横浜市内の旧東海道三宿・道を中心にして(2)

保土ヶ谷宿金沢横丁標識

保土ヶ谷宿の特徴は、いかにも宿場だったという風情を残していること、そして並行して流れる今井川の川筋に沿って走る旧東海道が、保土ヶ谷橋(軽部本陣近く)辺りでほぼ90度に折れまがることです。早馬などうまくまがれたのだろうか、といらぬことを勘繰ってしまいます。また、保土ヶ谷宿辺りの道筋は現在の道路を含めて、後述するようにたいへん複雑になっています。古い時代から交通の要衝だったことをうかがわせます。旧道を神奈川台町から進み、浅間下を通り過ぎて間もなく追分に至ります。その名の通り、ここで武州八王子へ向かう旧八王子街道が旧東海道から岐れ、少し進んだところで国道16号線に合流します。この道をさらに進むと、旧東海道の大門通りからは旧相州道*1と直交し、さらには金沢横丁で旧東海道にもどるわけです。追分からはじまるこの道、途中でぷつんプツン切れてしまっているようですが、そのようなことはなく、道としてはあくまでも1本筋が通っています。じつは、家康が江戸に幕府を開設し、東海道の宿場を指定したのですが、保土ヶ谷へ至る道の普請が大幅に遅れ、宿内の整備はだいぶ遅れたようです。そのためある期間、追分・金沢横丁間はこの古い道が東海道と称されていたのです。現在の地図・案内書ではこの間は古東海道と称されております。なお、金沢横丁に残る碑文から、ここが金沢文庫・八景へ至る「かねさわ道」などの起点であることがわかりますが、同じように旧相州道との交差点は、保土ヶ谷・野毛を結ぶ「保土ヶ谷道」の起点でもあることが知れます。こう考えますと、どう考えても、保土ヶ谷宿は交通の要衝だとしか思えないのです。古道ということで一言付け加えたいのは、道というものは、律令制下の「五畿七道」を例外として、古来、人と人とのつながりの中で、自然発生的に踏み固められ、普請されたもので、主要な道は時代を引き継いで共有して使われるものでしょう。その意味で、鎌倉下ッ道などは、鎌倉から保土ヶ谷までは、まさに「かねさわ道」であり、保土ヶ谷からは古東海道を使用し、旧八王子街道とぶつかったところで星川まで北上、そこから三ツ沢台へ上って行ったにちがいない、と思っています。保土ヶ谷宿は三宿の中ではこじんまりまとまっていて、宿らしい雰囲気を漂わせており、わたしは大好きです。おそらく訪れた回数ではもっとも多いでしょう。わたしにとっては、保土ヶ谷へは拙宅からバス1本で行けるので、近傍歩きにはたいへん好都合であり、まさに交通の要衝となっております。

武相国境モニュメント

保土ヶ谷宿界隈の旧道と現在の道(国道・県道)との関係もたいへん輻輳しており、この点からも保土ヶ谷(宿)は交通の要衝と言えそうです。追分から保土ヶ谷方面へ進み、江戸方見附跡を過ぎて間もなく帷子川に架かる橋を渡ります。ただし広重の永保堂版に描かれた橋ではありません。この川はのちに川筋が変えられており、広重の橋は現在、相鉄・天王町駅前にモニュメントとして残されています。浅間下からここまで旧道に遠慮しているかのように併走してきた環状1号線は、ここで旧道と合流、いや旧道に取って代わったかのように、宿場の中心・軽部本陣跡(保土ヶ谷橋際)まで、宿場の中を街道面(づら)して走ってきます。保土ヶ谷宿内の道筋、地図を見ながらでないとわかりにくいかもしれませんが、保土ヶ谷橋で、神奈川台町下で国道15号線からバトンを引き継いだ国道1号線と、ここまで宿内を走ってきた環状1号線とが交差し、あたかもバトンを引き継いたかのように今度は国道1号線が宿場の中を走るのです。いくら古代から交通の要衝だったとはいえ、やはり旧宿場の街並みと、名にし負う日本の大動脈である国道1号線とではうまく溶け込みようがないでしょう。それなのに保土ヶ谷宿では一緒になっているのです。そこがこの宿の不思議さであり、すごさかもしれません。現在の地名を使って表現しますと、相鉄・西横浜駅からJR保土ヶ谷駅先(保土ヶ谷橋)までの約1.5キロの間、北から古東海道、旧東海道(兼県道環状1号線)、JR東海道線・横須賀線、国道1号線といった新旧の大動脈が並列して走り、そこに旧八王子街道(国道16号)、旧相州道、旧かねさわ道、旧保土ヶ谷道といった古道が絡んでいるという稀有な場所なのです。

品濃一里塚碑

保土ヶ谷橋から、ほぼ直角に折れた国道1号線(旧東海道)を上方(京方)の方へ数百メートルほど、旧本陣・脇本陣、あるいは旅籠本金子屋跡などを見ながら進みますと、上方見附モニュメント、復元された1里塚、そして松並木にぶつかり、一見、かつての宿場かくありしかを思わせます。そこを過ぎてすぐに、国道1号線は旧道から左手に岐れ、二つの道は今井川を挟んで1キロほど並行して進んだところで、旧道は左手に曲がり、今井川に架かる元町橋を渡って間もなく、尾根道に入ります。ここからが、江戸を発ってはじめてぶつかる難所として知られる權太坂で、一番坂、二番坂とつづきます。箱根駅伝でよく知られた權太坂は国道1号線のほうで、旧道の東南300メートルほどのところを走り、坂を上り切ったあたりで、二つの道は大きく離れていきます。往時、權太坂では行き倒れの人が出て、そのための「投げ込み塚」もあったようです。その一方で旅人をなぐさめたのが富士の霊峰と、大山を中心とした丹沢の山並みだったのでしょうが、いまは人家が建て込み、見通せる場所は限定されるようです。武相国境モニュメントを過ぎると焼餅坂(往時茶店で焼餅を商っていたが今は何の変哲もない坂)の下りとなります。往時の雰囲気を残す品濃一里塚を過ぎて海道橋(東戸塚駅入口)まで来ますと国道1号線が旧道に近づいて来て、秋葉大橋下で旧道・国道は合体して一緒になって進みます。そして、その先不動坂で国道はバイパスが岐れていき、駅伝はバイパスを走ることで戸塚市内を抜けることにになります。

戸塚宿江戸方見附跡碑

江戸方見附跡から戸塚宿へはいり、広重保永堂版に描かれた戸塚の大橋で柏尾川を渡れば、本宿・脇本宿が並ぶ宿場中央部です。ちなみに、江戸を発って42キロの戸塚宿は、そこで最初の宿泊をする旅人者がもっとも多かった(当時の男性は40キロ/日の歩行が普通だった)とかで、本陣・脇本陣、旅籠などの数は3宿の中で一番多かったようです。ところで、広重の画の中に「こめや」の看板がありますが、驚くことにこの店は現存しており、また、橋の左たもとに「ひだりかまくら道」の道標が描かれ、ここから柏尾川沿いに鎌倉への道が通じていたことが知れます。横浜へお住まいの方はよくご存じだと思いますが、最近の戸塚・東戸塚界隈、とくにJR駅の界隈は市内南部でもっとも開発の進んだ地域です。とくに東戸塚は、駅ができる前のことを知る者にとっては信じられないような変貌をしています。ただし旧東海道の視点で見れば、駅周辺を街道が走っていなかったために、住宅街こそ開発されてはいるものの、まだ旧道の雰囲気が残されている点は幸いです。両駅間の旧道も、半分は国道に呑み込まれていますが、それでも、まだ面影を残していると言えるでしょう。

澤邊本陣跡碑

残念なのは、戸塚駅周辺、とくに西口です。ここは、まさに戸塚宿の中心だったところです。鉄道、国道、さらには駅周辺の開発のためにほとんど宿場の面影を残すことができなかった点、ほんとうに残念なことだと申せます。市内の三宿、少しでも旧東海道の宿場であったことを盛り立てようと、地元民が力を合わせてイベントを開催しています。毎年10月初旬に「とつか宿場祭り」、中旬に「保土ヶ谷宿場まつり」、そして11月23日には「生麦旧東海道まつり」が開かれます。そのタイミングに合わせて出かけるのも難しい面があるのですが、今年は戸塚へ出向き、祭りに参加しがてら、戸塚宿上方見附先の難所、大坂(関西の大阪にあらず)まで足を延ばし、大坂松並木ぐらい見てこようかなと思っていましたが、結局、かないませんでした。さいごになりましたが、旧東海道については、道普請のための技術資料関連として絵図や『海道修築里?築造』といった仕様書、あるいは維持管理のための『東海道宿村大概帳』といった有意義な資料が残されています。いずれ、そういったものを参考にしてあらためて三宿を見直したいと考えております。
*(注記)旧相州道は古来いくつかの道が存在していたようです。厚木から大山へ出る道、府中・八王子方面へ行く道、あるいは平塚方面へ抜ける道など、一概には語れない面がありますので、小稿ではふれないことにします。

(2018年11月)



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