同じ教室で学んだ尊敬すべき先学のこと(4)

⑨木島安史兄のこと
木島安史(やすふみ)兄は教育大学付属高校からの進学で、西 和夫兄同様たいへんな秀才です。前号で書きましたように、建築学教室内でのふだんの授業となると、自分の席の周りはいつもとかわらない顔なじみばかりで、よほどのことでもなければ二人と顔を合わせることも、ましてや会話を交わすこともなく、まるで次元がちがう世界で建築を学んでいたような気がしています。ただ、教室外の出来事で、木島兄がふだん感じさせたことのないような意志のつよい側面を見せつけたことがありました。昭和35年(1960年)の安保改定阻止デモのときでした。いつものように授業に出たのですが、理工学部もデモに参加すべきではないかと、各自製図に必要な「T定規」を持ってデモに参加しました。理工学生のデモ参加などは建学以来初めてのことで血わき肉おどる思いでした。とはいえ、そのような気分の高揚ははじめのうちだけで、目白通りを歩いて飯田橋から環状線内へ入り目的地の有楽町東口についたときには、解散の声にその場で座り込む始末でした。そのとき木島兄がすくっと皆の前に立ち、自分はこれから国会に行き、そこのデモ隊と合流するつもり。よかったらご一緒しないかと声がけをしたのです。が残念ながら、わたしを含めて応じるものは学友Sのほかにおらず、去って行く二人の背中越しに拍手を送っただけでした。学年が上がるにつれて教室での授業中に、たとえばW教授などは、「K君の……」、と彼の名前をよく出してはたとえ話をしていましたので、建築学教室内では彼は注目されている学生なのだな、と暗黙のうちに察してはいました。次元のちがいは、卒業後は当然のことながら、ますます大きく広がって行きました。
「次元のちがい」とは具体的にはどういうことを指しているのか?一つの具体例を挙げてみましょう。卒業が近くなりますと、進路の話とは別に海外渡航の話も教室内で活発になります。海外へとなれば先立つのは費用捻出のためのスポンサー探しです。しかしながら大学を卒業するというだけで、その学生のための海外旅行費用を負担するなんて甘い話はあろうはずはないですね。学友たちの空騒ぎをよそに、木島兄は1962年の卒業式前に静かに姿を消しました。うわさでは、おなじく大学院へ進む友人Kと示し合わせてのインド旅行だと流布していました。しかし彼の次元の違いはここからです。彼はすでにスペイン政府給費留学生の資格を取得しており、インド旅行中にパンジャップ州のチャンディガールへ行き、その地の新州都建設事務所でアルバイトに従事したのです。仕事の内容は世界的な建築家ル・コルビュジェ設計の大学体育館建設業務で、彼は得手にしていたフランス語を活かして十分にコルビュジェの謦咳に接することができたようです。またスペインでの留学先として、学校ではなくマドリードのエドアルド・トロハ研究所を希望していました。トロハというのはスペインの著名な構造設計家で、わたしなども彼の作品を扱った雑誌などを見てはあこがれたものでした。ただ残念なことに前年に亡くなられており、木島兄はご本人に会うことはできなかったのです。その代わりに、トロハの創設したIASS(国際シェル・空間構造学会)の活動の実態を知ることができ、のちに彼の設計活動に大きく寄与することになったのです。翌年、彼は軸足をフランス・パリに移し、そこの事務所で働きながら気ままにヨーロッパを旅することで、社会へ出たのちの己の建築観をどのように醸成していくか、新鮮な頭にたっぷりと沁み込ませていたのではないでしょうか。帰国後、大学院(吉阪隆正研究室)へもどり、1966年に修士課程の修了ともに、丹下健三先生のもとで一年の修業をして、この年をもって木島兄の学ぶたちばでの修業を終え、いよいよ彼の教えるたちばからの修業が始まるのです。1967年(昭和42年)、彼はエチオピア王立ハイレセラシェ大学へ講師として赴任したのです。
2年間のエチオピア滞在を終え、帰国後は自分の手足となって活動するYAS都市研究所を設立して本格的に設計活動をはじめましたが、1971年に熊本大学の助教授に迎えられ、彼の20年にも及ぶフライング・プロフェッサー生活が始まりました。そのころのわたしといえば、会社入社後10年ほどは国内の現場を回っており、1974年から海外へ出るようになり、南米コロンビア・エクアドルに滞在。いったん帰国して、1978年から2年間サウジアラビア・ジェッダに滞在し、その間に見聞きした近代化の進む同国を『サウジアラビアおもてうら』という一文にまとめ、JETRO(日本貿易振興会)から出版(昭和58年1月)しました。わたしにとっての処女作でした。出版当座の慌ただしさが収まったころ、大学卒業とともに海外へ大きく目を開いていた木島兄ならば、拙著にも興味を持ってくれるに違いないと献本しました。じつはこの時期、わたしはまったく知りませんでしたが、彼はすでに教授に昇格されていて、のちに日本建築学会賞を取得することになる「球泉洞森林館」の建設中で、それでなくとも週2回は熊本ー東京の間を行き来していた彼は多忙を極めていた時期だったのでしょう。それにあとから分かったことですが、この時期は熊本大学が進めていた「環地中海建築遺跡調査」の期間内で、彼も数回現地調査に係わっていたようなのです。そのような忙しい中で、彼はきちょうめんにも本を受け取った謝意の電話をくれました。それからどれほど経ったのか、横浜・鶴見の会社内・石井宛に絵葉書(エジプト・フスタート発掘現場)が届きました。日付は1984年12月21日で、11月から12月の半ば過ぎまでエジプトで発掘作業をし、ハガキは帰国後・熊本で投函されたようです。文中に「C社の人たち(同期入社したFとわたしの二人のこと?)は我々の代で最も活動的な人ばかりで感心しています」とあり、木島兄に評価されたことは、さすが彼の見識は二人のとんでもない外れ者を広い目でかばってくれており、こちらこそ感服した次第。なお絵葉書の後も、木島先生の紹介でということで海外の話を聞きたいという学生が社の方へ訪ねてきたものでした。それから4年後、わたしは子会社に出向し、神戸のK記念病院新設工事・総合管理を担当することになりました。病院施設には不慣れだったこともあり、そのカバーのために、病院建築の泰斗・千葉大教授の伊藤誠先生に助言をいただいておりました。折しも風のたよりで、木島兄が千葉大に移られたということで、先生に様子をうかがってみたところ、たしかに1991年に移籍。千葉大の設計の先生方はどちらかと言えば地味な感じだったので、木島先生のような積極性があり、斬新なデザインをなさる先生が来られたことで教室は喜んでいます。ただ体調が思わしくないようで心配していますとのこと。彼の訃報を受けたのは翌年の4月27日の夕刻、初夏のような陽気の日でした。それなのに三日後の葬儀の日はつよい雨にさらされ、びしょぬれの姿で出棺を見送りました。日誌には、巨星墜つ。この雨は参列者たちの悲しみの涙なのか、それとも故人の恨みの涙なのか、と記されていましたが、それにしてもいかんせん、享年54歳は早すぎました。

⑩木島安史兄の作品
木島兄の残した建築作品の数は、コンペ(設計競技)を含めれば活動年数のわりに相当な数となります。執筆も、雑誌掲載分を含めれば年に20点にもなったこともありました。とても小稿の中では扱えませんので、建築作品は、コンペ分を含めて代表的な作品に絞り、執筆関係は彼が単独で執筆した著作のうち、わたしが知り得たものに限りました。
1) 1972〜1980年 半過去の世界: おのれが設計する建築が半ば過去を継承していた時代
・ ザ・ホワイト・ハウス
・ 寿狸庵
・ ラ・マンチャの家
・ 上無田松尾神社
・ 孤風院
・ M.I.メロン氏邸  ほか
ラ・マンチャの家は歌舞伎役者の住まい。上無田松尾神社はコンクリート製丸柱を使用し、イスラムへの親近感を現したとされている。M.I.メロン氏邸は外交官の住まいで、できばえはオーナーのお気に入り。
設計競技作品:建築設計の分野では、コンペ(設計競技)の作品が一つの重要な分野となっており、木島兄は日ごろ、コンペは己の建築家としての資質が問われる踏み絵的な存在だとして重視しており、国内のみならず海外のコンペにも積極的にチャレンジしていたようです。この時期だけでも、アムステルダム市庁舎、ウィーン・サウス国際設計競技、パーレビ図書館などのコンペにくわえて、チュニスTVセンターのコンペにも参加したようです。これなどはエチオピアに滞在していたことが引き金だったのでしょう。そして彼がもっとも力をそそぎ、前評判も高かった「新建築会館」は、残念ながら2等入選でおわってしまいました。
2) 1983〜1989年 堂夢の世界: イタリアのトロハ研究所・IASSでの活動が華ひらいた時代
・ 球泉洞森林館 1985年度日本建築学会賞作品の部受賞(ドームと木材に込めた熱き思い)
・ 御住の棟(泗水町営朝日西団地)
・ 折尾スポーツセンター
・ 瀬戸大橋博’イベントプラザ空海ドーム
・ 日本キリスト教団熊本草場町教会
・ アジア太平洋博’89九州電力館・スーパーシップ9  ほか
1980年に新建築会館コンペで2等入選を果たした木島兄は、学校の講堂を自分の住宅に改築したことで話題を呼んだこともあり、一躍新進の建築家として注目を浴びるようになりました。それまでが住宅の設計に重きをおかれていたのが公営の施設にも依頼がひろがり、ドームなどの大型構造物などは、若いころのトロハ研究所への留学が評価されたのでしょう。瀬戸大橋博の空海ドームは木造、アジア太平洋博のスーパーシップは手作りの単管ドームということで、ともに構造的にむずかしいドームでしたが、ともに日本でもトップクラスの構造設計家の協力が得られ、ぶじに目的を果たせました。
設計競技作品:この時期、テット・デファンスのための国際設計競技をはじめ、パリの新オペラ座、ヴェニス・ビエンナーレ’85アカデミアの橋のコンペに参加しており、アカデミアの橋が入選しています。国内では第二国立劇場、長岡市立体育館、日仏文化会館などにかなり力を注いで参加しましたが、入選はかないませんでした。
3) 1990〜1994年 偏心の世界:作家としての飛躍をめざして熊本を離れる
・ 熊本県立東陵高等学校 村野藤吾賞受賞
・ 国際花と緑の博覧会’90花の江戸東京館
・ 埼玉県立長瀞青年の家 指名コンペ1等入選
・ 保内町庁舎 指名コンペ入選
・ 小国町立西里小学校
・ 小国町立小国中学校体育館
・ 東陽町石工の里歴史資料館  ほか
大学在学中から、ほしいと願っていた村野藤吾賞を受賞した木島兄は、各種指名コンペにも入選することで仕事にも恵まれるようになった反面、東京や東日本方面の仕事も入るようになり、このまま熊本にとどまることがよいのかどうか悩んでもいたようです。家族のこと、自分の身体のことを考えると、また、建築家としての己の立場を考えた場合、いつまでフライング・プロフェッサー生活を続けられるのか、熟考の末、彼は東京の自宅へもどることにしました。しかし残念なことに、神は彼に無情な運命しかさだめませんでした。長瀞青年の家、熊本小国中の体育館、そして同じく熊本八代の山間に建つ石工の歴史資料館のいずれもが木島兄の見えないところで建設され、彼はその完成を見ることもできなかったのです。
設計競技作品:木島兄の令名は国際的にもでてきたのか、フランス・コンピエーヌ教会の指名コンペには指名されていながらあいにく入選せず、ほかには、前回入選のヴェニス・ビエンナーレ’91やわたしにとっては懐かしいウズベキスタンのサマルカンド文化センターにも応募しております。このコンペには移籍してきたばかりの千葉大の学生も参画しており、ほかの建築家には見られなかったほど国際コンペに執着した木島兄にとっては最後のコンペとなりました。

⑪木島安史兄の著
・『半過去の建築から』  鹿島出版会  *献本
わたしが初めて目を通した木島兄の著作。文中で日本でも指折りの、代表的な先輩建築家である前川国男氏を忌憚なく批判していることで驚かされましたが、兄は兄なりの持論を展開していることに、さすがだと感服したものでした。
・『自己中心的都市像』  青潮社
・『内なるコスモポリタン』  明現社
・『建築の背景』  学芸出版社
・『紺碧の幾何学ー東地中海の都市風景』  丸善
・『カイロの邸宅』  丸善
上記のうち後述二作は東大香山壽夫教授監修で丸善から出版された「建築巡礼シリーズ34冊」のうちの各一冊で、神戸の病院建設の際お世話になった伊藤誠先生も、「ヨーロッパの病院建築」を担当されていました。
・『「孤風院」白書』  住まいの図書館出版局  *献本
「孤風院」とは旧制五高(熊本高等工業)の講堂が解体に追いこまれた際、木島兄が私費で購入し阿蘇山ろくに移築・改装して熊本での自邸にしたものです。わたしは本書を通読したことで、ご遺族のお力添えもあって自分のウェブサイト2013年1月号に「孤風院のこと」を載せました。
・Yasufimi kijima 1972-1994 堂夢の時感:木島安史の世界  孤風院の会
木島安史氏が逝去された年の9月、氏が建築界へ遺した業績を惜しむ多くの方々の中から、彼の意志を継承すべき組織の設立がつよくのぞまれ、「孤風院の会」が発足しました。同会は、会の活動とは別に孤風院の補修・維持にも寄与する考えだったようです。なお本誌は氏の業績を伝えるための「限定永久保存版作品集」として1995年2月に発行されたものです。

(了)

(次号は教室を共にしたことのない学友・河口道朗兄で、このシリーズ最終回となります)

(2025年7月)



過去の履歴を読む