京都・修学院離宮 『棕櫚』5号表紙 わたしは立原正秋(故人)という作家が好きです。男らしい歯切れのよさに惹きつけられるからでしょうか。彼の小説はかなり読んでいます。それも箱つきの上製本です。小説ではないのですが、彼の作品に『日本の庭』(新潮社刊 昭和52年初版)があります。朝鮮に生を受け、幼児のころから臨済宗の古刹、慶尚北道・鳳停寺にあずけられ、そこの老師にきびしく育成された立原は、庭園に関して彼一流の識見を有しており、この著も内容がむずかしく、わたしは2度も途中で挫折しております。この4月に体調をくずし、室内で安静にしていた際、3度目の挑戦でようやく読了しました。正直に申して、内容の理解も不十分のままですが、立原は著のなかで、修学院離宮についてこのように述べています。「修学院の上茶屋の鄰雲亭から浴竜池をへだててはるか向こうの鞍馬・貴船のやまなみを見渡したとき、ここにもまたひとつの安堵があった。(中略)つくった庭と借景の自然が、これだけ整合され矛盾をみせないのは、他に例がないだろう。(中略)ずいぶんと風景を眺めてきたが、これだけ間然するところがない展開図は、やはりここだけのものである」。辛口で知られており、その著のなかでもたいへんきびしい評をしている彼としては、めずらしく修学院上茶屋からの景色を絶賛しているのです。わたしは我が意を得た思いでした。じつは、高校の美術の授業で、N先生から修学院離宮の話しをお聴きしたときから、ぜひ自分の目で見てみたいと、ある種のあこがれを抱いていたからです。わたしはお聴きした話を基に、3部から成る「人工的自然について」という一文を中学の仲間と発刊していた同人雑誌『棕櫚』5号に発表し、その中で「1.修学院離宮の研究」を書いています。高校生の書いた拙い文、しかも、若気の至りとはいえ、桂離宮を「平凡なありふれた庭」と記述するなど恥ずかしい限りですが、恥をしのんで、原文のまま掲載いたします。いま改めて読めば、文章そのものはむろん、漢字の使い方、読点の打ち方など稚拙さが目立ち、たいへん読みにくい文章ですがお許しください。 鄰雲亭から浴竜池を見下ろす
「人工的自然について 1.修学院離宮の研究」(同人雑誌『棕櫚』第5号 昭和28年6月1日刊から引用): 修学院離宮配置図 上記の文章を書いたときはまだ高校生で、修学院離宮を実際には見ていないときでした。実際に訪れたのは、大学在学中の春休みの時でした。通常なら入園手続がたいへんな修学院・桂両離宮へ日本建築史専攻のW先生のお骨折りで入ることができたのです。それも、先生の熱のこもった説明つきでしたから、建築学科の学生ならではの特権でした。以下はその時の感想文で、文中用いたピンボケの写真はその折の写真です。 中の茶屋御客殿
修学院離宮 昭和36年2月24日午前訪問:I君など2、3の友人と連れ立って夜行急行「瀬戸」で西下。早朝、京都駅に到着し、大原行きのバスを一乗寺高槻町で下車。東へ歩くこと約1キロ、どちらか言えば粗末な造りの修学院離宮の門に達する。奇妙な声を発する案内人に連れられて、下・中・上の茶屋に行くわけであるが、下、中の茶屋はさしたる見どころはなく、ただ、中の茶屋・御客殿の外縁折廻りの欄干がなかなか見事で、その下のピロティばりの空間設計など、ル・コルビジェに比して、何ら遜色ない建築家がいたのだと言ってもよかろう。 上の茶屋浴竜池周辺の刈込と山々
何年か前、高校のN先生からうかがった話を、私はまざまざと見せつけられた思いである。木立、そして刈込の巧妙な配置、やはり修学院離宮は名園である。前日大原へ行ってきたという学友の話しでは、雪が20センチ程積もっていたという。そう言えば、かなたの山々は白く化粧をしていた。多くの山々に囲まれたこの辺りでは、初夏ともなれば、カケス、ホオジロ、シジュウカラ、モズ、コジュケイなどの野鳥の声で賑わうとのことだ。いい処であった。この日の午後、京都大学のキャンパスを少しく歩いたのち、市電で四条大宮へ出て、そこから阪急電鉄で桂へ向かった。離宮は駅から存外遠く、20分はかかったであろうか。桂川のほとりに、ひっそりと麗人のごとく佇んでいた。 (2015年6月) |
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