ブルー・シッシ

京浜急行ブルートレイン

このトピックに何度か書いた記憶がありますが、都下の日野市から現在住む横浜磯子区へ移って以来、40数年間、同じマンションに住み続けています。それだけの年数ともなれば、建物は古くなり、広さも家内と二人ならまあ何とか生活できるといったところでしょうか。男として甲斐性がないと言われれば、まさにその通りで、自分でもつくづく情けないと思っております。ただ今の住まい、唯一ともいえる大きな利点があります。それは、何しろ交通の便がよいという点です。京急の最寄り駅までは、ふつうに歩いて3分もあれば電車に乗れますし、JR磯子へも速足なら10分で行けます。バス停もマンションの入口前と、歩いて4、5分のところとの2か所あり、市バス・京急・神奈中・江ノ電といったバス、それもかなりの数の路線が通っていて、市の敬老パスで利用できるのです。たとえばJRでいえば、磯子をはじめ、そのとなり駅の根岸、新杉田(ここから敬老パスで乗れるモノレールが接続)や市の中心部である桜木町・横浜、そして、わたしの趣味である古道散策の拠点となる保土ヶ谷や、大船に近い根岸線の洋光台・港南台へも結ばれています。さらに言えば、バスで金沢八景まで行きそこで乗り換えれば、隣接する鎌倉へも敬老パスで行けるのです。同様に、京急のとなり駅である上大岡からは、敬老パスを使って市営地下鉄ブルーラインでJR戸塚へ出られますから、そこを拠点に東海道や横須賀線で湘南や、鎌倉・逗子方面へ足を延ばせますし、新横浜や横浜の北部に展開するニュータウンへも行けるのです。こんな便利な場所は、そうはないでしょう。

拙宅から京急の電車を望む

拙宅から京急のレールまで、直線距離で150メートルぐらいでしょうか。ここへ移る前、あまりの近さに、家内は騒音や振動の影響を心配したようですが、わたしはあまり気にならず、むしろ部屋から電車の走行を毎日見られることの方を楽しみにしたほどでした。べつに鉄道少年でもなかったのに、なぜだったのか、幼少期に経験したある出来事が影響しているような気がしています。戦前の話になりますが、それまでに会ったこともなかった群馬に住む祖母が亡くなった際、何を思ったのか父が葬儀に連れて行ってくれたのです。母がわたしの弟を生んで間もなくのことだったので、長男だったわたしをまだ存命だった祖父に引き合わせたかったのでしょう。見ず知らずの大人たちの中で、話し相手になる子がいるでもなく、外へひとりで遊びにも行けずに、祖父の家から小さく見えた煙を吐いて走る信越本線の列車が、ゆっくりと視界から消えていくのを、飽きもせず眺めていたのです。そのことだけが、不思議なことに、いまなお脳の中の「海馬」(かいば)の中に大事に残されていたのです。そのような経験から、拙宅から京急の電車を眺めることが、ここに住むことの楽しみの一つになっていました。ところでその京急ですが、このこともトピックに何度か書いたように、わたしの生地は品川、しかも京急の沿線で、終点品川から三つ目の南馬場駅(現在は南北が合体して新馬場駅)のすぐそば、それこそ徒歩3、4分のところに住んでいました。高校へ通うようになってから通学・通勤に京急を利用しており、親元を離れて世田谷・芦花公園の公団の単身寮へ入った昭和38年(1963年)まで、そして横浜へ移住してから今日に至るまで、通算すれば50年以上(海外勤務の年数を含めて)も京急との長いお付き合いがつづいているのです。その長いお付き合いを考えれば、京急に愛着を感じないはずがなく、現在の住まいから離れがたい理由も、あるいは理解していただけると思います。

わたしにも写せます

わが家は典型的な女系家族で、男の子がわが家を訪れたということは珍しく、記憶では、家内の妹のところの甥一人がいただけです。その児は電車好きで、わが家へ来れば、他のことには興味を示さず、ひたすらベランダへ出て電車を見ていたものです。考えてみれば、家屋の建て込んだ都会で育った児というのは、自分の家から、走行する電車を眺めるなんてチャンスはあまりないでしょうから、わが家へ来てそれができたことがよほど珍しかったのでしょう。それも、ただ電車の走るのが見えるだけでなく、わが家からの眺望には、ほかとは一味違った楽しみがあるのです。まず、駅がすぐそばにあり、そこで止まる電車、止らない電車があることで走行が大きく異なります。ちょっと離れたところには大きくカーブする箇所があって、電車はただ一線になって走るだけでなく、腹を弓なりにして走る姿も見えるのです。またカーブを過ぎてすぐに踏切があり、踏切には警報器と警報灯が備えられていて、点滅する赤の警報灯がよく見えるし、湿度が高かったり、寒い日などは、なめらかな感じの京急独時の警報音を耳にすることもできるのです。走る電車の編成も、日中には、たまに短い4両編成を見ることもあり、ラッシュ時には最長12両(8両・4両の連結)、その他に6両、8両があります。走る車両の所属会社となると、これはたいへんにぎやかです。むろん大半は京急ですが、次いで相互乗り入れをしている京成電鉄と、それに、たまには都営地下鉄浅草線の車両もあります。さらには驚くことには、京成高砂から白井や印旛日本医大方面へ向かう北総鉄道といった会社の車両まで走っているのです。そのようなわけで、各社が所有する複数の、形状、色彩のまったく異なる車両が走ることになり、その分、電車好きな方には興味がつきないのではないでしょうか。

停車中のイエロートレイン

わたしはかつて、神戸市内の病院改修工事に携わった関係で、足かけ3年間、神戸へ単身赴任していました。その間、阪急電鉄をしばしば利用しましたが、同社の全車両に施された、あの阪急マルーンの茶色の車体に魅せられ、さすが私鉄の雄阪急だと、その徹底ぶりに感服したものでした。ひるがえって他社、とくに京急の車体を見ますと色とりどりであり、阪急の一貫した統一性と比べると、なんとなく節操がないな、という気持ちでいました。その見方を打破するきっかけをつくってくれたのは、間もなく満2歳になろうかという時期にわが家に帰省していた孫娘でした。阪急の会社(車体)カラーである茶色に対して京急はと言えば、一時テレビのCMで流れていた「赤色の電車に乗って〜」と歌われた、その赤色でしょう。わたしも赤色だと認識しているのですが、京急の場合、社内でも徹底して赤にしているわけでなく、赤とクリームホワイトのツートンカラーの車体もあるし、それに、乗り入れている他社のばらばらなカラーの車両が走るわけですから、わたしは節操がないという気になっていたわけです。ところで、アメリカ・カリフォルニア住む孫娘は、走る電車がよほど珍しかったのか、電車が通るたびにベランダのそばまで行き、「わあぁ!電車だ、電車だ」(たぶんこんな日本語表現?)と喜んでいました。そのうち、いきなり「ブルー・シッシだ!」、と言い出したのです。見ると、車体が青色に塗装された電車が通り過ぎるところでした。当人は青い電車の意味でブルー・シッシと言ったのでしょう。電車がなぜシッシなのかよくわかりませんが、母親に言わせれば、定かではないけれど、たぶん、機関車トーマスがシュッシュッっと音を立てて走るのをみて、本人はそのつもりでシッシと言っているのではないかとのことでした。彼女が電車に興味を持っていることを知ったわたしは、遊びに行った観音崎京急ホテルの売店で見つけた、2両の赤い電車とレールのセットのおもちゃを買って上げたところ、大喜びでアメリカへ持ち帰りました。その後、京急デパートの玩具売り場で青い電車のセットが出ていましたので、それも求め、EMSで送ってあげました。しばらくは2組のセットで楽しそうに遊ぶ姿をスカイプで見たものです。もっとも、そう長続きはせず、こんどは、何回か利用した飛行機に興味を持ち、分かりやすいキーンという表現で飛行機を言い表しており、「こんど、キーンで行くから待っていてね」なんて言ってくれ、老いたじじ・ばばを喜ばせてくれたものです。

京急最新塗料の車両

京急が青色塗装の車両を走らせたのがいつの頃からか、よくは知りませんが、孫娘に教えられるよりずいぶん前からだったと思います。節操がないと思っていたわたしは、せいぜい「また変えたか」の思いで、さして関心を持たなかったのです。しかし、KEIKYU BLUESKY TRAIN と称したこの車両、特急電車停車駅などで落ち着いて見てみると、案外しっとりとした、深みのあるいい色合いです。孫に弱いのも事実だとしても、停車しているときの色をよく見ると、ほんとうに見栄えすることも事実で、すっかり気に入ってしまいました。数年前から、京急は黄色の電車も走らせるようになっています。むかし映画で観た、黄色は卑怯者のイメージ色だということが頭から抜けないでいましたが、高倉健の名作『幸福の黄色いハンカチ』を観て以来、嫌いではなくなりましたが、それでもまだ好きな色ではありません。しかし、KEIKYU YELLOW HAPPY TRAIN (しあわせの黄色い電車)と称される黄色の電車を、止まっているときに見ますと、たしかに心が温まるようで、なにか幸せをもたらせてくれそうな色調です。京急カラーの赤色についても、最近1000系車両に施された赤とクリームホワイトとのツートンカラーは、たいへん切れのいい色調で、華やかな色彩でありながら落ち着きもあり、「京急もなかなかやるのう」の思いがしております。

(2019年3月)



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