入門用パスの発行が遅れて、1日だけこのホテルに泊まった。ホテル横の汀は水深15〜20センチと浅く、さざ波もたたぬほど静かな海面には小さなしずくが生じ、そこに陽の光が反射するときらきらと光る。まるで「海の星くず」のようであった。

韓国・蔚山のホテル

20)1985年11月7日〜10日 韓国・ソウル 業者訪問
新しいプロジェクト用に韓国・ソウルの業者が対応可か否かの視察に出張。正直なところ、泊まったホテルがPlazaだったこと以外、ほとんど記憶がない。
21)1986年5月22日〜30日 サウジアラビア・ジェッダから東海岸へ
ジェッダの製油所で発生したトラブル調査のため、急遽サウジアラビアへ。その足でダハ―ランへ向かい、工事中の空港現場に赴任していた若い人の激励をし、アルジュベールですでに完成していた石油化学プラントの本社ビルでのちょっとしたトラブルの処理、その他進行中の現場訪問など、慌ただしい1週間の出張でした。1977年にはじめて訪問してから、何度この国を訪問したのか数えてみたことはありませんが、結果としてこれが最後のサウジ行となりました。
22)1986年9月21日〜24日 韓国・蔚山 現場訪問・現地工場視察
韓国の東海岸蔚山に建設中の石油化学プラントの現場見学および下請け業者の作業内容視察の目的で3泊4日の出張。韓国への入国は数回ありましたが、実務に関しての入国は初めてでした。28年前の当時、現場でのコンクリート構造物の工事、鉄骨製作過程での溶接技術など、不安を抱かせる内容が多く、まだまだの感がつよくしましたが、いまや日本を脅かすまでの技術レベルに達したこと、感無量の思いと屈折した思いとが錯綜し、複雑な感がします。
訪問先:
・蔚山(ウルサン)―JALで釜山へ入り、そこから蔚山までは路線バス。同国内では有数の工業地帯で、いわば「現代グループ」の企業城下町。ホテルー現場間の往復だけだったので、街の様子はまったく記憶なし。
・馬山(マサン)―馬山は釜山の西、ちょうど釜山を中心に北の蔚山と西の馬山がほぼ同じ距離に位置している。現在は近隣との合併で昌原(チャンウオン)となっている。ここでは、蔚山の現場で鉄骨製作を担当する工場での製品の検査をして蔚山のホテルまでもどっただけで、まったく印象に残っていない。
23)1986年11月16日〜23日 インドネシア ジャカルタ・スラバヤほか顧客・現場事務所訪問のほか、現地関連工場の視察
いつごろからだったか、もう記憶が薄れてしまいましたが、インドネシアの首都ジャカルタに建設する石油化学プラントの設計のために、同国の国営エンジ企業のR社がわたしの所属会社に常駐するようになりました。まだ若い技術者の教育のためだったと思います。国の将来を担うという意気込みの盛んな若者たちで、休日などには箱根方面へドライブに誘うなどの歓待をしたものです。同年6月には現場も始まり、その工事に地元の業者がどこまで使えるかの調査に1週間ほど出張しました。現場事務所には知り合いも多く、楽しい出張でした。たまたま、戦時中パレンバンでの民間の石油人たちの活躍を本にしたいと構想を練っていたときで、舞台となったパレンバンをぜひ見ておきたいと思い、休日を利用して、日帰りでスマトラ島のパレンバンへ行ってきました。そのお蔭で、臨場感にあふれた作品になったものと自負しています。そのことは誰も知らないことなのですが、自費で行きましたし、もうとっくに時効になったのだと思っています。
訪問地:
・ジャカルタ―インドネシアの首都であり、平面的に広がった大都市だというイメージだけが残り、その他のことあまり記憶に残っていない。
・スラバヤ―同じジャワ島で、ジャカルタの東650キロほどで同島の東端になる。わたしの年代だと、太平洋戦争の緒戦で「スラバヤ沖海戦」の勝利が頭に残っており、その名はなんとなく親しみのわくものがあった。訪問目的は、市内の鉄骨製作会社が信頼のおける鉄骨を製作できるかどうかの調査であったが、わたし個人としては、ジャワ海を隔てた北のボルネオ島(現カリマンタン)へ渡り、オランウータンに会いたいという強い願望があった。同島では土木の知人が現場勤務をしており、申請すれば顧客の航空機で渡れるからと便宜を図ってくれたのだが、あいにく日程が合わず実現できなかった。今でも、あの愛くるしい姿を見るにつけ、直接会えなかったことが残念でならない。
・パレンバン―スンダ海峡を隔てたスマトラ島のパレンバンはジャカルタから直線距離にしてわずか400キロ、ほんの一飛びである。搭乗機がパレンバン上空まで来て旋回を始めたとき、32年前の2月、旧陸軍の落下傘部隊がこの鬱蒼とした密林めがけてよくまあ飛び降りたものだ、わたしは胸の高鳴りを覚えた。空港でタクシーをチャーターし、市内をめざした。ムシ河、二つの製油所、自分が思い描いていた景色そのままだった。ただ、市内のとある板塀に、いわば「打倒日本!」とおぼしき文字が消されないで残っていたのを見て、戦争の傷跡はまだ残っていることを実感した。
この出張をもって、海外のプラント建設に係る出張は最後となりました。翌年の6月には子会社へ移籍し、そのまま神戸の病院へ出向となり、以後は国内の業務担当となったからです。しかし、長いこと海外の仕事をしていたせいか、国内に長くとどまることは、体に合わないような、息苦しさみたいなものを感じていました。それでも救いはあるもの、国内業務遂行のため、海外の施設見学という名目のツアーに参加できたのです。次号では、「パスポートをさかのぼる(4)」としてその種のツアー、そして海外の業務に参加できるチャンスを得た二つの業務についてまとめ、このシリーズを終わらせることに致します。

(2014年8月)

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