幻に終わった談志の寄席

キャンプ全景

わたしがサウジアラビアに滞在していた1970年代の後半、同国は、当時の金額で75兆円という巨額が投資された第三次五カ年計画の真只中、まさに経済状況はなやかなりし頃でした。滞在していたのは「紅海の花嫁」と称されていた西海岸のジェッダで、その地の製油所の増設工事に従事していました。
経済活動が盛んだったこともあり、滞在していた日本人の数は多く、200名はいたように記憶しています。大規模な建設工事というのはわたしが所属していた会社だけでしたから、単一企業としての人数は一番多く、100名ほどでした。家族を帯同し市内に住んでいた数家族を除いて、他の者は市の東北部に位置していた広大な空き地(砂漠)にキャンプを建設して住んでいました。
建物の多くは簡単な組み立てハウスでしたが、前任の責任者のおかげで、おいしい日本食が食べられる食堂や、「女湯」の粋なのれんのかかったタイル張りの大浴場があり、日常の生活にはほとんど不自由しませんでした。
少しでも心が癒されるよう、構内の緑化にも配慮し、野球やサッカー用の運動施設、それに自分たちで造成したハーフコースのゴルフ場(バンカーには現場から出る廃材を利用、グリーン上は芝代わりに油を散布)もありましたので、休日ともなれば、楽しみにくる日本人の姿が結構見られたものでした。

構内に設置した水タンク

JALのジェッダ駐在事務所を通じて、立川談志師匠の寄席をこの地で開催したいので協力してほしいという話が持ち込まれたのは、1979年10月半ばのことでした。日本から送られてくる「寅さんもの」の映写会がキャンプ内の広場でたまに行われるほかに、ジェッダではこれといった娯楽がなかったので、この話は渡りに船とばかり大歓迎でした。
話はとんとん拍子に進み、談志師匠との折衝その他、興行に関する準備はJALが行い、その他の、会場の提供・設営、飲み物の準備などはわたし共が行うことになりました。現地の日本人会へも連絡され、楽しみにしているむねの声が伝わってきました。
とくに、サウジ国内では女性の運転が認められていない関係で日中は外出ができず、家の中に閉じこもりがちだったご夫人方から大歓迎されたようです。席亭の設営はわたし自身が担当し、使える資源を最大限に動員しました。いろいろな職人さんをかかえていましたので、席亭の設営などお手のものでした。
食堂内に立派な舞台をしつらえ、厨房用の事務所を急拵えの楽屋としました。大きな紫色の座布団をわざわざ日本から持ち込んでいたとび職の親方からは、当日に貸してもらえる約束も取り付けました。市内のスーク(市場のこと)で緑色と淡い茶色の2色の生地を手に入れ、それを縫い合わせて寄席の気分を少しでも出せるよう壁に張りめぐらし、マイク、照明などの用意もでき、準備は万端整えました。 高温多湿の土地柄ゆえ、師匠が到着したら件(くだん)の女湯で汗でも流してもらおうと、浴場内の清掃も念入りにしました。

構内緑化

思いもよらぬ事件が発生したのは、最初にこの話が持ち上がってから、かれこれ1ヶ月も経った頃のことでした。ある朝、製油所内へ入構しようとしたら、カービン銃を手にした目つきの鋭いナショナルガード(サウジアラビア国家警備隊)の兵士の数が大幅に増え、ゲートの警備が厳重になっていたのです。
いつもなら、「アッサラーム・アライクム(ご機嫌いかが)?」と声をかけさえすればゲートは自由に通れたのに、その朝にかぎっては、車から降ろされ、トランクルームを開けさせられました。その上、兵士たちは銃先で車中のいたるところをチェックし始めたのです。何か異変のあったことぐらいは察せられましたが、それが何かは見当もつきませんでした。
翌日には、どうもメッカ(正式呼称はマッカ)で事件があったらしいという噂が、現地人(出稼ぎに来ている周辺諸国の人)たちの間でまことしやかにささやかれ始めていました。その噂に根拠のあることは、日本との交信で確認されました。「11月21日(この日はイスラム歴で、ちょうど1400年1月1日にあたる)に聖都メッカで暴動が発生した模様であるが、詳細は不明」と日本の新聞で報じられたというのです。交信では、追っかけるように、「状況をくわしく知らせるように」というのですが、あいにく知らせようにも何もわからないというのが実状でした。奇妙な話ですが、むしろ何かわかったらそちらから教えてよ、と頼むほどでした。警備は日が経つにつれ厳しさを増し、ゆるむ気配はまったくありませんでした。ナショナルガードの隊員は、ほとんど全員がべドウィン(砂漠の徒)の出身であり、国家に忠実なあまり、ふだんから外国人に対しては、必要以上に厳しい態度で接するのが常でした。それだけに、非常事態発生下で100人もの日本人、300人を超える現地人労務者(東はフィリピン人から西はアフリカ・スーダン人)の身を預かる者として、双方が神経をいらだたせて、つまらないことから不祥事に発展することのないよう気を遣うことは、たいへんな気苦労でした。そのような状況下で、事務所によく出入りしていたエージェントの一人が、信頼できる筋の情報として、「王室内の内紛説」をもたらしました。それは、わたしたちが一番恐れていた事でした。もしそれが事実なら、国内は内戦状態になるわけで、国外退去を含めて、事態は深刻化します。さいわい、その情報はデマに過ぎないことが判明し、安堵しましたが、事態そのものは好転することもなく、事件発生1週間後には、外国人に対して集会禁止令が正式に出され、それを受けて日本大使館からも、そのむねの確認の連絡が入りました。日本人会がキャンプ内の運動場で予定していた運動会はさっそく中止になりました。問題は談志師匠の寄席をどうするかでした。寄席のことは、もう日本人の誰もが知っており、中にはリヤドから空路はるばる聴きにくるという好事家も出ているほどでした。せっかくの計画がふいになってしまうことは惜しかったし、日本の伝統的な芸能を演ずるだけなので、サウジ当局も理解してくれるはずだ、という希望的な意見もつよく出されました。そうこうするうちに、JAL側からは、師匠が日本を発ったという情報も寄せられました。もう躊躇できない。日中、白日の下で行われる運動会をやめたのに、夜間、日本人キャンプの中で、何か訳の分からない集会が行われたというのでは、どこからか密告されないとも限らない。もし、開演中に当局から中止の命令でも出されようものなら、遠来の談志師匠にたいへん失礼なことになってしまう。結局、寄席は中止とし、師匠の入国を止めるため、JALの担当者は急遽バーレン(ペルシャ湾上の島国で、航空路の中継地)へ飛びました。こうして、楽しみにしていた「談志寄席」は幻に終わってしまったのです。事情はともかく、中東サウジアラビアを目前にしながら戻ることになった談志師匠には、たいへん失礼な結果となってしまいましたが、師匠の心中いかばかりだったか、いまとなっては知るよしもありません。
聖地メッカがイスラム原理主義者たちによって占拠されたいわゆるメッカ事件は、鎮圧されるまでかれこれ1ヶ月はかかったのでしょう。その実情は外国人にはよくわからないまま収束し、いつの間にか、ふだんの日常生活は戻りました。
それから9ヶ月後、わたしはサウジアラビアを去り、帰国の途につきました。タイ・バンコックからのJAL機中の「日航名人会」の演者は三遊亭圓楽(5代目)でした。日本を離れる頃は、まだTVで「星の王子さま」などともてはやされ、わたしは好きではなかったのですが、イヤホーンを通して聴いた圓楽の噺に、「えっ!」と驚かされました。帰国できる喜びに浸っていたときとはいえ、彼の噺には魅了されました。これはすごい、いずれ落語界を背負って立つのではないか、とさえ思いました。談志を抜いたな、これがわたしの率直な印象でした。

(注記)
本稿は、企業OBペンクラブ同人誌『悠遊』創刊号(1994年4月)に載せた文に加筆・訂正したものです。

(2012年 1月)

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