塔のある風景

醍醐寺五重塔初層の組物

本稿は、中学同期の有志の間で出していた同人誌『棕櫚』へ掲載する目的で、学生のころ書いた小文です。結局、雑誌の発行ができず、結果として没になったので、書棚の中で埋もれたままになっていたものです。昨年の末、体調がすぐれなかったこともあり、頭の老化とともに原稿がまったく進まなかったため、なんとなく書棚を整理している中で偶然見つけました。わたしにとっては渡りに船で、ウェブサイトの読者に対してはたいへん失礼かもしれませんが、小文を2019年1月号に載せさせていただきます。お許し下さい。
原稿は昭和36年(1961年)9月17日夜の日付となっています。当時、日本建築史家になりたいなという秘かな夢を持っていて、そのようなときにどんな文章を書いていたのか、自分でも興味があり、また、皆さんに知っていただくのも意味なきことでもあるまいと思い、稚拙な文章であることは承知の上で、敢えて原文のママの掲載にこだわりました。文中に2か所、著名な作家の文を引いており、その引用の仕方かならずしも適切でなく、誤解を与えかねない懸念がありますが、ご寛容願います。以下、原文です。

産寧坂から望んだ八坂の塔

寺の街と言われている程の京都でも、現存する塔は存外少ないものである。応仁の乱と禅寺の多いため、と私なりの解釈をしているが、それでも五重塔が四基、三重塔が三基と、他の都市と比較すれば、はるかに多い数を有しているのは、やはり、京都ならではの感がある。元来、仏舎利をまつるストゥ―パの発展したものとして、塔のもつ意味は宗教的に重要なものだったが、建築学的にみるなら、それは、むしろ伽藍を飾るものとしての意味の方が強く、宗教的な威圧といったものは感じさせない。だから、高く聳える塔を仰ぎ見る人々は、日本人の心の故郷的な気持で、大方は心持よくこれを迎えるに違いない。その点では、封建制度の象徴たる城の天守閣が、時代によって、あるいは、身分によって、かなり異なった見方をされているのに反し、今も昔も、塔をいつくしむ心にはさして違いはなかろう。その塔が、特に他の堂宇と異なった迎え方をされている理由は、いつにその高さが故だと思う。他の堂宇が如何様雄大であっても、それは所詮大地にはいつくばった、いわば、大地から逃れられない悶々とした姿であるのに反し、塔は天に向かってすこやかにそそり立つのである。西洋中世のゴシック建築が、天への憧れを示すため、大地を離れその尖頭を天空高く聳えたたしたように、塔には、天に対する人間の憧れや悦びがこもっているように思えるのである。そのために能う限り高い塔を求めること、これは、人間の自然の姿だと言えよう。重衡の兵火によって焼失する前の東大寺の七重塔は、その高さ百米にも及んだと言われている。ちょっと信じ難い話しだが、天下の富と勢を有した聖武天皇ならば、かかる雄大な発想は可能だし、どちらかと言えば、当然のように思えてくる。天平の御代はそんなことの可能な時代だったのだし、塔にこめられた人々の願いも亦、無限の高さを求めたに違いないからだ。

清水の三重塔

その京都で、私が最初に目にし、心惹かれた塔として、八坂の塔を挙げねばなるまい。由来、東寺の五重塔と共に京都を飾る一方の旗頭として有名なこの塔は、聖徳太子が創建したと伝えられている法観寺の五重塔のことで、寺運おとろえた今なお、ひとりぽつねんと聳える姿は、痛ましくもまたいじらしい。知恩院の山門から丸山公園を横断して東山の静かな裏通りを歩いて行くと、高台寺下の広場へ出る。そして、この広場からも、紛れもなく八坂の塔が望まれるのである。京の姿である。京都でなければ味わえない風景だと言えよう。それは、この塔が、もはや宗教的な尊大さを捨て去り、街中に全く溶け込んで一つに合した姿が故である。近付くのに何の気兼ねもいらないし、犯し難い威厳も秀麗さも備えているわけでない。そんなわけだから、京都に住む人は、この塔の存在を別段意識していないに違いない。それでいて、この塔なくして京都は考えられない程、京都に密接に結びついている。いわば、肉親にも似た愛情をこの塔は抱かせるのである。こういった塔を、私は八坂の塔以外にしらない。この塔の下から、つま先上がりに産寧坂が始まる。つづら折りの坂をのぼりながら、ふと立ち止まり、後をふり返って見ると、塔はまだ頭の上にある。黒く塗られた右手の板塀、左手は軒の低い、格子窓のはまった家並が続く。そして、その間にそびえる八坂の塔、遠目にはどこから見てもすばらしい塔なのだが、産寧坂から見た姿が一番しっくりしていて、美しいようである。青蓮院の右横から始まり、八坂の塔を過ぎて産寧坂をのぼり、清水坂にぶつかる東山の裏通りは、昔は西国三三所第十六番札所の清水さんに通う遍路さんで賑わったと聞くが、今は全くさびれ、人が通ることすら珍しい。たまに竹やぶのささという音すら耳にし、散策にはもってこいの道で、さびれたことがかえって嬉しい気すらする。素朴で、それでいて少しも田舎びたところはなく、むしろ、ゆかしい雅味をもった最も京都らしい道で、私は大好きである。

真如堂の三重塔

他に、塔のある風景として忘れられないものに、疎水べりから見た真如堂(真正極楽寺)の三重塔がある。
「疎水の春は桜の花びらにうずもれるのだった。その花びらの上に、また花びらが舞いおち、二重にも三重にも重なりあって、ゆるやかに流れていった。十二、三町の長い流れが、その頃には桜におほいつくされて、水の面をひとところもみせなかった。桜の花びらが流れつくすと、季節は初夏にうつってゆくのだった。若葉が眼のさめるような緑をこんどは疎水にかげをおとした。秋にはそれは燃えるような紅葉にかはった」。
田宮虎彦の『琵琶湖疎水』の中の一節であるが、まるで見てきたかのようにはっきり思い浮かべられ、大変に印象強かった。そしてその時から、私は自分の足で疎水べりを歩いてみたいと思っていた。そこで昨年の春、大原へ行った帰りに、熊野神社前でバスを捨てた。丸太町通りを東へ平安神宮に沿って入り、岡崎公園の処まで来ると、疎水にぶつかる。粟田口と通称されているところで、春とはいえまだ桜には早かったが、水は青々と豊かな水量でゆっくり流れ、対岸の動物園を眺めながら、私もゆっくりと足を進めて行った。程なく動物園の森がきれ、南禅寺の三門に近いところで、ゆくりなくも真如堂の三重塔を、幾分かすんではいたが、目にしたのだった。左手は吉田山、そしてその山稜がきれるかきれないかの処で、黒谷光明寺本坊の甍に並んで、三重塔はその優雅な姿をみせ、その左手は一段低くなり、今度は大文字山の稜線が始まっていた。広重の「京都名所」そのままのような、浮世絵的な風景であった。琵琶湖からインクラインに引かれた疎水はここで二つに分かれる。ひとつは私が沿うて歩いている疎水であり、もうひとつは南禅寺の山下を潜り抜け、鹿ヶ谷を南北の方向に流れて銀閣寺道まで続くもので、そちらの疎水べりも大変静かな道だという。その道からは真如堂の三重塔が、そしてもしかしたら光明寺の塔とともにもっと近くに、別の風情で仰げるのかもしれない。そのうち、是非とも歩いてみたいと思っている。

仁和寺の五重塔

塔のある風景は美しい。塔の下にだまって佇むのも飽かない楽しみがあるが、私は、周囲の風景を含めた塔のある風景が好きである。それも思わぬところから、なんとも言えないような姿を見つけた時には、わけもなく嬉しくなってしまう。そんな時の気持ちは、その風景をひとり胸にひそめておきたいような、あるいは誰かに話さずにはいられないような、実に複雑なものとなる。京都の塔頭によく見出だす石畳や竹林、奈良の佐保路や高畑道に残る築地、あるいは西の京の辺りでよく見掛けるくずれかけた土塀等、京都には京都の、奈良には奈良のいい処があるが、塔のある風景は、そのどっちにも共通した美しさを持っているのである。
「あゝ塔がみえる、塔がみえる そう思ったとき、その場で車をすてて、塔をめざしてまっすぐに歩いて行く。これが古寺巡礼の風情というものではなかろうか。おそらく故人も、遙かに塔を望みながら、誘われる如くひきよせられて行ったに相違ない。塔にはふしぎな吸引力がある。憧憬と歓喜を与えつつ否応なしに我々をひきよせるのだ」。
こう、亀井勝一郎は、彼の著書『大和古寺風物詩』の中で書いているが、実際、塔に対していだく我々の気持ちには、誰彼の違いなく、共通のものがあるように思える。もし、郷愁という言葉に“sadness”の意味を含んでいないとしたら、「塔のある風景」こそは、日本人の郷愁をよびおこす風景だと言えないだろうか。
(注記1)真如堂三重塔の写真は手元になかったので、公刊の写真集から引用させていただきました。
(注記2)若い頃、全国の五重塔・三重塔を訪ねたいと願っていましたが、結局、私にとっては無謀な願いでした。実際に見ることができたのは、国宝は22基のうち17基、重要文化財58基のうち20基でした。

(2019年1月)



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