消えゆく下町ことば

映画やTVドラマになじみがうすいという方でも、沢村貞子という女優さんの名前ぐらいはご存知だと思います。独特な存在感のある、名バイプレーヤーだったといえるでしょう。1908年東京浅草生まれの、いわば生粋の江戸っ子です。狂言作家の次女だといいますが、兄がどんぐり眼で知られた4代目澤村國太郎、弟が、これまた名バイプレーヤー(いや、名優と表現すべきか)の加東大介だということで知られ、甥に長門裕之、津川雅彦、といった俳優がおり、まさに俳優一家の中で育った女優さんでした。その上、最初の御主人(のちに離婚)がまた、忘れ得ぬ俳優藤原釜足だというのですから、ある意味できすぎの感がするぐらいです。むろんわたしも、その人生に裏打ちされた渋さ、それでいて渋さの中に隠された小粋で艶やかな演技が大好きでした。しかし、それ以上にエッセイストとしても知られており、平易な文章の中に挟み込んだ隠し味的な「ひねり」のきいたエッセイには、おもわず「うぅ〜ん!」と頷いたものでした。なかでも、『私の浅草』は下町の風情を生き生きと綴り上げた名著だと、つとに知られております。わたしは、その姉妹編ともいうべき『私の台所』をいまでも時折引っ張り出しては読むことがありますが、料理のことは門外漢なのでさておき、文中で彼女が使っている「下町ことば」にたいへん興味を持っています。ところが、わたしの世代では、つい最近まで使っていたはずの何気ないことばが、いつのまにか使われなくなっていることに気付いたのです。考えてみればそれも道理で、生活環境が一変しており、使うこと自体にムリが生じてしまうのですね。それにしても、長い間使われていた言葉が消え、若者が使うへんなことばが栄えてしまうことも、淋しいことですねぇ。そんな「言の葉」のいくつかを取り出してみました。

・へっつい
ずいぶん難しい漢字ですが、竈(かまど)のことを「へつい」と言います。それがなまって「へっつい」になったわけです。沢村貞子さんの少女時代のお宅では、まだお釜を「へっつい」にのせてご飯を炊いていたらしく、いまやわらべ歌になってもいいような教え詩(?)「あとさき(私の記憶では「はじめ」)チョロチョロなかパッパ、あかご泣くともふたとるな」、と母親から教えられたことを書いています。もっとも、彼女の時代でも都会にはガスが引かれ、年頃になったころには自宅から「へっつい」は姿を消していたようです。彼女よりずうっと年齢が下がるわたしの子供のころは、都会ではもう見られませんでしたが、母の実家の千葉や、戦時中疎開していた群馬の方では、まだ現役で活躍しており、その点では、私にとってはなつかしい言葉です。いまやガスどころか、もうはるか昔に自動炊飯器(電気がま)が登場しており、「へっつい」の姿をもとめること自体難しくなっているでしょう。それでも古い民家、あるいはお寺さんへでも行けば、あるいは「へっつい」そのもの、場合によっては黒く煤けた大きな釜も一緒に見ることができるかも知れません。

・おひつ
「へっつい」に釜をのせてご飯を炊けば、つぎは「おひつ」ということになります。「おひつ」は飯(めし)びつの丁寧語で、べつの表現では「おはち」ということになります。「おはち」となれば、つい最近まで口にしていたことをご記憶の方も多いのではないでしょうか。それにしても、現在は自動炊飯器の時代、その内鍋が実質「おはち」代わりになっているわけで、「おひつ」はむろんのこと、「おはち」も自然に消えてゆく運命なのでしょうか。ただ、わたしの家ではとうに内鍋派ですが、もしかしたら内鍋に炊き上がったご飯を、丁寧に「おはち」に移されている家庭がなくなってしまったとは言い切れません。わたしは、そのような奥様がまだいらっしゃることを願っています。

・おみおつけ
「おひつ」にご飯が移されれば、朝食ならご飯に「おみおつけ」が付けば十分でしょう。「おみおつけ」は、漢字で書くと「御御御付」となるのだそうです。辞書によれば、味噌汁の丁ねい語だと説明されています。わたしも、ときにはこの言葉を使いますが、およそ丁ねいということを意識して使ったことはありません。むしろ、どこが丁ねいなのだ、という感じがしています。何かの本だったか辞書だったかに、室町ごろから使われはじめた女房ことば(宮中の女官や高貴なところに仕える侍女が使う隠語的な言葉)だと説明されていましたから、もしかしたら、江戸城の大奥から宿下がりした女性が使っているのを耳にした江戸下町のおかみさんたちが、小粋がって使ったことが流布したのではないでしょうか。国語辞書には、「おみおつけ」をそばのつけ汁の意味としても使うと記されています。しかし、わたしも下手の横好きで「そば打ち」をしますが、そば打ち教室でかつてそのような呼び方を聞いたことはありません。

・おこうこ(う)
 おいしいご飯に、おみおつけがよそわれれば、もうそれだけで馳走だといえるでしょうが、それにおいしい「おこうこう(香香)」でも付こうものなら、わたしはそれで、もう大満足です。ましてや「香のもの」が京菜だったりしたら顔がほころんでしまうでしょう。この「おこうこう」も、最近はあまり使われなくなり、使うとしても「おしんこう(お新香)」ですね。浅漬けの人気が高まっている現在、「あたらしい香のもの」の意味で「おこうこう」よりは「おしんこう」が使われる傾向だといえるのかも知れません。あるいは、ずばり「漬け物」と表現することが多くなっているのでしょうか。沢村貞子さんは、著書の中でこの項の最後を、こんな文章で締めくくっています。「さあ、私も今日からまた美味しいお新香を楽しみましょう。お茶漬けサラサラおこうこバリバリ。みなさまも漬けてごらんになりませんか。いろとりどりの漬ものにご主人も相好をくずすのではないかしら。男の人は案外好きですものね。」、いやぁ、おっしゃる通りです。

・こけ(虚仮)
台所関連はこのへんにして、日常使うことばの例からいくつか挙げてみましょう。虚仮(こけ)という言葉、ふだんあまり意識しませんが、男の人ならば何気なく使うことがあると思います。本来は、内心と外相とは異なるものだということを意味する仏教語だそうですが、転じて愚かなこと・人の意味に使用します。わたしのような俗人は転じた方の意味で使い、「こけにする」と言えば、他人をばかにする意味で用い、もっと簡略化して「こけっ!」と相手を罵倒したりもします。「虚仮も一心」という熟語もありますが、もうめったにつかわれることはありませんね。

・ひきずり
 漢字表現すれば「引き摺り」ということになりますが、文字通り引きずることで、このままでしたら、それまでのことです。しかし、「ひきずり」にはもう一つ、着物の裾を引きずるという意味があって、それが転じて、美しい着物を着てちゃらちゃらするだけで働かない女性をさすときにも使うようです。これも、城中であるていど地位の上がった侍女が宿下がりした折など、家人が上を下へのもてなしでちやほやした際など、近所のおかみさんなどから「いやだね、お引きずりで」、なんて悪口をいわれたのではないでしょうか。沢村さんは、文中で「女のくせに家事をしないようなひきずりにだけはならないでおくれ、私の母はよく言ってたけれど……」、と使っています。しかし、いまはもう、死語に近いのではないでしょうか。それよりか、現代の女性は家事をしていればよい、という時代ではなく、むしろ男性以上に外で活躍する人が多くなっているわけですから、「ひきずり」が悪いなんてことはうっかり言えなくなっていると申せます。

・たしない
 「たしない」とは「足し無い」のことで、乏しいとか、苦しいの意味で、真偽のほどは知りませんが、広島から山口にかけての方言が東京の下町へ流入したようです。沢村さんはこんな使い方をしています。「一家の稼ぎ手の父の前に鰻の蒲焼きが出されるときでも、すねかじりの子供たちは里芋とこんにゃくの煮つけのような、たしないものと決まっていた」と。粗末な、とか貧しい、といったような意味でも使われていたのでしょう。このほかにも、彼女は、すごく便利だなと思わせるこんな使い方もしているのです。何かちょっとしたことで他人に贈り物などをするとき、品物ではさほど喜ばれないかもしれないということで、現金を包む例はよくあると思います。ところが、現金の場合、どう言って渡せばいいのか困ったという経験した人は多いことと思います。結局、「些少ですが」と言いつつ、あとは口をもにゃもにゃとごまかすしか手はないでしょう。彼女はこんな使い方をしているのです。「何をさしあげていいのかわかりませんので、ほんの気持だけということで、たしないとは思いますがお収めください」(一部筆者加筆)と。なかなか洒落た使い方だと思いますが、考えてみたら、相手が「たしない」の意味を理解してなければ使えませんね。じつは、わたし自身、この「たしない」ということばを聞いたことがなく、いくら洒落ていても、結局は、すでに死語になったにちがいありません。

思いつくままに、いくつかの例を挙げてみましたが、こうして書き出してみますと、消えゆく言葉というのは存外多いもので、他にも多々あると思います。そして消えゆく理由は、その言葉の意味するところの対象物が、時代の流れとともに、それにとって代わるものの出現で消えてゆき、結果として言葉そのものも消える運命だということができるようです。そのように考えますと、いろいろな理由で使われなくなった言葉に、いつまでも引きずられることはなく、あたりまえのことかも知れませんが、読み手に分かりやすい言葉を選んで使うことの方が理に適っているのだ、と思うべきなのでしょう。ただし、古語として後世には伝えなければなりません。辞書にだけはしっかりと残してほしいもの、と願っております。

(2012年10月)

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