重源上人座像を訪ねて

『頼朝と重源』展リーフレット

日本建築史を学んでいる中で、わたしがもっとも興味を持ったのは鎌倉時代の建築でした。中でも建築様式としての唐様と大仏様(天竺様ともいう)という従来の日本様式には見られなかった手法、そして人物としては、その大仏様を中国から輸入した俊乗坊重源につよく興味をもったのです。その名をご存じの方、そう多くはないと思います。僧侶としては高い地位についたわけではなく、むしろ高野聖という下僧の地位にあった僧と言ってもよいでしょう。しかし一方で、平重衡の軍勢によって火をかけられて焼失した東大寺の再興にあたって、重源(以下、原則としてこの表記で統一)は大勧進(現在でいえば総括責任者か)に任命され、東大寺を甦らせた人物として、歴史に名を残した人物でもあるのです。重源のすごさは、わたし流に表現すれば、時代の超一流の人物と人脈を通じていた点にあります。ときの後白河法皇の支援を取り付け、摂政九条(藤原)兼実とも親しく付き合っていました。また2012年に奈良国立博物館で開催された特別展『頼朝と重源』のリーフレットにありますように、東大寺再興を支えた鎌倉と奈良の絆と称されるほど、鎌倉幕府の頂点に立った頼朝とつよい絆で結ばれていたのです。仏教界では15歳も年下の浄土宗開祖・法然上人に弟子入りしており、有名な「大原談義」の席にも座していましたし、日本に茶を招来した臨済宗開祖栄西僧正とも親しくしていました。東大寺再興の大勧進として、慶派の仏師、とくに快慶とは親密な関係を持っていましたし、国中を勧進する上では、諸国を行脚する西行の力も借りました。ちょっと余談にそれますが、歌舞伎を代表する演目の一つに「勧進帳」があります。東大寺再興の勧進だと称して安宅の関を通ろうとする義経一行に対して、それならば勧進帳を読んでみよと関守富樫左衛門に求められた弁慶が、ありあわせた巻物を使って急場をしのいだという話です。弁慶は偽りの勧進帳を読む中で、重源の名を挙げたに相違ないでしょう。さらに、東大寺再興にあたって天竺様を採用する上では、南宋の技術家陳和卿(ちんなけい)が補佐してくれたことも成功に大きくかかわっていました。

東大寺の重源上人座像

そんな重源の人となりに、わたしはすっかり虜になってしまいました。まだ学生だった頃のことです。重源に関する資料ということでは、昭和40年に吉川弘文館から『俊乗坊重源史料集成』が出版されました。これは86歳で入滅という当時としては驚異的な長寿だった重源の、長い人生における事跡をまとめた作善集(作品集)で、彼がどんなことをされて来たかを知る上で貴重な書物です。しかし、重源の人となりを学ぶ上では物足りなさを感じていました。たしか昭和30年頃に東大寺内の南都仏教研究会から、非売品でしたが1冊の書物が出版されているということを耳にし、わたしはその本を求めて必死に神田の古本屋をさがし求めました。前著が出版されてから5年後になって、ようやく神保町の東陽堂書店で『重源上人の研究』を落掌することができました。値段は12000円(前著3400円)、安月給取りだったわたしにとってはたいへんな痛手でしたが、それでもうれしく思ったものでした。これで本格的に重源の研究が進められると思いました。当時の日記帳には、新年の抱負として「生態学の研究」と「董源の研究」を挙げていました。それから2年後、まさか自分が海外要員となり、以後の10数年にわたって、年間を通して日本で落着いた生活をすることが難しくなるなんてこと、考えてもいませんでした。先を見る目に欠けていたのですね。

防府・阿弥陀寺の重源上人座像

ところで、重源には数躰の座像が残されています。もっとも著名なのは東大寺・俊乗堂に安置された像(国宝)で、一種の秘仏扱いとして一般公開されていません。そんなわけで、重源研究家としては、一度はご挨拶をと思っていたのですが、その機会はなかなかありませんでした。わたしは、たまたま昭和43年から45年にかけて、仕事で山口県の小野田に滞在していました。家族帯同の時期もありましたが、途中で家族を引揚げさせ、後半の何ヶ月かは単身赴任をしていました。45年の1月中には小野田の現場から引揚げが決まりましたので、月の半ばごろ、これが最後の機会と思い、いまにも雪がちらつきそうな中、意を決して、愛車スバル360を駆って防府市牟礼の東大寺別院周防阿弥陀寺へ行ってきました。茅葺の、お世辞にも立派な門とは言えませんでしたが、趣のある門をくぐり境内へ足を踏み入れた瞬間、意中の人、重源の像にお目にかかれるのだと思えば、身の引き締まる思いでした。『俊乗坊重源史料集成』の書中でお名前を存じていたご住職林行寛師はすでにお亡くなりになられており、応対に出られた奥さまは、わたしが東京の者だということで、「この寒い中をようお越しで」と、座像以外のいろいろな資料についても丁寧に説明をして下さいました。説明の端々で「先住は〜」という言葉がうかがえ、亡き林行寛師に対する奥さまのつよい想いが感じられました。そして何よりも有難かったのは、暖房の効かない車中で身体が冷え切ってしまったわたしに対し、寒いでしょうと囲炉裏の火を強めてくれたことでした。念仏堂内に静かに座られた重源上人像(重文)を目にしたときの感慨、無量なものがありました。写真で見ていた東大寺の座像と比較すると、その表情は若さを感じさせ、重々しさに欠けているような気もしました。重源が阿弥陀寺を建立したのは67歳のとき、開山の際に自らの肖像を造らせたそうですから、それから20年ちかく存命し、数々の作善を成就したのちの像とは重みの上で差の出るのは致し方ないのでしょう。寺を辞してから佐波川に沿って遡り、東寺再興のための木材の切り出し・搬送のために重源が腐心した事跡を見て回りました。杣人たちの保養・けがの治癒のために岩洞を利用した蒸し風呂跡、川中に設けられた材木流出用の堰跡など、大勧進としての重源の苦労の跡がよくわかりました。防府を出立する頃には、すでに薄暗くなっており、小野田への到着は7時過ぎでした。体は冷え切り、疲れてもいましたが、有意義な一日でした。

播磨・浄土寺の重源上人座像

重源上人座像との2回目の対面は兵庫県・小野市の浄土寺でした。たしか子会社へ移籍して間もなくの、昭和から平成へ元号が代わってすぐの頃だったと思います。兵庫・三田市の製薬会社へ見学に行くチャンスがあり、ここまで来たのなら小野は近いと浄土寺を訪れたわけです。わたしにとってはたいへん興味の深い寺で、むろん重源上人座像のあることですが、もう一点、この寺の浄土堂(国宝)は大仏様としては東大寺の南大門につぐ重要な遺構であって、スケールが小さい分、見やすく、大仏様式の勉強には格好なのです。寺では、受付をする寺男的な人の姿も見受けられず、ご住職自らの説明で恐縮したものでした。学生の頃、南大門の下にたたずみ、構造的に理にかなった様式に感服しながら見上げたものでしたが、浄土堂では、もっと間近で見られますので、構造が理にかなっていてシンプルである反面、現場での仕事はたいへんな難しさが伴うだろうという弱点のある点もよく観察できたものです。その点では、南大門にせよ、そして浄土堂も、揺るぎのない組み方がなされていて、技術力の高さは見事だと評価されます。大仏様・唐様共、長くは続かず、姿を消してしまいましたが、長年続いている古来の和様式の方が、寺大工にとっては楽な様式だったのでしょう。お目当ての座像(重文)は開山堂においででした。天福2年(1234年)の胎内名があり、重源の入滅した建永元年(1206年)からはずいぶん歳月は経っていますが、着衣、胸前で数珠をたぐるお姿といい東大寺の座像にそっくりで、その模刻像に違いありません。それだけに、阿弥陀寺で拝見した像よりは見ごたえがありました。この寺について、もう一点ふれておきたいのは、浄土堂に置かれた本尊阿弥陀三尊像(国宝)です。快慶作とされていますが、丈六の像で、大きいこともさることながら、背面から西日を受けたお姿は、まさに極楽浄土はかくありしの思いをつよくしたものでした。

金沢文庫特別展パンフレット

二躰の座像にはお目にかかれましたが、最も肝心な東大寺にある座像に接する機会はなかなか得られませんでした。機会がめぐってきたのは、2012年に奈良国立博物館で開催された特別展『頼朝と重源―東大寺再興を支えた鎌倉と奈良の絆』でした。学生時代に重源に思いを寄せてから、まさに半世紀以上も待って、ようやく実現したのです。重源は在世中に自らの肖像を彫像としてつくらせていましたが、東大寺の座像は最晩年のお姿を写したもので、その出来栄えはもっとも実像に近いとされています。わたしはようやく重源上人にお会いでき、感無量でした。この時のことを、わたしは自分のニュースレター2012年9月号に次のように書いています。お会いしてすぐの印象なので、ここに引用します。
重源座像は奈良国立博物館東新館におはしました。首を前に傾け、口元をくの字に曲げたお姿からは、東大寺の再興を成就させた不屈の精神が、いまなお全身からほとばしっているかのようでした。いつもよりは右目を大きく見開き、「よう来なされた」というつぶやきが、おぼろであり、かすかではありましたが、わたしの耳に聞き取れました。
ずいぶん勝手な思いが込められた文章だと、ちょっと面はゆい気がしますが、この座像を拝顔して、改めて、重源上人の実像はこれだ!と、つよく印象づけられたものです。何よりも、その高い造形力、近年、運慶作だとする説がとみにつよくなっており、各種刊行物でもそのように扱っています。わたしもそうだと信じるひとりです。永年の願望が達せられると、不思議なもので、翌年2013年の秋に、今度は地元の金沢文庫で、特別展『東大寺―鎌倉再建と華厳興隆』が開催され、ふたたびお目にかかることができました。よくまあ東大寺が出品を許したものだとびっくりしましたが、地方の県立博物館とは言え、歴史的に見れば由緒ある施設ですし、前年の奈良博での特別展でも「東大寺再興を支えた鎌倉(金沢文庫は鎌倉北条家の有力支族の建立)と奈良の絆」としていたので、そのつながりでの特別展だったのでしょう。

狭山池博物館内の重源座像レプリカ

前述しましたが、重源は在世中にご自身の肖像座像を五躰造らせています。最初の1躰は中国・宋へ行っていますので、国内では4躰となります。そのうちの3躰はすでに拝顔しておりますので、残りは三重県の新大仏寺なのですが、もう拝顔のチャンスはないと思っていました。ところが、拙著『技術中将の日米戦争』で書いた秋山徳三郎元中将(旧陸軍)の東大卒業時の論文の陳列の件で大阪府立狭山池博物館へ訪問した際に、なんと入口で重源上人座像(ただしレプリカ)が出迎えてくれたではないですか。これには驚きました。いくら重源に心酔しているからと言って、これは出来すぎです。館の説明では、東大寺大勧進として忙しい最中、しかも82歳という晩年になって狭山池改修にも携わっていたのです(2017年7月号 『大阪狭山池博物館』参照)。生涯勧進に徹した俊乗坊重源上人の面目躍如たるものがあります。
(付記)重源上人座像の写真は、奈良国立博物館発刊の書籍から引用しています。

(2019年2月)



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