横浜にはこんな碑も…… 「君が代由緒地」碑
わたしの住む横浜は、幕末に欧米5か国との条約調印の結果、日本ではじめて開港されたことで、西洋文化の流入地になったと言えます。したがって、碧眼によってもたらされた事物は、日本にとってはいわば、すべてが「事始め」ということになるわけです。横浜を知る人はご存知かと思いますが、街を歩いていますと、よく「何某発祥の地)とか「なにがし開源碑」といったような碑をよく目にします。その中の一つに、「 国歌君が代發祥の地」碑もあります。このこと、じつはわたし自身、つい最近まで知りませんでした。なにしろ「君が代」と横浜、どう考えても結びつかなかったものですから……。ところが今年のはじめ、日ごろ通っている太極拳教室の仲間数名と本牧から山手へと歩いていた際に、気付いたのです。碑のある場所は、中区の山手公園から少し下った本牧山妙香寺の境内です。最寄りの駅はJR根岸線の山手。駅へ行く途中には、明治の初めに駐留していた英軍の射撃訓練場だったところがあり、その跡地は、現在は500メートルが一直線となった大和町商店街となっています。もともと明治の初期、根岸から山手にかけての広い地域は外国人居留地だったと称してもいいほどで、皮肉なことに、戦後も進駐軍によって広域が占領されていたところです。戦後間もない頃、父の測量の手伝で横浜へはよく連れていかれましたが、市電が麦田のトンネルを抜けて本牧界隈に入りますとまるで別世界だったこと、いまでも鮮明に覚えています。 本牧山妙香寺山門 ところで本題の碑のことですが、こんな話が伝わっています。戊辰戦争のころ、時流にのれず国許で悶々としていた薩摩藩国父島津久光(藩主は久光の子忠義)は、たまたま鹿児島湾に停泊中だったイギリスの軍艦から流れる軍楽隊の演奏を耳にし、いたく感服して自藩にも軍楽隊をつくるよう命じられたとのことです。薩摩藩ではさっそく「洋楽伝習生」として32名の藩士を選んで横浜へ派遣し、本牧山妙香寺に合宿させました。明治2年(1869年)末のことで、同寺を選んだのは、近くに英陸軍の連隊が駐屯しており、そこの軍楽隊長J.W.フェントンから吹奏楽を学ぶのに好都合だったからです。このことについて、作家の児島襄は小説『大山巖 第1巻戊辰戦争』の中で、戊辰戦争に勝利し薩摩にもどっていた大山弥助(巖の前の名)は東京の治安悪化に備えるために新政府軍大砲1番大隊長として薩摩藩の鼓隊員を同行して上京した、と記しています。この鼓隊員こそ、戊辰戦争の際、江戸を攻めるための東征軍(官軍・薩摩軍)の先頭に立った鼓笛隊(2010年12月号 『吹奏楽にはまって』参照)だったはずで、もともと鼓をたたき、笛を吹いていた「洋楽伝習生」たちの上達はめざましく、フェントンを喜ばせたに違いありません。そこでフェントンは、「近代国家は儀礼音楽(国歌)を制定して、各国互いに国の定めた楽譜にしたがってその曲を演奏することが外交儀礼上必須となっているので、日本もぜひそうすべきである」とつよく進言し、自分の作曲した曲を薩摩藩に進呈したようです。歌詞は、大山弥助が、日ごろ愛唱していた薩摩琵琶歌「蓬莱山」の一節「君が代」から採ったようです。この歌詞の原典は古今和歌集だといわれ、古来日本各地に祝い歌として伝わっており、とくに薩摩では独特の節回しでなじまれていたようです。薩摩のみならず、江戸時代には小唄、浄瑠璃、舟歌、祭礼歌、あるいは門付に至るまで広く唄われていたようです。こうして成立した「君が代」は、翌年、法香寺に隣接する山手公園(テニス発祥の地)でフェントン指揮による演奏会で公開されました。その様子は、当時横浜で発刊されていた英字新聞にもサツマ・バンドとして紹介され、好評を博したようです。 「国歌君が代發祥の地」碑 しかしフェントンの曲は洋楽で讃美歌風でもあり、日本人にはなじまず、とくに歌詞が和歌でメロディに合わせにくいため、普及にはいたらなかったようです。そこで、楽譜を変えるべきという声があがり、明治13年(1880年)に宮内省式部雅楽課の奥好義の付けた旋律を林廣守が曲(現在の「君が代」)にし、さらにドイツ人のフランツ・エッケルト(フェントンはすでに帰国)が吹奏楽用に編曲したものが11月3日(旧天長節)に公開されました 。「君が代」として官報に告示されたのは明治26年、事実上の国歌として扱われるようになったのは大正に入ってからで、存外新しいのだそうです。しかも、立法化されたのは平成11年(1999年)の「国旗及び国歌に関する法律」で、その中では、作詞読み人しらず、作曲は林廣守となっています。なお、フェントンから指導を受けた薩摩の「洋楽伝習生」たちは、ロンドンから到着したばかりの吹奏楽器を用いて本格的な吹奏楽を演じたようです。そのことから、妙香寺境内には「君が代の發祥」の碑とともに、「日本吹奏楽発祥の地」の碑も建立されています。 「日本吹奏楽発祥の地」碑
日本国々歌「君が代」に関連して、国歌に関して感じているところをいくつか記したいと思います。一つは、中学の音楽の時間だったと記憶していますが、声楽ご出身だった女姓の先生が、R.シューマンの歌曲『二人の擲弾兵』のレコードを聴かせてくれたのです。この曲の後半に、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」が引用されているのですが、先生がおもむろに「どなたかこの曲を知っている人は?」と質問したのです。わたしはむろん知りませんでしたし、生徒の大方は下を向いてしまいました。そのとき、Sという生徒がやおら立ち上がり「フランス国家ラ・マルセイエーズです」、と答えたのです。先生は「よく知っていましたね」と満足そうでしたが、わたしはびっくりしました。一つは曲のすばらしさに、そしてもう一つはそんなことを知っていたSに対してでした。いつも物静かにしていた秀才で、腕白だったワタシから見れば2,3歳は年上のような感じで、「とてもかなわないな」の思いを持っていたものでした。卒業後は会う機会が少なくなりましたが、輪島で修得した漆技術をベースにした伝統工芸作家の道に進んだS とは今でもメル友でいます。わかい頃、イギリスでバーナード・リーチのもとで彼の手伝いをし、世界的な女性ファイバー・アーチストであるシーラー・ヒックス(アメリカ人 パリで活躍)とも親交のあったSの造詣の深さ、とくに彼の幅広い読書力には、いまでも畏怖の念を持っています。話がすこし脇道にそれましたが、ラ・マルセイエーズといえば、覚えている方も多いと思いますが、映画『カサブランカ』で、ハンフリー・ボガード演じる主人公リックが経営する酒場でのドイツ国歌との競演は見ごたえがありました。ドイツ国歌「ドイツの歌」も力強くすばらしい曲ですが、あの場面では、やはりフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の勝利でしたね。ドイツ・ヒットラーの第3帝国の占領下にあったモロッコにあっても、ドイツに抵抗しようというフランス人たちの熱い思いが、あの場で斉唱する「ラ・マルセイエーズ」につよく込められていたのです。 (2016年09月) |
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