横浜市内いにしえの道(2)

鎌倉上道に面した美濃口家長屋門

先月号でも書きましたが、横浜市内では至るところで鎌倉道に遭遇します。しかし、市内いにしえの道となると、定かに面影を残しているのは、やはり家康が江戸に居城を定め、幕府を開いたのちの東海道でしょう。とくに、関ヶ原の戦いに勝利して天下の実権を手にしたのちに定めた五十三の宿場で、そのうち、神奈川・保土ヶ谷・戸塚の3宿が市内にありました。このことについては、昨年の10月・11月の2号にわたって書きましたので、改めて目を通していただければ幸いです。五畿七道や鎌倉道などと比較すれば、まだほんの400年前ほどのことですから、はるかに面影は残されています。しかし、東海道という日本の大動脈を走り、ところによっては宿場内の一部が国道に吸収されるかたちで走り、しかも横浜という大都市内ですから、開発の波による影響を大きく受けており、戸塚宿の上方側などのように、ほとんど面影が残ってない例もあります。ところが実際に歩いてみると気づくのですが、鎌倉道などは東海道よりははるかに古い道ですが、ところによっては、道の形態(ルート)そのものが当時のまま残され、ときには古い道標なども残っていて、いにしえの道としての風情が東海道などより残されている例もあるのです。意外に思えると同時にうれしく思うものです。

戸塚宿江戸方見附跡

旧東海道を歩いていてよかったと思うのは、ほんのまれな例ですが、往時の建物などを見出だしたときなどです。宿場に付きものの本陣などは市内の宿場では皆無に近いのですが、唯一保土ヶ谷に遺る軽部本陣跡などは、残されてはいるものの、せめてもう少しでも往時の雰囲気があったならば、と残念に思えます。同じ保土ヶ谷では、本陣より上方に本金子屋の建物が残り往時の旅籠屋が感じとれますし、戸塚宿では、広重の浮世絵に描かれた「こめや」の提灯をかかげた米屋が、柏尾川に架かる大橋近くに現存していることなど、信じられない思いです。また、後世に建て直されたものが多いにせよ、一里塚や見附跡、あるいは保土ヶ谷宿手前には追分の標識があり、そこからは相州路(八王子街道、そこから岐れる厚木道・大山道の総称)が岐れます。昔から今日に至るも交通の要衝である保土ヶ谷宿内には、その他にも幾多もの道が交わっています。前月に書きました金沢道(かねさわ道)は保土ヶ谷横丁が出発点で金沢方面に向かっており、鎌倉を発した弘明寺道(ぐみょうじ道)も保土ヶ谷のすぐ手前の岩井でかねさわ道に合流し、そのまま一緒になって保土ヶ谷の帷子を抜け、そのまま鎌倉下道として三ツ沢台を経て北へ向かいます。保土ヶ谷に端を発し戸部に向かう保土ヶ谷道などは、当時の生活道だったのでしょう。この道は、幕末になってから、諸外国への開港に伴ってあわてて開発した横浜道(2018年1月号 『よこはま道』参照)と結ばれます。ことかように書きだすときりがありません。いまなお残るそうした道、往時とはまったく異なるコンクリート舗装の道になってはいますが、そこを歩き、舗装に埋め込まれた「いにしえの道」を示す標識を踏めば、往時この道を歩いた人たちのことを思い浮かべずにはいられません。

本郷台新橋近くの庚申塔

わたしが市内のいにしえの道を歩く機会は、三通りあります。一つは、わたしが主宰して歩いている、地元での太極拳教室の仲間との「5人の歩こう会」です。月に1回歩いており、始めてからもう7年になり、年数はともかく月1という頻度を考えますと、相当な回数になります。むろん、歩こう会ですから、いにしえの道だけを歩いているわけではありませんが、区役所で入手した散策ガイドに従って歩いていますと、ゆくりなくも鎌倉道に遭遇ということがしばしば起こるのです。二つ目は、通いはじめてから9年目に入った横浜・本牧八聖殿主催の年2回の歴史散歩です。歴史散歩ですから、歩く途中でいにしえの道によくぶつかりますし、最近では日本史学者の盛本昌広先生のご案内で2回、鎌倉の道を表に出した散歩がありました。最後はその他の例ということになりますが、たまに、かつての会社の仲間たちから声をかけられることもありますが、自分主宰の散策に備え、下調べに歩くことしばしばです。はじめて歩くコースの場合、ときには散策ガイドだけでは道を逸することもありますので、自分の足で下調べしておかないとむだ足をふむことになるからです。その点、ひとりで歩きますと慎重さが加わりますので、団体で歩くのとは異なり、見落としが少なくなるものです。ときには、不安に思うとき2回、3回と歩くこともあり、テレビの刑事ドラマで、ベテラン刑事がよく口にする「現場百回」の意味、よくわかります。

鎌倉下道・松の川駒が橋

そんなことで、わたしが主宰して歩いているときに鎌倉道に遭遇した例、散策の途中で鎌倉道を歩いた例をここでいくつか挙げてみます。最初の2例は、遭遇した時点では鎌倉道だということまったく知りませんでした。なお、冗長(じょうちょう)になるのを避けるため、見出しの羅列と簡単な説明でお許しください。
・2016年12月 「平戸永谷川プロムナードから馬洗川せせらぎ緑道へ」
港南区の永谷川と馬洗川の合流点(上永谷)を通る鎌倉下道で、尼将軍政子とのゆかりの説明書を見つけました。
・2017年10月 「高田から松の川緑道を日吉へ」
鎌倉下道を下ってきた頼朝が、欄干に手綱をかけたとされる駒が橋がありました。
・2018年5月 「三ツ沢上町から鎌倉下道・保土ヶ谷道を歩く」
  保土ヶ谷から三ツ沢台へ上がるルート探しにたいへん苦労しました。
・2018年7月 「港北の緑陰をたずねて」
「住宅街奥に隠れ里山」という神奈川新聞に載ったコラムに魅かれて訪ねた綱島市民の森を出たところで鎌倉下道を発見しました。

鎌倉下道・餅井坂に残る古い石碑

既述しましたが、八聖殿の歴史散歩でつい最近になって、2回、鎌倉道を表に出しての散歩を経験しました。昨年1月に『鎌倉上道と飯田・和泉地区』、今年3月の『奥州へと続く尾根道をゆくー鎌倉下道 戸塚・栄・港南区境ー』です。わたしとしては、この散歩を通じて鎌倉道の存在をはっきりと認識できた貴重な経験でした。飯田・和泉といった、いわば田園地帯をゆったりと進む上道、それとはまったく対照的に、上道とは距離はたいして離れてはいないのに、3区々境でせめぎ合うように開発された大規模な住宅開発地の中を、寸断されつつ遠慮がちに進む下道。ともに印象的でした。このことに刺激を受けたわたしは、「5人の歩こう会」でぐみょうじ道(鎌倉下道)を歩く計画を立て、5月の末に実施しました。スタート点は、先月載せた鎌倉街道の地図上で下道の出発地となっている上永谷としました。地下鉄ブルーライン上永谷駅で下車し、バス停永作から相模・武蔵の国境だった道を、市立南高まで(大久保台頂上)上り、バス道に沿って東へ少し下り、久保坂でバス道を捨て、餅井坂を下って行きます。下りきったところに、「聖護院道興師」(室町期の僧侶 関白の子青蓮院門跡)の古い石碑があり、この道の古いことがわかります。そこから弘明寺へはほとん道なりに進めば達します。弘明寺から、かねさわ道との合流点である保土ヶ谷岩井の「北向き地蔵尊」までは、一部の道が宅地開発によりわからなくなっていますが、なんとかたどり着けます。

こうして、わたしは何年か前に踏査した「かねさわ道」、そして今回の「ぐみょうじ道」と、二つの代表的ないにしえの道を歩きましたが、その結果として、鎌倉を発し保土ヶ谷で合体するまで、双方、途中で交わることのまったくないことを確認できました(前号での記述の一部には誤解がありました)。保土ヶ谷から先は一本の道、鎌倉下道となるのは正しいとして、そこに至るまではどちらが下道なのかという点、地元鎌倉でも二つの説があるわけで、令和の時代となったいま、どちらが正しいのかにこだわる必要はないのでは、と考えています。見方によっては、双方の道とも鎌倉道で、それが保土ヶ谷に至って、1本の鎌倉下道として結ばれているとも考えられるのではないでしょうか。
横浜市内いにしえの道についていろいろ書いてきましたが、鎌倉中道に関しては、わたしはまだ本格的に歩いたことがありません。中道が走る横浜西北部の旭区・瀬谷区となると、拙宅のある磯子から交通の便がわるく、なかなか踏み込め入れないのです。しかしこれからの目標として、ぜひ積極的に歩いてみたいなと思っています。わたしの「いにしえの道」探訪、まだまだおわりそうもありません。

(2019年6月)



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