拙宅を訪れた外国人

雲仙のゴルフ場でのM氏夫妻

東京・日野市の多摩平団地から現在居住している横浜・磯子のマンションに移ったのは1973年(昭和48年)10月のことでした。3LDKの、当時としてはごく平均的な庶民の住宅だったと言えるでしょう。マンションとして、特段の取柄はなかったのですが、ただ1点だけ、京急の駅前で、JR最寄り駅へも徒歩15分で行けるという交通の便のよかったことだけです。この点だけは、買い物をする上で、あるいは子どもたちを育てる上でも、多少帰りが遅くなってもさほど心配する必要がないなど、いろいろな面から助かりました。何よりも、わたしが会社へ通う上で片道30分で済み、こんなに都合いい場所はありませんでした。それまでの多摩平からですと、横浜・鶴見の会社まで、JR中央線、南武線、そして京浜東北線と乗り継ぎ、接続がよくても最低で1時間40分はかかっていましたので、まるで通勤天国みたいな気持ちになったものでした。冬など、会社を出るころは降っていなかった雪が、川崎で南武線に乗換えて間もなくチラチラと降りはじめ、登戸を通過する頃には本降りとなり、それからは終点立川に近づくにつれつよくなって、豊田駅に着いたときはもうたいへんな大雪。駅から拙宅までは10分ほど、雪はつめたい高尾おろしに乗ってちょっとした吹雪状態。つくづく「ああ、やっぱ遠いな、いやだなあ!」と思ったものでした。

自宅に招いたエクアドルの技術者たち

交通の便がよいということは、知人・友人を自宅に招く上でも好都合でした。そのことに便乗して、臆面もなく、外国人まで招くようになりました。はじめてのお客さんは、南米・エクアドルの方たちでした。わたしにとってはじめての外遊先は南米・コロンビアでしたが、帰国して間もなく隣国エクアドルの仕事を受注したのです。コロンビアで訪問した太平洋岸の港町ツマコと国境を接した港町エスメラルダス(2009年8月号 「ツマコとエスメラルダス」参照)に新設する製油所の建設業務です。受注後すぐに顧客であるCEPE(エクアドル石油公社)の技術者たちが会社に乗り込んできました。1974年のGW明け頃だったと思います。設計をはじめるにあたっての基本事項の確認のための来日で、建築担当のバジェーホさんもその一員でした。製油所の建設と並行して従業員用の住宅建設もあり、すぐに設計が始められるため、彼は8月初旬に帰国し、わたしも設計の管理と、業者選定のために少し遅れてエクアドルに向かいました。エスメラルダスの現場での準備作業も始まっていましたが、わたしは顧客、設計事務所、そして建設業者がある、首都・キトに滞在することになりました。バジェーホさんは、着いたばかりのわたしを自宅に招いて下さいました。もう古いことで記憶は茫々としていますが、一見下町の暗くごみごみした感じの街中の家で、壁に家族の写真がたくさん飾られていました。たしかお茶とケーキのおもてなしだったと思います。それまで南米で、商社や知人の日本人のお宅に招かれたことはありましたが、現地の方から招かれたことは初めてのことで、うれしかったと同時にたいへん興味深いことでした。この年の10月にいったん帰国し、翌年の2月に現場勤務のためにふたたびエクアドルに入国することになりましたが、わたしはエクアドルで受けた数々のご好意に、多少でもお返ししたいと考え、在日中の顧客の技術者を自宅に招くことにしました。招いたのは、ロハス(プロジェクト・マネージャー)夫妻とメカ担当のアンドラ―ゼさんの3名でした。それこそお茶とケーキていどの軽い接待でしたが、それでもたいへん喜んでくれ、ロハス夫人などは、日本の中流家庭の生活レベルを興味深そうに見回していました。かろうじて残っていた写真を見ても、いかにも窮屈そうで、いま考えても冷や汗が出る思いです。ロハスさんはたいへん好感の持てる真面目そうな紳士で、のちに現場工事が始まってからも、他の人がめったに姿を見せない中で、一番熱心に現場を見て回っていました。のちにCEPEの総裁になられましたが、もっともなことだとわたしは思っています。お二人ともingeniero(インフェニエロ・技術者)の資格を有しており、南米でこの肩書を持っていることは、文系のabogado(アボガド・弁護士)とともに、大学教授・医師などと並んで社会的に高い地位にある人として尊敬されております。我が家では、たしか上の娘が在宅しており、お三方が帰られる際は、娘と一緒に最寄りの駅まで見送ったものでした。

自宅でユセフ・サイトさんと並んで

エクアドルから帰国したのは1977年2月のことでした。この年はたいへん忙しく、もどってすぐにパリに出張、パリからもどったかと思えば、またパリ経由でサウジアラビア・ジェッダへ行ってくれという有様。秋になってようやく落ち着いた頃、エクアドルの現場でたいへんお世話になったM氏夫妻がアメリカから来社しました。次の年に赴任する予定のジェッダの現場に、氏も同じく行かれるということで、会社の上司に付き添って雲仙へ1泊旅行したことはすでに先月号でご紹介した通りです(2018年7月号 『日本のクラシックホテル』参照)。そのような関係もあって、拙宅にそのM氏夫妻をディナーにお招きしました。10月のはじめのことで、雲仙への旅はそれから10日ほど経ってからのことだったのです。それから2週間ほど後のこと、なんと、M氏の下で働いていたL氏が奥さま同伴で来社したのです。そうなると、立場上やはり招かないわけにいきません。わずか3週間の間にアメリカ人夫妻を2組も招いたことになるのですが、声をかけるだけのわたしは気楽なものですが、ホステス役の家内はさぞかしたいへんな気苦労だったのだと思います。それでも、笑顔を絶やさず得意の手料理で二人のアメリカ夫人を喜ばしたのですから、内心、「おぬしやるな」と感服しきりだったものです。入口からリビングまでの狭い廊下、廊下とリビングとを仕切ったガラス戸、大きな肩を狭めるように入ってきたM氏が、それでも多少は広いリビングの空間にホッとしたように、現場ではついぞ見せなかった愛嬌に満ちた表情を見せ、片目をつぶったものでした。わたしもホッとした反面、外国人にとっては、これが噂に聞く「ウサギ小屋なのか」、という日本家屋の実態を見られてしまったなと思い、恥ずかしさのあまり招いたことを悔やんだものでした。彼らが拙宅でどのように過ごしたのか、家内の料理がどんなもので、その席に娘たちがいたのかどうか、まるで覚えておりません。とくにはじめてお会いしたL氏夫人がどのような方だったのかは、我が家にとっては一大イベントだったはずなのに、写真の1枚も残さなかったこと、いまにして思えば残念なことでした。

ユセフからの贈り物・アラビア風の刀剣モデル

サウジアラビアでの大事な顧客だった同国石油公団の技師ユセフ・サイトさん一家もわが家へお迎えしました。それも1回だけではなく、彼からも宿舎にしていた横浜・外人墓地ちかくの見尻坂の瀟洒なマンションへ招いていただき、その後も、もう一度拙宅、そして富士北麓の拙荘へもお出で下さいました。このように書きますと、家族ぐるみでのよほど親しい関係だと思われるでしょうが、じつは、ジェッダ滞在中は、彼は担当の違う分野の技術者で、わたしはさほど親しくお付き合いしていたわけではなかったのです。どういう任務で日本へ来られたのか知りませんでしたが、1980年の6月にわたしがジェッダから帰国した後、あたかもそれを追うかのように、たしか夏に入る前に来日したのです。乳飲み子を抱えて、慣れない日本の生活に奥さんはさぞかしたいへんだろうと、8月に拙宅へ食事に招いたという次第です。サウジアラビア人が日本の家庭を訪ねるなんてことは、そうざらにはないでしょうから、ユセフ夫妻もたいへん喜んで下さり、また、わたしの娘たちも、大きな目がクリクリとして愛くるしかったガドゥーラちゃんを可愛がっていました。そんなことで3度ほど行き来するなど、家族ぐるみのお付き合いをしたわけです。当時、わたしは多忙をきわめており、また直接の仕事関係があったわけでなかったため、その後の彼のこと存じ上げなかったのですが、2、3年経った夏に会社でひょこっと出会い、旧交を温めるべく、山荘にお誘いしたのです。奥さまは二児の母親となり、ガドゥーラちゃんもお姉ちゃんになって、母親の手助けをしているつもりなのでしょう、高原の坂道を、赤ちゃんの乳母車を一緒になって押していました。
拙宅へ招いたわけではないのですが、山荘のほうへ招いた方としては、サウジアラビア西海岸に建設する石油化学プラントのお客さんがいます。サウジの会社といっても、サウジアラビア人ではなく、パキスタンの方で、1組はマネージャー・クラスのマジッド夫妻、もう1組は土建担当のカーン夫妻一家です。工業化が急速に進んでいた1970年代以降、サウジ国内の生産会社は近隣諸国から多くの技術者を国内へ招致していました。とは言っても、実権を持たされているわけではなく、日本でいう中間管理職、まさにサウジ人と日本人との間の緩衝材的な、それもサウジ人には絶対的に逆らえない立場だったと申せます。そうした立場の方たちですから、たとえわたしたちに無理難題を押し付けてきたとしても、彼らもつらい心境なのだろうと斟酌して、可能な範囲で彼らに添ってあげようと考え、ときには房総半島の方へドライブなどに誘ってあげました。とくにカーンさんはお子さんもいましたので、1泊の予定で山荘へお連れしたのです。いずこの国も、男の子はいたずらっ子、はしゃぎ回るうちに障子に穴をあけてしまい、親に叱られしょんぼりしていました。気の毒だったのはカーンさん、器物損壊をどう弁償すべきなのかを真剣に考えていたようです。「マア・レーシュ」(アラビア語で「気にしなさんな」の意)というわたしの一言で、安堵した彼の表情、かえってこちらが気の毒に思ったほどでした。マジッドさんは、カーンさんより来日が古く、彼の上司でもあったので気を遣って、カーンさんより先にお誘いしました。当時、プロジェクト・マネージャーで、奥さんを同伴していましたので、失礼があってはいけないと思い、お泊めはせずに富士北麓から静岡側の白糸の滝を回るドライブで済ませました。その他にも、経緯をまったく覚えていませんが、わたしが所属していた会社の社員夫人だというイラン人が、ご主人の外遊中に彼女の日本人の友人たちと拙宅を訪ねてきました。そんなこんなで、よくも臆面もなく、いろいろな外国人を招いたものと、今ごろになって恥ずかしい思いをしております。   

    

(2018年09月)

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