同じ教室で学んだ尊敬すべき先学のこと(5)

3.その他の先学
これまでは同じ教室で学んだ学友、すなわち中学から2名、大学から2名の計4名の先学を選び、紹介してきました。わたしにとってはもう一人、尊敬すべき友がおります。音楽教育学者の河口道朗氏です。じつは、氏とは学校を同じくしたことはなく、とうぜん同じ教室で学んだことはありません。ただ、同じ学齢だということで、記述してきた4名の先学の方々と同じ扱いで5人目の先学として記述したいと考えております。ただ、河口兄はこれまでよく学兄ということばを使っていましたので、わたしも、見出し上は河口道朗学兄と称し、文中では従前どおり兄表示のままとします。
⑫河口道朗学兄のこと
河口兄と初めてお会いしたのは、わたしが親元を離れ世田谷の日本住宅公団・芦花公園団地の単身寮に住むようになった昭和38年(1973年)のことでした。結婚するまでのわずか2年間でしたが、タタミわずか3畳にキッチン・セット付の狭い部屋でしたが、はじめて両親から独立しての単身生活は、「狭いながらも楽しい我が家」で、ルンルン気分を満喫していました。難点といえば共同風呂がなかったことですが、そのことは逆に単身寮の住人仲間の間で、顔見知りに会えば口を開きやすいという利点にもなりました。河口兄とはふろ屋仲間として、会えば親しく口を利く間柄になったのです。入浴しながらなにげなく話す話題の中に、共同風呂のない不便さがあり、なんとか公団に建設させる手立てはないものか、単身寮生活の上で喫緊の関心事になりました。この風呂プロジェクトはすぐに関心をよび、まず会社員ながら公党員として活発に政治活動しているYさんが、ついで京都新聞社の記者の方(すぐ京都勤務になり脱退)が話の輪に入ってきました。結局、Yさんが仲間に加わり3人のグループが発足したのですが、じつはYさんは公党活動の一つである歴史学者の網野善彦先生を囲む会とご縁があり、先生のお住まいが芦花公園団地だということをよくご存じだったのです。渡りに船とはこのことをいうのでしょうか、風呂プロジェクトはいつのまにか消えてしまい、「網野先生を囲む三人の会」が自然の成り行き的に結成されたのです。三人の会は先生のご都合次第で二か月に1回ほど、先生のご自宅に集まっていました。団地の中では最も広かった3LDKの間取りでしたが、むろんタタミ3畳の部屋とは比較にならない大きな空間のはずなのですが、失礼ながらその広さをまったく感じさせませんでした。三人のお子様用の部屋はキープされているのですが、それ以外はいずれの部屋にも膨大な量の書物が積み重ねられていたのです。天袋という天袋にも見受けるのは書物だけ、それも専門の分厚い書物、これには驚きました。と同時に、わたしはすっかり魅了されたのです。むろん書物の多いことにですが、それ以上に歴史学者として研究に打ち込んでいる姿が目に浮かんできて、わたしはすっかりその姿に取り付かれ、網野先生に私淑することにしました。ひそかに取り組んでいた俊乗坊重源上人についても相談にのっていただいたものでした。
ところで、かんじんの河口兄のことです。彼は熊本のご出身、熊本大学を出られて、東京の国立音楽大専攻科で学ばれたあと、東京教育大大学院教育学研究科修士課程を終了後、東京学芸大学に奉職されました。教授になって間もなくヨーロッパへ留学し、(筑波大)教育学博士を取得され、名誉教授で退官後は日本女子大・上野学園大学でも教鞭をとるなど、音楽教育の研究一筋を通し、音楽教育史学会代表などを務めました。わたしが彼と交誼を結ぶようになったのは、かれが国立音大の専攻科を終了して私立の名門中学で音楽教師を務めていたころで、また結婚して熊本から新妻を迎えようとしていたころでした。予定していた新居が手違いから入居できなくなり、芦花公園のかれの単身寮に数日借り住まいということになり、「三人の会」の仲間が協力して管理人・他室の住人たちのめくらだましに協力するといった、ほろ苦い経験もしております。そのようなことから、河口兄とは先学というよりは家族ぐるみでお付き合いをしてきた友で、相手の研究心の高さに対する敬意を込めての尊称として学兄と称しています。

⑬河口学兄の著作
河口兄も共著をふくめれば相当数の著作をのこされておりますが、そのうちわたしが献本を受け、手元に保存している6冊の著作を以下に記載します。
・『音楽教育の理論と歴史』  音楽之友社
人間の自由な精神活動にもとづく芸術としての音楽という基本理念から、音楽教育のあり方と目ざすべき方向性を論じた兄単独での初の著作。
・『最新音楽教育事典』  開成出版
音楽教育の実践と研究の歴史は長いが、学術的な事典の公刊(ドイツ)は初めてのことで、河口兄はドイツ留学中にいち早く目を付け翻訳に着手しました。大きな事典ですから、彼の監修のもと、担当された訳者は30名にもおよんでいます。
・『ペスタロッツィ主義唱歌教育論の研究』  博士論文概要(自費出版)
・『現代中国音楽教育論』(曹 理 編著  河口 道朗 訳)  開成出版
・『音楽教育の原理 音楽学習過程の論理と思想』  開成出版
・『音楽文化 戦時・戦後』(ナショナリズムとデモクラシーの学校教育)  社会評論社
副題として『愛国行進曲』から『リンゴの歌』へとあるように、戦時ナショナリズムから戦後民主化の時期にかけて変質する音楽教育の流れを分析した、兄としてはめずらしい一般向けの著作。4年弱ほど前まで先の戦争をまたぐように生きてきた、河口兄と同世代であるわたしにとっては興味のある分野であり、そのことがたいへんわかりやすく記述されている好著です。文中で、NHKの『のどじまん放送』で出場したシベリアからの復員軍人が歌った『異国の丘』のことがふれられていますが、その放送録音時にたまたまわたしは会場にいたことで、なおいっそうこの著作に好感をよせてよせています。

⑭付 加(つけくわえ)
中学三年生のとき、思わぬことから音楽の先生とぶつかってしまい、音楽の授業というものにすっかり嫌気がさしてしまったわたしは、音符にたいする知識がまったくないままに成人になってしまいました。しかし、音楽そのものは大好きで、耳のこえたクラシックフアンではありませんが、オーケストラの演奏会とは別に、チェロの演奏が大好きでヨーヨー・マをはじめ、カザルス、デユ・プレといった名演奏家のディスクを買っては聞きほれたものです。なぜチェロを好きになるのか、いわば音楽音痴みたいなわたしが、いくら考えたところで分かりませんので河口兄にお会いした折に聞いてみたところ、受けた説明はこうでした。チェロの4本弦のうち1番下のC2音は男声のバスと同じ音、1番高い音を出すA3弦は女声の地声あるいはそれ以上の音も出せるので、人間の声の音域に一番近い音を出せる楽器がチェロだと言われている。したがって、人間が様々なシーンに応じて表情豊かに歌うことができるように、チェロも感情豊かな音色を奏でるのでしょう。たしかに、音色を聴いているだけで、感動的だ、悲しい、あるいは、かっこいいな、と感じるのはそのせいなのかと、なんとなくわかったような気がしました。宮沢賢治の童話『セロ弾きのゴーシュ』では、チェロを弾くゴーシュを三毛猫、かっこう、野ねずみの親子、あるいは狸の子といった小動物が現れては、ゴーシュに一言かけていきます。本を読んだだけではその意味合いがわからなかったのですが、小動物はゴーシュの弾くチェロの音色に癒(いやし)を求めており、その音色を妨げるような何かに(例えば弦がきれそうだとか、)気がつけば、ゴーシュにささやくように、それとなく知らせているのだそうです。そういえば、賢治も地元演奏楽団のチェロ奏者だそうですね。
せっかく発足した「三人の会」でしたが、三人はたまたま結婚適齢期であったため、結婚とともに芦花公園をそれぞれ離れていき、網野先生も名古屋大学に助教授の職を得られて、名古屋へ向かいました。わたしの結婚は昭和40年〈1965年)の秋で、その年をまたいでの数年ほど、敦賀、愛媛の菊間町、そして宇部・小野田と現場を家族帯同で渡り歩いておりました。ひと足先に家族をかえし、小野田からの単身での引き揚げは昭和45年の春、神戸から東京まで愛車スバル360を駆っての帰京でした。途中名古屋で、先生宅へ立ち寄ったのですが、時間帯がわるく先生はお留守で、奥様の真知子さまにご挨拶するだけで失礼しました。気のせいか、芦花公園の頃よりお元気そうで、部屋内もはるかに整理されていたようでした。その頃の書籍・資料の類はかなり大学の研究室に移されたそうで、ずいぶん広くなったでしょう、と奥様はにこやかな表情をなさっていました。
網野先生が東京へお戻りになったのは、昭和55年〈1980年)のことでした。先生が大学卒業後に勤められていた日本常民文化研究所の神奈川大学への招致にともない、先生も同大学短期大学部に移られることになったためです。「三人の会」も息を吹き返しました。さっそくお会いできないかとお声がけしたのですが、いままで存続していた研究所の調査・研究内容を、新たに大学内の組織の中で軌道にのせることの難しさ、さらに教授としての研究・授業もあり、落ち着くまで時間がほしいということでした。わたしはわたしなりに、抱えていた海外業務が多忙をきわめていたし、また2年間滞在したサウジアラビアに関する原稿が脱稿され、、出版(『サウジアラビアおもてうら』昭和58年1月出版)の見通しが立ってからということで、結局、各人奥さま同伴で新宿でお会いできたのは昭和58年晩秋になってからでした。全員そろって顔を合わせたのは20年振りだったでしょうか。それだけ長いあいだお会いせずにいたのですから、積もる話の切れることはないのではと思うほどでした。わたしにとって特にうれしかったのは、先生が神奈川大・常民文化研究所で教鞭をとり研究をなさるようになったということで、尊敬すべき先学として〈3〉で紹介した西 和夫兄と網野先生とがごく近い、親しい関係になったということです。常民文化研究所側の代表格である網野先生としては、新しいオーナーである神奈川大学の組織に組み込んでいただく上でオーナー側の西兄の力は大きく、西兄としては専門とする建築史学上、網野先生が長年研究されている奥能登の時國家(ときくにけ)の文献史学から得るところ大であったと、後日たびたび両先学から喜びの声を聞いたものでした。残念なことに網野先生は、「網野史学」を打ち立てたところで平成16年(2014年)にご逝去され、「三人の会」も年長のYさんがお体をわるくされ、河口兄とわたしの二人だけになってしまいました。さびしい限りです。

(了)

(本シリーズはこの号をもって最終といたします)

(2025年8月)



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