残存十二天守・丸岡城(霞ヶ城)

もうずいぶん古い話になりますが、信州松本への旅行からもどった父が、いきなり「松本城はすばらしかった」、と興奮さめやらぬ風情で購入してきた『信濃風土記 松本城』を手に語り始めたのです。ふだん無口の父がそのような饒舌を弄(ろう)するなんて、はじめてのことでした。わたしは知りませんでしたが、国宝だった松本城は、昭和25年から始まった保存修理工事が5年をかけて完成していたのです。わたしは、父の知らなかった一面を見たようで、いまでもその印象がつよく残っております。わたしが城にたいへん興味をいだくようになったのは父の影響なのでしょう。
皆様も旅先などで、城郭を目にする機会は多いと思います。全国に50近い城があるのですから当然でしょう。ただ、城(天守)と言っても、戦後になってから再建されたものがほとんどで、築城当時の姿を残しているのは少なく、全国でわずか12しかなく、残存十二天守と称しております。城郭全盛期と称される、群雄が割拠した天正期からも大幅に数を減らし、幕末の版籍奉還時には180余になっていましたが、現在それがわずか12になってしまったのですから十二天守の価値は大きく、そのすべてが国の国宝又は重要文化財に指定されております。十二天守の名を北から挙げてみますと、弘前城(青森県弘前市)、松本城(長野県松本市)、丸岡城(福井県丸岡町)、犬山城(愛知県犬山市)、彦根城(滋賀県彦根市)、姫路城(兵庫県姫路市)、備中松山城(岡山県高梁市)、松江城(島根県松江市)、丸亀城(香川県丸亀市)、松山城(愛媛県松山市)、宇和島城(愛媛県宇和島市)、高知城(高知県高知市)となります。言うまでもなくすべてが木造で、そのうち松本、犬山、彦根、姫路、松江の五城が国宝に、残りのすべてが重要文化財に指定されています。それ以外の城は、ごく少数を除き外観こそは整えてありますが、コンクリートあるいは鉄骨造などで、わたしなどはつい軽く見てしまいます。むろん郡上八幡城のように、維新政府によりいったんは取り壊されたものの、大正期に木造で再建(復元)されたすばらしい天守もあり、これなどはこの先何十年後には、重要文化財に指定されるかも、とわたしは思っています。
学生時代の夏休みに信州大町に住む叔母を訪ね、旅の途中で父の面影を追うように松本城を訪ねました。北アルプスを背景にした同城のすばらしさは忘れ難く、その後も山の友や家族と何回か尋ねております。社会人になってから、10年ほどは国内の仕事をしており、その間に敦賀、愛媛県の菊間町や小野田に滞在したことがあり、松山城や松江城を訪ねるチャンスに恵まれました。他方、列車で彦根や丸亀を幾度か通過しましたが城に立ち寄ることはできず、悔しかったものです。その後の数年間は海外生活で、国内に落ち着くようになってから、ようやく念願だった犬山城へ家内と訪れました。晩年に子会社へ移籍しましたが、初の仕事が神戸に建設する病院の仕事で、3年間も滞在した関係で、姫路城には数回、そのほかに備中松山城、高知城、彦根城にも訪れることができました。その結果、残るは弘前、丸岡、宇和島の3城だけとなり、わたしとしては残存十二天守だけは何とか行きたいものとの願望がつよくなりました。すでに会社勤務からは離れており、経済的に旅行を楽しむゆとりがありませんでしたので、当時従事していたISO審査を利用することにしました。幸い弘前と宇和島に関しては城の近くでの仕事が入りました。しかし福井県の小さな町である丸岡にはそうした話がなく、平成25年になって関西へ行く機会をとらえ、これが最後のチャンスだとばかりに福井へ足を向けました。早朝6時に起床し、列車で福井から三つ先の丸岡へ。そこからバス利用でしたが、城の近くまでは行けずに30分ほど歩かされました。街中からはなかなか見通せなかった城の天守が見えたときは、感極まるものがありました。当時の日記には、「小振りながら風格のある造りで遠目には見栄えよし」、と簡単に書いてあるだけですが、さすが武骨な(?)柴田勝家の流れをくむ城だけに、装飾美を省く一方で、素朴な美しさを有するすばらしい天守でした。初めて松本城を訪問したのが昭和34年、それから丸岡城を訪問するまでに要した年月は54年、まさに半世紀を費やした残存十二天守の探訪でした。

(2025年1月)



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