古寺巡礼から古都の逍遥へ(1)

趣味は何か、と問われたとき、わたしは気の向くままに「古寺巡礼です」と答えることがあります。いつもではありません。まさに気の向くままで、要するに趣味というにはおこがましいほど、いいかげんだからです。高校のとき親炙(しんしゃ)していた絵の先生から聴いた修学院離宮や大仙院の石庭などの話に魅了され、いつか自分も古寺を歩きたいと思っていましたから、そのときから古寺が好きになったのは事実です。大学では建築史の授業で田辺泰先生の講義にも魅了され、春休みといえば、かならず京都・奈良へ足を運び、自分の目で古建築を見て回りました。そのことがきっかけで、大安寺さんに懇意にしていただき(2010年1月「南都大安寺」参照)、一般論でいえば、古寺を見て歩くこと、いまでも大好きです。それなのに持って回ったような表現をとったのは、一つの理由として、わたしが古寺を訪ねる思いは巡礼とは言えないのではないか、と思うからです。もう一点は、趣味というからには、何か生活の一部を犠牲にしてでものめり込んでいく、そんな熱いものでなければいけないのでは、と思うからです。その意味からいえば、社会人になってからのわたしは、仕事にかまけて古都へは足が遠のき、何かの機会をとらえて、ついでに古都に立ち寄るていどという姿勢を貫いております。最近になっても同じようなもので、とくに昨今は経済的な理由もあって、足の向くままに旅するなんて贅沢なことが出来なくなっています。昨年の例でいえば、青森に所用ができた機会に弘前へ足を延ばして市内・最勝院の五重塔を見てきたとか、兵庫県の三田へ行ったついでに京都で途中下車して、久しぶりに三十三間堂内の諸尊にご挨拶してきた、といった調子です。どう考えても、「趣味は古寺巡礼だ」とは言いにくいのです。

学生時代には、それに社会人になってからも海外へ出るまでは、曲りなりに古寺によく足を運びました。日本建築史の授業で得た知見を、実際に自分の足で巡り、実物を目にすることで確認したいと思ったからです。したがって、はじめのうちは建物が主で、仏像と庭園が従の考えで古寺を巡りました。手引書のつもりで、定番である和辻哲郎の『古寺巡禮』、亀井勝一郎『大和古寺風物誌』、そして北川桃雄『古塔巡歴』などを次々と買い求めました。和辻の本だけは新刊で購入しましたが、あとの2冊は古本でした。熟読とまではいきませんでしたが、一通りは目を通したつもりです。和辻の本は古寺めぐりの先駆的な書として評価の高いものですが、同時期に読んだ『風土』の方は、読んでいてすんなりと頭に入ってきたのに対し、『古寺巡禮』は、わたしにとっては高度すぎるのか、どう評価してよいものかいまだにわからないでいます。哲学者・倫理学者である和辻と違って、東大・美学出身の亀井の『大和古寺風物誌』は、題名が風物誌そのままに、わたしにとっては読みやすく感じました。書かれた内容は、題名とはことなり、かなり格調高く、むしろこの本のほうから「古寺巡禮」を感じた気がしています。とくに文中の、「あゝ塔がみえる、塔がみえる―そう思ったとき、その場で車をすてゝ、塔をめざしてまっすぐに歩いて行く。これが古寺巡禮の風情といふものではなかろうかと思ふ」、という一節が私のお気に入りで、わたし自身、古塔が大好きなこともあって、亀井の心情に今でもなお魅かれています。その影響もあってか、日本橋の白木屋(懐かしい名ですネ)で催された「文車の会」主催の「古籍大即売展示会」で北川の『古塔巡歴』を見つけたときは、もうかなり傷んだ本でしたが、すぐに購入しました。北川も東大で美術史を専攻しており、古塔について書かれた内容は格調高く、かつ面白く、いまでも時折取り出しては参考にしております。

ところで、わたしの古寺めぐりは建物を求めて、と書きましたが、ある時から志向が変わってきました。そのきっかけは、南都大安寺ではじめてお目にかかり、いまでもお付き合いしている大坪正義さんの影響です。大坪さんは、日本建築史の大家、横浜国大・大岡實先生の研究室のご出身です。大安寺へは、わたしの場合は写真家永野太造氏の紹介でお世話になるようになったのですが、大坪さんは大岡先生が大安寺で発掘のお仕事をされていた頃からで、大安寺では大先輩でした。布団を並べて寝る前など、古寺のいろいろなことを聞かせてもらいました。市内の小さな珠玉のような寺、たとえば十輪院や福智院などへも連れて行ってくれました。その大坪さんが、古寺をめぐる目的は「仏像だ!」というのです。「えっ!大岡研究室の方がどうして?」、しばし不可思議に思いました。建物と仏像、いわば一体ものですから、どちらがということはないのでしょうが、いつのころからか、わたしの古寺めぐりも「建物と仏像を一体」にとらえるようになり、最近では、「仏像」が主だという思いになっています。なぜ志向が変わるようになったのか、それは仏像に魅かれるようになったから、ではあまり答えになっていないかもしれませませんね。じつは、わたしは平重衡によって火をかけられた東大寺を再興した大勧進「俊乗坊重源」が大好きで、彼が建立した大仏様式の建物を求めて、兵庫県小野市の浄土寺を訪ねたことがありました。そこの浄土堂(国宝)はじつに見事な造りで、さすが重源の思いをつよくしましたが、じつはそれ以上に、堂内の阿弥陀三尊像(快慶作・国宝)がすばらしかったのです。ご住職さんのご厚意で、堂内の蔀(しとみ)戸を開けてくれたのですが、ちょうど日が傾きはじめた刻で、夕日が開け放たれた堂内に入り、阿弥陀さまの輪光背(光背のうち一面が覆い隠されていないもの)を通して像全体が光に包まれていたのです。ご住職は「仏さまが西方から降りてきたようでしょう」、とお堂の中に西方極楽浄土の光景が生み出されていることを説明してくださいました。わたしは、まばゆい光につつまれた中で、須弥壇を含めれば7メートルをこえる大きな阿弥陀如来立像を見上げながら、平安の昔、貴族が求めた「極楽浄土かくありなむ」を実感したのです。と同時に、像を守るお堂(大仏様式の代表作)との一体感、わたしたちが古寺に魅かれるのはこの点なのだ、と思ったものでした。

ここ数年、わたしは川崎大師教学研究所講堂で行われている「川崎大師仏教文化講座」を聴講しています。一昨年秋でしたか、大正大学の廣澤隆之先生の『真言密教と美術』のお話の中で、先生は「和辻先生の本はたしかにすばらしいが、仏教学の立場からいうと、若干の不満がある」、と言われたことがあります。廣澤先生の言い分は、仏像というのは、彫刻として単に美的な面だけからとらえるのではなく、仏像の一つ一つが仏教の教え、もっと端的にいえば経典に基づいて造られているのだから、その面からもとらえてほしい、ということだったと思います。講座での先生のお話の中心は、日本へはじめて密教をもたらした空海(弘法大師)に下賜された京都・教王護国寺(東寺)講堂に、真言密教の真髄を伝える道場としての立体曼荼羅が、密教の経典を根拠に顕現されている、というのです。講堂内には、大日如来を中心に五仏(如来)、五菩薩、五大明王、そして各天部の諸尊が「金剛頂経」に基づいて配置されているとして諸尊の説明をしてくれました。じつは似たような話を、数年前の横浜・金沢文庫主催の講座『運慶を学ぶ』でも聴きました。それによりますと、すでに盛名のあった運慶は東寺講堂の諸尊像の修理にたずさわり、真言密教の根本像ともいえる諸像の修理はその後の運慶の造像に大きな影響をもたらした、というものでした。いずれもたいへん面白く、興味のわく話でしたが、正直なところ、そのときはよく理解できなかったというのが本音でした。たしかに、そういわれてみますと、和辻の『古寺巡禮』は仏像を作品としてとらえ、その歴史・背景などについてはよく書かれていますが、仏典にまでは立ち入っていません(読んだのは昔のことで、記憶は茫々としていますが)。その点からいえば、亀井のほうは文中で「大和の古佛に接してから、経文をよみ、信仰について思ひめぐらすやうになった」、と書いています。さすが、ですね。とは申せ、仏像に関する本などで、仏像は蓮華蔵世界観に基づき造形されているとか、材料一つにしても「法華経」の中の作仏法に指定されている、あるいは平安以降の阿弥陀仏像の極楽浄土思想などについて、よく紹介されていますが、あまり難しいことをいわれても、わたしたちにはわかりにくいですよね。わたしは、こう考えております。仏像などに接するとき、たとえば、目・鼻・耳たぶの形や肩の線などが時代によってどのように変遷しているか、あるいは玉眼が入っていれば鎌倉期以降だといったような、あるていどの知識を持つということはその仏さまを理解し、さらに興味をいだくようになるためには決してわるいことではないと思っています。だからといって、たとえば普賢菩薩のことは「華厳経」に書かれていると言われても、経典の知識のない者にとっては、何のことだかさっぱりわかりませんし、あまり細かいところまで気にかける必要はないと思うのです。仏さまから受ける印象そのままに、むしろ仏像を美の対象としてとらえても、それはそれでいいのだと思うのです。自分の好みで仏像に接することが、結局は、一番自然の姿なのではないでしょうか。一事が万事そういうあいまいさのあるわたしのこと、体力のおとろえもありますし、何かを求めて古寺をめぐるという堅苦しさはすてて、最近では古都を気ままに逍遥する、その方が性に合うな、と思っています。次回はそのことを一文にするつもりです。

(2014年2月)

ホームに戻る

前の月の履歴を読む

次の月の履歴を読む