現存12天守

丸岡城天守

わたしは以前からお城が大好きでした。城下町へ行く機会があったときなど、心ワクワクさせたものです。歴史大好き人間を自称する者としては、歴史そのものが凝縮されている城に興味を持つのは当然かも知れませんが、父が生前、同業者仲間との旅行で松本城と犬山城を見学して帰宅した際、「いやあ、たいしたものだ」とすごく感服し、ふだんは無口な父がめずらしく饒舌になっていたことに、あるいは影響を受けたのかも知れません。戦後間もなくの昭和30年、5年の歳月をかけて修理工事が行われた松本城が一般公開された頃のことだったと思います。「お城」と一口にいっても、広義にはいろいろな定義もあるのでしょうが、小文では、皆さまが一般的にイメージされている城、たとえば天守・櫓(やぐら)や城門、あるいは御殿、城内を機能別に区画した曲輪(くるわ 郭の字を使うこともあり、近世では「本丸」、「二の丸」と表すことが多い)、城郭を防禦するための石垣・堀(濠)などを備えたものを指すことにいたします。そうした城というのが、日本にいったいどのくらいあったのか、あるいは現にあるのでしょうか。築城史上では、戦国期末から安土桃山・江戸初期にかけてが城の最盛期だといわれ、その数は3000にも及んだといわれています。大阪夏の陣(1615年)が終わり、徳川幕府の力が諸藩におよび、いわゆる泰平の世になりますと城は一挙に不要となり、170ていどに整理されたようです。別の見方をしますと、江戸時代よく300諸侯(大名)といわれますが、幕府によって廃絶された大名の数は多く、時代によってその数は異なり、幕末まで存続した大名の数は280家だということです。では城の数はそれだけあったかとなると、じつは城持ちになれない陣屋住まいの小大名が115家もありましたから、城持ちの大名の数は165ということになるわけです。大大名によっては、家老に城を与えていたところもあり、徳川時代初期の頃、「一国一城令」により170に整理したというその数は、幕末までほぼ維持されたものと考えられるわけです。

霧の備中松山城

ところで、170ほどあったお城が、現在どのくらい残っているのでしょうか。明治政府は廃城令によって城郭を破壊する政策を取り、明治7〜8年頃には、三分の一ていどの数になってしまったと言われています。古い方はご存知のように、残された城址の多くは陸軍の連隊本部や兵舎など軍の施設として使われた関係で、先の戦時中に空襲を受け、多大な被害を受けてしまっています。ほぼ壊滅したと言ってもよいぐらいです。いうまでもなく城は郷土を代表する歴史遺産であり、その土地の人にとっては心のふるさとともいうべき貴重な文化遺産でもあるわけです。したがって戦後になってから、焼失した各地の天守や櫓、あるいは城門の再建・復興が相次いでなされ、今や貴重な観光資源にもなっているわけです。その数たるやたいへんなもので、深田久弥さんの名著『日本百名山』にあやかってか、2006年には(財)日本城郭協会が「日本100名城」を発表するにいたっています。ただし天守が再建されたといっても、ほとんどはコンクリート造で、わたしなどはあまり感心しないのですが、それでも城郭・城址として多くは史跡・名勝などに指定されています。もっとも100名城に指定されていても内容はピンキリで、総構え(堀・石垣で囲い込まれた城郭という意味)が比較的整ったピンの方の半数ほどが、全国城郭管理者協議会なる団体を結成し、相互に資料や情報交換など横の連絡をしているようです。

伊予松山城入場券

さて、「現存12天守」のことです。江戸時代にあった170ほどの天守がほとんど壊滅状態になった中で、それでも現在、12もの天守が残っています。北から列挙しますと、弘前城、丸岡城(福井県)、松本城、犬山城、彦根城、姫路城、備中松山城(岡山県)、松江城、丸亀城(香川県)、伊予松山城、宇和島城(愛媛県)、高知城です。これはもう奇跡といってもよいほどで、別格的に「現存12天守」と称され、うち姫路・松本・犬山・彦根の4天守は国宝に指定され(姫路城は世界遺産にもなっています)、他の8天守もすべて国の重要文化財になっております。わたしがはじめて訪れた城は、父の影響を受けたせいか松本城で、学生のころ上高地から下山した時のことでした。社会人になってから、国内現場勤務の関係で伊予松山城や松江城と訪れるうちに、12天守だけはぜひ行ってみたいという気持ちがつよくなりました。とはいっても、わたしの国内旅行は仕事にかこつけて行くことが多く、仕事に縁の薄かった東日本の弘前城、丸岡城の二つだけはなかなか機会がなく空しく年月が過ぎていきました。それが、昨年(2012年)秋、青森に行く機会を利用して弘前城を陥落させましたので、最後の丸岡へは自腹を切ってでも、と決めていたところ、4月末に関西へ出かける用ができたついでに福井へ出て、そこからバスで40分ゆられて丸岡城へ行って来ました。最初の松本城訪問から12天守すべてを回るまで、なんと52年も費やしたのです。たいして意味のあることではないのですが、わたしにとっては感激でした。そんなこともあって、現存12天守登閣記念として、小稿をまとめる気になった次第です。以下、12天守について訪れた順に記していきますが、紙数に制限がありますので、城によっては寸評にとどめている点、ご容赦願います。

松本城天守

松本城:地理的に近いせいか、松本城へは学生時代に2回、社会人になってからも3回訪れています。この城のすばらしさは、天守、子天守、それに二つの櫓が美しく連立した平城で、単に美しいだけではなく内部の防禦態勢も十分備わっており、それでいて櫓には朱色の欄干を配すなど、風雅な趣も備えています。そして何よりも、北アルプスが借景となっている点で、天気に恵まれ、雪をいだいた山々を背景にした天守を見られたときなど、ついほれぼれと見とれたものです。
伊予松山城:上の娘が誕生して間もなくのころ、愛媛県菊間町(現今治市)の現場勤務でしばらく家族3人での四国生活をしました。松山から東へ30キロ余り、車で小1時間の所でした。休日にはよく松山へ行き、道後の湯を楽しみ、城へもよく行ったものです。その後も天守に登る機会があり、この城はわたしにとって馴染みのふかいところです。海抜130メートルの勝山々上に建つ天守は小天守、乾櫓などが廊下で結ばれ、松本城、後述の姫路城などと同様に連立式の立派な天守群が形成され、山の中腹に二の丸、三の丸は山麓に設けるなど高度差を巧みに利用した壮大な城造りとなっています。天守へ上がらずとも、市内のどこからでも仰ぎ見られるその姿は美しく、「春やむかし15万石の城下哉」と詠んだ子規も、「わが城」と、さぞや得意な気持ちだっただろうと思われます。
松江城(千鳥城):四国の現場からすぐに対岸の山口・小野田の現場へ移りましたが、そこに滞在中、社員旅行を利用して山陰の松江城に車を駆って行きました。別名の「千鳥」は、宍道湖畔の亀田山丘陵にそびえる姿が、湖面に向かって飛び立っていく千鳥の群れを思わせることからつけられたのでしょうか。しかし可憐な名に似合わず防禦本位に造られた実戦的な風格ある天守です。のちに妻と山陰旅行に行った際、30数年ぶりに再訪しましたが、天守に加え、城下の武家屋敷や濠を含めた城の総構えも立派な城でした。

姫路城入場券

姫路城(白鷺城):山陽新幹線から望む姫路の城は、翼を広げた白鷺の姿に譬えられるほどに美しい。山口で現場勤務していた折、いつかは途中下車してでも行ってみたいと思ったものでした。子会社に移籍してすぐに神戸での病院建設のため3年間単身赴任し、その後、コンサルの仕事で姫路の北東に隣接する加西市へ通うことになったため、この城にはずいぶん訪れました。神戸在住中、家族がバラバラに訪ねてくるたびに案内しましたが、いいかげん飽きるどころか、訪れるたびに受ける感銘度が増していったものです。姫路城のすばらしさは、単に天守が美しいということだけではなく、江戸時代の城郭としての総構えが12天守中、もっとも規模が大きくしかも完成度が高いことにあります。いわば、往時の姿がそのまま残されていると言ってもよいほどで、その点では他の城を圧倒しており、世界でも有数な城だともいえるでしょう。日本で最初に世界文化遺産に登録されたのは当然だと申せます。姫路は先の戦時中の空襲で焼き尽くされ、城も三分の二が焼失したそうです。幸いなことに空襲以前に施された遮蔽ネットにより天守は戦災を免れましたが、これは天佑としか言いようがありません。3つの小天守とそれらを結ぶ渡櫓によって囲まれた天守、西の丸・長局(ながつぼね)と天守とを結ぶ途中の「はの門」に至る狭間(時代劇の撮影などでよく出てきます)、そして15を数える城門などなど、日本の城のすばらしさを随所で味わうことができます。唯一残念なのは、城中に存在していた御殿が明治維新での取り壊し、あるいは空襲による焼失で存在していないこと、そして欲をいうなら、往時には現JR姫路駅まであったという外曲輪を見ることができないことだと言えましょうか。

彦根城入場券

彦根城・高知城:神戸に滞在していたことで、そこをベースに彦根城と高知城にも行くことができました。彦根へは、関西在住の知人に会いに来た妻を送りがてら彦根で途中下車して登城したもので、高知城へは、神戸での病院計画のために、院内情報システムが進んでいた高知大病院を見学する機会を利用したものです。豊臣家いまだ健在の時期、大阪側への備えとして築城された彦根城天守は、いかにも徳川きっての忠臣であり武辺者だった井伊家の居城にふさわしい重厚さと荘厳さを兼ね備えており、城郭内の緑がとりわけ多く落ち着いた雰囲気を持っています。国宝に指定されたのは、その辺りのことが理由だと思われます。高知城は天守と本丸御殿とがそろって現存している稀有な遺構で、追手門なども豪壮な造りで古城の思いをつよく感じさせました。
犬山城(白帝城):神戸での単身赴任が終わり、社会人になって初めての経験だった年間を通して出張のない生活を享受していたとき、妻と二人で犬山城から高山方面へのドライブを楽しみました。小ぶりではありますが、木曽川に突き出た丘陵上に建つ白亜の天守の美しさは、荻生徂徠が「白帝城に比せられる」と称したほどで、むかし父がすばらしかったと感服したことがよく理解できただけでなく、ある種の懐かしさを呼び起されたものです。

丸亀城の石垣

丸亀城:汽車で予讃線を通るたびに目に入ってくる、この城の小さいながらも美しい天守を見て、いつかはと念じていましたが、2007年ごろ高松から丸亀・善通寺辺りへの出張が多く、願がかなえられました。この城の特長は、何と言っても石垣にあり、いろいろな手法が見受けられました。なかでも二の丸の20メートルを超える打込みハギ(布積み)は見事なものでした。
宇和島城:むかし愛媛に滞在していた折、松山まではよく行くチャンスがありましたが、その先へは列車の便がわるく行くことができませんでした。7、8年ほど前になりますが、愛媛・内子町への出張があり、その際に思いきって宇和島まで足を延ばしました。いかにも築城の名人藤堂高虎の縄張りらしく、調和のとれた美しい天守でした。
備中松山城:海抜430メートルの臥牛山々頂に建つ、12天守中唯一の山城です。兵庫の山間部で列車の便もわるく、わたしにはもっとも縁の薄い城と思っていましたが、兵庫・加西への出張時を利用して、駆け足のようにして訪れました。山頂の霧の中に天守が浮かび上がった姿は、それは幻想的で感動をおぼえたものです。城主水谷勝美の嗣子なきために改易された際、城受け取りの役が赤穂藩家老大石内蔵助だったことは、神のいたずらとしか思えないほど不思議な巡り合わせと申せましょう。

弘前城天守

弘前城:桜の名所としてつとに有名ですが、朱塗りの下乗橋を通して見る天守の姿は小ぶりながら美しく、城郭の総構えもよく整っている城でした。
丸岡城:一説では現存天守として日本最古ですが、戦後すぐの福井大地震で石垣もろとも倒壊、古材を使ってそのまま修復された天守です。白壁(塗籠造り)の少ない下見板張り、地元産出の笏谷石を加工した瓦を用いた屋根がめずらしく、一見して古さを感じさせる風格のある天守でした。
以上、12天守すべてを登閣してみての感想としては、さすがに江戸時代の建造物であり、往時そこを武者たちが行き来し、城によってはそこで血なまぐさい戦闘もあったのかと思うと、そこにいるだけで歴史の息吹を感じ、歴史の重さに圧倒される思いでした。一応は目的を達したわけですが、それで終わりということではなく、これからも機会をとらえては城回りをつづけたいと思っています。というのも、12天守以外でも、江戸探訪をする中で知った江戸城総構えの桁違いの壮大さ、大阪城のように、鉄骨・鉄筋コンクリート造りとはいえ戦後の建設ブームに便乗して造られたのではなく、昭和のはじめに文献調査にもとづき忠実に復興された天守、あるいは郡上八幡城のように大正期に復元された木造の天守などもあるわけです。そうした城郭は、後世の人の目から見るならば、いずれは国の宝と称するに値する立派な城郭だといえるのではないでしょうか。ただ一方で、江戸城天守の復元とか小田原城天守(現在はコンクリート造)の木造での再建の話などが耳に入ってきますが、そうした取って付けたような意味のない復元だけはやめていただきたいと切に念じております。

(2013年6月)

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